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江戸の村から明治の村へ(明治8年)

  現在の市町村からは想像できませんが、江戸時代の村は小規模な集落が寄り集まって出来ていました。明治になって、名主は戸長と変わり、年貢は税となりましたが、旧来からのしきたりや仕組みは残り、下記のような問題がありました。新しい国づくりに着手した明治新政府はこの整理、解消から手を付けたようです。明治の村つくりです。明治6年(1873)12月、そのお達しが出ました。小規模な村の合併方針です。
 
・一つの村でありながら、旧幕府の支配地と旧旗本の支配地が入り乱れている
・そのため、戸数が5戸や10戸でも、それぞれに村役人が置かれている
・村の運営費用が嵩んでいる
・狭い地域で耕地や民家が入り乱れ、地番が複雑になっている
・租税や戸籍の上で支障がある
 これらを解消するため、一定の地域が集まって、新しい村を作るべきである。
 との理由でした。

  村人は面食らったでしょうし、不安もあったと思われます。恐らく、政府、県の強力な誘導、奨励があったのでしょう。明治8年(1875)、狭山丘陵に三つの新しい村が生み出されました。丁度、埼玉県と東京の境界に位置しているので、並べてみるとこの時期の総体的な動きがよくわかります。 

江戸時代末狭山丘陵周辺村の村

 狭山丘陵周辺の江戸時代の村はおおむね図のように位置していました。これが、次第に合併して行きます。

(クリックで大)
 明治8年、埼玉県側の合併

  多くの問題があったと思いますが、明治8年(1875)4月、山口の谷で広域な村づくりが始まりました。山口村と上山口村の成立です。所沢市史にデータが記されて居ますので、一部を引用して紹介します。(下p49)

 山口村 
  町谷 26戸 186人 菩提木 31戸 152 人 氷川 10 戸 67 人 
     打越 18戸 96人
  山口堀之内 21戸 107人 岩崎 71戸 385人 合計 177戸 993人

 上山口村
  堀口 56戸 336人 大鐘 17戸 110人 川辺 19戸 114人 
      新堀 27戸 151人 合計 119戸 711人

 明治8年、東京側の合併

  明治8年(1875)3月、宅部村と後ヶ谷村が合併して「狭山村」となりました。宅部は村山貯水池に沈んだ地域、後ヶ谷村は南麓の地域にありました。(狭山之栞では6月4日とします)

 狭山村
  宅部 42戸  後ヶ谷 49戸  合計 91戸

  合併の理由は、形式的には2つの村に分かれていましたが、「田、畑、山林、民戸、みな、ことごとく混錯」と云われるように、入り交じっていました。一族や同族者の新規開墾や分家の積み重なりによるものでした。そこへ、新政府から、地租改正の必要から、地番を振る地図をつくるべし、との達しが来ました。あまりにも、宅部と後ヶ谷の入り混みが激しく、整然とするには困難でした。そこで、両村を一ヶ村として、新規に整理された地番を設定することが浮上しました。 

  これを契機に、合併問題が急速に論議の対象になったと伝えられます。明治8年2月25日、関係者が連印をもって、両村を廃止し、新しく「狭山村」を設ける、改称合併願が提出されました。
 
(クリックで大)

  江戸時代の12の村が、3つの村になりました。その後も新しい村づくりは進められ、明治21年(1888)市制・町村制が公布されました。全国で7万1000余あった市町村が1万5000余に整理されます。狭山丘陵周辺ではまた、新しい動きをしました。別に紹介します。
  宅部村は、村山貯水池問題で紹介した内堀地域に江戸時代初期に設定された村です。(2014.07.28.記)
 



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