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狐 塚 その2

狐 塚 その2 

 前回は、
・江戸と明治が入れ替わる直前の慶応 4年(1868)閏4月16日、
・青梅橋を過ぎて間もなくの小川村で、
・芋窪村の村人二人が強盗に遭遇して、金品を奪われた。
・二人は村に引き返し、事の次第を告げると
・村人達が出動し、早鐘・竹洞を吹き立てて追いかけた。
・加えて、隣村、最寄の村々から多くの村人達が加勢に駆けつけ、
・三ツ木村(現・武蔵村山市)残堀裏で追いついて、とらえた。
・強盗は覚悟し、最後の酒を所望して謡を謡った。
・砂川村と芋窪村の村人が二人を打ち首にして、狐塚に埋めた。

 との一部始終を芋窪村の名主が代官所に書き出した文書を紹介しました。
 その際、「周囲を砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷の5ヶ村、人数、およそ5~6百人もが相い集り、取り巻いて居りました。 めざましい事です。」 と、付記されていました。

独特の背景

 時代の変わり目とはこんなもの、と云ってしまえば、
 それまでですが、妙に引っかかるものがあります。
 慶応4年と云えば
 4月
・13日、彰義隊の一部が八王子に入る
・21日、東征軍が江戸城へ入る
・22日、江戸市中取り締まりを江戸町奉行に委託
・25日、近藤勇板橋で処刑される

 そして、閏4月に入ります。
・1日、江藤新平などが、徳川慶喜の処分を終了して江戸に入ります、
・16日、新政府が旧幕府代官に対して、関東取締役出役を通じて治安維持を指示
・27日、政体書が交付されて、全国が府、藩、県に分けられ、地方支配機構が定まった月です。9月8日、明治改元の5ヶ月前です。
 その最中に、多摩の一角でこの事件が起こっています。
 相当の混乱が続く時期ですが、村人達の自主防衛で、強盗を打ち首にすることが出来たのだろうかと疑問が生まれてきます。
 その謎解きに役立ちそうな文書がありました。
 
実は農兵が絡んで居た

 四月十八日盗賊打殺之儀ニ付 芋久保村より届書
「強盗斬首」
 恐れながら、書付をもって御訴申上奉ります。

 芋久保村の役人総代の名主・五郎左衛門が申し上げます。
 近頃、物騒なので、かねてから、御触が出されており、御出役様が御廻村もなされるほどです。
 そこで、十六日朝十時頃、村方の農兵が人足を引き連れ御出役様がお泊まりになっている田無村の御旅宿へ向かいました。
 その途中、小川村の少々久保原で強盗二人に遭遇しました。
 内壱人は24~5才、他の一人は20才ぐらいに見えました。
 農兵並びに人足に対して、懐中のものを渡すように、刀を抜いて襲ってきました。
 驚いておりますと、追々、(村人達が)駆けつけ、盗賊両人を打ち倒し盗賊の抜いた刀は大勢で踏み折りました。
 このことを御訴え申し上げようとしている内に、両人は果てました。

 名前、住所など穿鑿(せんさく)しましたが、手がかりが無く、知ることが出来ません。
 そのことを御出役様へ御訴え申し上げようとしましたが、すでに、江戸へお帰りのことでしたので、
 死骸並びに踏み折った刀はそのまま仮埋をしました。
 とりあえずこのことを御訴え申し上げます。
 
