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藁で飢えを凌げ

藁(わら)で飢えを凌げ

 江戸時代の東大和市域のことを調べています。恐れ入ったお触れを紹介します。
 天明時代は天候不順に、浅間山の噴火(天明3・1783年7月)が大きく影響して、作物の不作、米価の高騰などが続きました。
 各地で飢饉におちいったことが伝えられます。狭山丘陵周辺も同じでした。村人たちは飢えに苦しみます。
 その天明3年(1783)10月3日です。幕府代官所の飯塚伊兵衛から、東大和市域の村々にお触れが届きました。現代文に意訳します。

 藁餅仕様(わらもちしよう)
 生わらを半日も水につけて置き、あくを出し、よくよく砂を洗落し、
 穂はとり去り、根元の方より細にきざみ、
 それを、むして、ほして、煎(い)って、臼(うす)にてひき、細末にする。
 その藁の粉、壱升へ米粉、弐合程入れ、水にてこね合、
 餅のやうにして、蒸(む)すか、又はゆでて塩か味噌をつけて、食事によし、
 また、きな粉を付てもよし、
 米粉の代りに葛蕨(くず、わらび)の粉、又は小麦の粉を混ぜてもよし
 但し餅にして蒸したものを臼で搗(つ)けば更に宜しい
 米穀が高値なので、食料の足しにするため、こしらえて食べるように作り方と藁餅の粉を試作する分、勘定所より渡された。粉は至って宜しいので右作り方の通り、村々で早速こしらえて、食料が足りない時の食事とするように早々村々へ順達せよ
    飯塚 伊兵衛
       卯十月三日 役所 (『里正日誌』2p349~350)

 これを書き留めた名主の杢左衛門さんは、直接の飢饉対応に、さぞ苦労されたと思いますが、村は不穏な空気に覆われたようです。追いかけるように、11月5日、代官所から
 「村において何事によらず徒党を組むものがあれば、村は言うに及ばず、最寄りの百姓ども申し合わせ、その場所へ行き、徒党の内、頭取、主立った者を見定め、搦め捕れ・・・」
 という命令が来ました。

 さすがに、村人は「承知しました」と返事をしますが、その後のことは一切無言です。表面従っているものの、あきれ果てて、うんざりってところでしょうか。むしろ、今に見ていろ!って唇をかみしめている気がします。

 食糧不足と買い占めにより、米価は上がりました。
・武蔵村山市の岸村では、天明4年(1784)正月、幕府に「扶食拝借」(食料)を願い出て、人口400人の内256人、約三分の二が貸し付けを受けています。
・また、2月27日には天明の打ち壊しがあり、瑞穂町の狭山池に集合した狭山丘陵周辺の多くの農民達が武蔵村山、東大和市域方面に打ち壊しをかけ、東大和市域では、高木村の名主・庄兵衛家が打ち壊されています。

DSC_71141400.jpg
 お隣の庭に咲く花、10月の朝顔でしょうか?
 クリックで大
 
  (2019.10.28.記)

  ネット・まちなか博物館への思い を書きました。 

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