村山貯水池の建設
貯水池建設の決定
東大和市の近代に大きな影響をもたらせた出来事の一つが村山貯水池の建設でした。山口貯水池の建設と併せると、狭山丘陵周辺の村々に共通する画期とも言えそうです。
明治に入り、江戸が東京になり、西洋文明に接して問題になったのが「飲み水」でした。武蔵野の原野に掘られた素掘りの玉川上水や神田上水などに依存し、浄化施設は不十分でした。市中の井戸も水質検査が行われ、明治10年代には不適の結果が示されます。上水改良の空気が叫ばれてきました。
明治19年(1886)コレラが流行しました。15区、郡部を併せると患者12,171人、死者9,879人、一日に300人以上の死亡が伝えられます。その最中、玉川上水の水源付近でコレラ患者の汚物を多摩川に流したとの新聞報道がなされました。開渠の玉川上水では、汚物が入りやすく、また、浄水装置もありませんでした。これらの解消のため、明治21年(1888)、水道改良工事が始まりました。淀橋への浄水場、本郷、芝への給水場、濾過と配水装置の設置です。
明治38年(1905)、水不足問題が生じ、人口増への対応もあり、抜本的な解決が求められました。深井戸を掘る計画も議論されましたが、より、恒久的な策として貯水池建設が提案されました。
明治 44年(1911 )、①奥多摩地方への大久野案、②狭山丘陵への村山貯水池案の2案が浮上しました。
大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬は村山貯水池案の認可を出しました。
大正2年度(1913)から大正8年度(1919 )にいたる7カ年の継続事業が決定されました。
大正3年(1914 )1月10日には、早くも芋窪村・蓮華寺に村山詰所が設けられています。その手早さには、驚くばかりです。
(2014.04.24.記)
東大和市の近代に大きな影響をもたらせた出来事の一つが村山貯水池の建設でした。山口貯水池の建設と併せると、狭山丘陵周辺の村々に共通する画期とも言えそうです。
明治に入り、江戸が東京になり、西洋文明に接して問題になったのが「飲み水」でした。武蔵野の原野に掘られた素掘りの玉川上水や神田上水などに依存し、浄化施設は不十分でした。市中の井戸も水質検査が行われ、明治10年代には不適の結果が示されます。上水改良の空気が叫ばれてきました。
明治19年(1886)コレラが流行しました。15区、郡部を併せると患者12,171人、死者9,879人、一日に300人以上の死亡が伝えられます。その最中、玉川上水の水源付近でコレラ患者の汚物を多摩川に流したとの新聞報道がなされました。開渠の玉川上水では、汚物が入りやすく、また、浄水装置もありませんでした。これらの解消のため、明治21年(1888)、水道改良工事が始まりました。淀橋への浄水場、本郷、芝への給水場、濾過と配水装置の設置です。
明治38年(1905)、水不足問題が生じ、人口増への対応もあり、抜本的な解決が求められました。深井戸を掘る計画も議論されましたが、より、恒久的な策として貯水池建設が提案されました。
明治 44年(1911 )、①奥多摩地方への大久野案、②狭山丘陵への村山貯水池案の2案が浮上しました。
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東京市区改正委員会は明治45年(1912 )4月5日と5月5日に集中審議を行いました。審議は伯仲し、工事の難易、工費などから、結果として②狭山丘陵案が採用されました。 大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬は村山貯水池案の認可を出しました。
大正2年度(1913)から大正8年度(1919 )にいたる7カ年の継続事業が決定されました。
大正3年(1914 )1月10日には、早くも芋窪村・蓮華寺に村山詰所が設けられています。その手早さには、驚くばかりです。
(2014.04.24.記)