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村人達はとまどった

俺の方は韮山県、お前は品川県

 さぞ、大変だっただろうと思います。ずっと付き合ってきた村が、突然、二つに分かれたのですから。
 慶応3年(1867)、徳川慶喜の大政奉還により、江戸幕府は幕を閉じ、明治新政府の支配に変わりました。
 慶応4年(1868)、閏4月27日、明治政府は「政体書」をだして、地方の支配機構を定めました。
 全国を府・藩・県に分けて、府に府知事(知府事)、藩に藩知事(知藩事)、県に県知事(知県事)を置きました。
府は京都、大阪、長崎、奈良、越後(新潟)、度会(わたらい)(現在の三重県)でした。
 県は幕府直轄領(天領)と旗本知行地を新政府が没収して設けました。「藩」は旧大名が支配する藩でした。
(しかし、この区分は長く続きませんでした。明治2年7月17日(太陽暦:1869年8 月24日)に、府は京都・東京・大阪の3つのみとされ、他はすべて県に改称されています)

 この制度から、東大和市では、韮山代官江川氏の支配地が「韮山県」、旗本領が「品川県」に属することになりました。そこで、高木村、芋久保村、清水村には旗本領があったため、韮山県と品川県が混在することになりました。

 韮山県に属した村
  芋窪村(天領分)
  蔵敷村(全部天領)
  奈良橋村(全部天領)
  高木村(天領分)
  宅部村(全部天領)
  後ヶ谷村(全部天領)
  清水村(新田分)

 品川県に属した村
  芋窪村(旧旗本領)
  高木村(旧旗本領)
  清水村(本田分)

 このゴチャゴチャは明治2年(1869)まで続き、4月に
 ・韮山県 芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村
 ・品川県 清水村
 と整理されました。村の運営は江戸時代と変わらず、名主 組頭 百姓代によって行われています。これらが整理されたのは明治4年(1871)7月の廃藩置県によってでした。
韮山・品川県の混在_edited-1 
(クリックで大)

 この県所属の混乱は、東村山市、東大和市、武蔵村山市、瑞穂町など狭山丘陵南麓の地域を通して同じでした。各市町史は共通してそのことを記しています。北麓の地域も武藏知県事、品川県、韮山県と所属県の名前は違いますが同じ状況が見られます。
 正確な図に出来ないのが残念です。(2014.08.03.記)


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野火止用水

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