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御嶽菅笠の青梅橋

 青梅橋は何度か姿を変えたようです。その姿を天保5年(1834)に発刊された 『御嶽菅笠』(みたけすげがさ)で目にする事が出来ます。日本橋から御嶽山まで、ほぼ16里(約64キロメートル)を、時には幟を持ち、菅笠姿の御嶽詣での旅人と共に案内される絵入りの御嶽山道中記です。その中に、青梅橋の図があります。現地が詳細に描かれ、周辺との関係が鮮やかに描き出されています。貴重な文化財であり、参考にしながら原図の雰囲気を毀さないように模式的に図にしました。
 
御嶽菅笠青梅橋模式図_edited-1
御嶽菅笠の青梅橋
(クリックで大)
 天保5年(1834)の段階では、青梅橋を中心に何軒かの家があります。つくりから青梅橋の北側(東大和市域)の家は、東大和市で伝えられるように馬宿と思われます。橋の南側(小平市域)の家は休息の茶店、或いは宿泊が可能であったかもしれません。

 鳥居と社(やしろ)が野火止の南岸(小平市側)に描かれています。立川市方面・小平市方面からの交差部です。この社が疱瘡稲荷とすれば、いつの時点か、野火止の北側に遷られたことになります。東大和市内では、天保7年(1836)に、疱瘡稲荷の御利益で病が治り、高木に同じお稲荷さんを勧請した話が伝わります。

 野火止の北側は千本桜とあるように、桜が植わっています。東大和市内で桜街道と呼ばれる所以です。
 橋を渡ると奈良橋方面に向かう道が描かれています。道しるべに導かれるように曲がりくねって山口観音方面に向かっています。現・青梅街道か、奈良橋を経て八幡神社の東側を通り山口観音に通ずる道、或いは、高木を経て貯水池に沈んだ杉本・山口に向かう道と思われます。

 この道しるべが、現在、西武鉄道高架の南(小平市域)に祀られている庚申塔であれば、安永5年(1776 小川村講中)に造立されていますから、この絵の描かれた時点で、すでに、60年近く、道行く人を見守っていたことになります。

 御嶽・青梅方面には、原の中に、丸山台の一つ家(現武蔵村山市内で、東大和市との境界近く)があります。天保7年(1836)11月1日に、賊が押し入り狼藉を働こうとして、逆に手槍で退治された話が伝わります。
 
 その他は「武蔵野原」と描かれます。野火止用水が開削されて間もなく、狭山丘陵の麓から新田開発をした村人達の汗の結晶である畑が連続しています。

 『御嶽菅笠』の絵はかっての青梅橋とその周辺を知る貴重な資料です。著者は斎藤義彦、出版は御嶽山の神官である靭矢市正(うつぼやいちまさ)です。貴重な版木は武蔵御嶽神社の御師宅に現存するそうで、青梅市の有形文化財に指定されています。西武鉄道高架の南(小平市域)に小平市が設置した案内板に、青梅橋部分が紹介されています。

勘定奉行 川路左衛門尉

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No title

この当時の青梅橋や野火止用水、茶屋など思うとイメージが
広がり楽しくなります。
疱瘡稲荷が用水の北側に移った理由も気になります。
現在は小平市側に移されましたから、元に戻ったということ
でしょうか。

こちらのページを、当方Blogの「勘定奉行 川路左衛門尉」の
ページからリンクさせていただきました。

幕末の慌ただしい中、通ったんですね

 対外的にも対内的にも、江戸城を空っぽに出来ないはずの慌ただしい中、何で、阿部老中一行は、羽村に行ったのでしょう?台風によって決壊した羽村の堰の修理竣工検査と云われますが、それだけで、幕府要人があんなに揃って出向くとは思われません。きっと、その後に展開した緊急課題が語られ、意志結集がされたのでしょう。青梅橋はその秘密も運んだようですね。これからも、たくさん紹介して下さい。 こちらからもリンクさせて頂きました。
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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