            武州多摩郡芋久保村
                     役人惣代名主

     江川太郎左衛門様
               御役所

 この文書に対し、
 「賊二人ハ斬首致シ候得共 御代官ノ差図モ受ケサレハ、如何ヤト存シ、賊相果タル旨ニ届書ヲ草案シテ差出サシム」
 との付記が残されています。
 
青梅橋庚申塔2
現在の青梅橋
この庚申塔は事件の経過を実際に見たはずです

代官と農兵と名主

今回紹介する文書からは、農兵が職務で田無村に赴いたことがわかります。しかも、関東取締出役の宿泊先です。どうも単なる村人が強盗に遭遇した事件ではなさそうです。農兵の職務は何だったのか? 農兵の統括もとである代官・江川家とどのような関わりを持っていたのか? 
 その上、名主は斬首に対して「御代官ノ差図モ受ケサレハ、如何ヤト存シ」と、代官との関係を危惧しています。疑問がつきません。
 そして、何より奇妙なのは、最初に紹介した文書と今回の文書の内容の違いです。
 そこには「農兵」の言葉は一切なく、強盗の酒の要望や謡、近隣五村の「5~6百人もが相い集り」「五ヶ村役人立会 決評の上 取り計い候也」などが加えられています。

 隣村・中藤村の指田氏は、その閏4月の日記に「17日、青梅橋と小川の間にて、芋久保村の縞買い、追剥に出会い、この日、この辺の農兵の者、仕度(したく)いたし、出たる所なれば、追いかけ、絡め捕りて、蔵敷前の神送塚にて、砂川村と芋久保村の人、首を切りそこに埋む」
 と記しています。これが、真相であったように思えます。

 今回紹介した文書は事件の原文で、芋久保村の縞買い=農兵の関係にあったとも考えられます。そこから、農兵の出動があり、数百人の村人が集まる事態になったのではないでしょうか。また、人生の最後に謡を謡う強盗の正体は何だったのでしょうか?
 それを含め、何らかの理由で、「農兵の行動」を「一般の農民」に置き換えて、新たに文書を作ったものと推察します。なぜ、そのようにしたのか、知りたいですが、残念ながら不明です。明治4年4月から閏4月にかけての多摩の独特の空気を感じます。

 明治新体制を目前に、村には物騒な状況があり、一方で、自衛力が高まり、緊急対応をした。その処理について、村役人はこれまでの代官役所と新政府への対応に様々に思慮を廻らし、巧みな技で切り抜けた、一種の自立の知恵であったと思う次第です。
 東大和市周辺の農兵については、ブロ友の「幕末多摩・ひがしやまと」
 http://mikemiketenko.blog.fc2.com/が詳しく紹介しています。
 (参考 里正日誌第十巻p77~78 )(2013年12月16日記)
 


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この時期の状況

前後2回にわたって、とても面白い記事を紹介していただき、
ありがとうございます。
新政府ができたとはいっても、農村支配はまだ旧幕府の体制が
残っていた時期でもあり、村々が事件の処理をどうするのか
考えを巡らせている様子がわかります。
同じ事件について、何か所かの地域史料を当たらなければ
見えてこない背景があるということですね。

しかし、数百人が集まるとか、死を前にして謡を舞うとか、犯人
像や事件の核心など非常に興味を引かれる一件です。

農民の強さ

 長文をお読み下さり有り難うございました。
 維新政府に、江川代官は早くから帰順します。今後について、村人達には、まだ見通しが立たなかったと思います。その中での判断ですから、様々な配慮を求められて、5つの村長は苦慮した事が推察できます。
 でも、農民特有の地域を守るとの強さが、解決の方途を見いだしたのだと思います。 野火止用水

地域の歴史

全く知らないことばかりですが、興味深く読ませて頂きました。
この頃は時代が幕末、いろいろなうわさなども飛び交っていたのかなと思ったりしました。
人々にもいろいろな思惑があったのでしょうね。

植物ばかり追いかけていたのですが、この地域を長く歩いていると徐々に歴史にも惹かれだしました。

sage55様

 ブログには適さない長文にお付き合い下さり有り難うございます。 狭山丘陵の南麓は幕末・維新の未解決な歴史の宝庫です。北麓は中世の謎に満ちて、両方とも、面白さにキリがありません。縄竹のお話し、是非ご紹介下さい。

 野火止用水
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 歴史大好き爺です。

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