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米騒動と廉売と借金(大正7年・1918)

 大正時代の象徴的とも云える米騒動に、村が借金して、米を安く村人に売った話です。
 大正5年(1916)、村山貯水池の下貯水池堰堤工事が開始されました。この頃から、米価が上昇を始めます。東京百年史は
「明治33年10月の指数を100とすると、大正5年4月=109 大正6年7月=186、大正7年7月=258 8月=329と急上昇した」(四p969)とします。

 ここで起こったのが、大正7年(1918)7月23日、富山県で発生した米騒動でした。
 稼ぎがチットモ上がらないのに米の値段ばかりがうなぎ登り、これはおかしい、と漁村の婦人達が憤慨。米を県外へ出すな、安売りをせよ、と、資産家、米商人、役場などに要求しました。待ってましたと、全国的に暴動が広がりました。8月13日には東京にも波及しました。

 日比谷公園に人々が集まりました。1500名に達し、暴徒となって、日本橋や深川方面に向かい離合集散を繰り返しました。15日迄続き、遂に近衛師団の出動となっています(東京百年史四p970~980)。19日には、立川で「工夫及砂利人足数十人」が集まり「不穏」の状態となりました。

 政府は天皇の「特別恩賜」30万円の支給をもとに、米の安売りを当面の対策としました。狭山丘陵周辺でも一斉に対応しています。一番早かったのは東村山でした。最初は民間人が安売りに踏み出しました。

東村山

 「東村山では○○が、8月11日~13日迄3日間、午前10時より午後5時まで、内地白米20石、外地白米30石の大安売りを行なった。近隣町村から大勢が集まり、13日正午頃には50石を完売したが、午後になってもまだ購入希望者が訪れるため、予定外の追加廉売をして同日午後6時まで米を販売した。14日以降は近隣の小売店に安値で米を卸し、1000円以上の「犠牲」を払ったという。それは人々の救恤(きゅうじゅつ)という意味合いを持ちつつ、各地で起っている名望家への批判・暴動をかわす対策でもあったであろう。

 続く8月から12月までの間、化成小学校において計8回の米廉売が行われた。販売対象は村税3円未満の村内居住者に限定された模様で、一戸ずつの量が決められ、買占めできないようにされていた。
 12月には、年越しの準備用にという配慮であろうか、儒米(もちこめ)の安売りも行われた。こうした廉売の実質的な運営を取り仕切ったのは、在郷軍人分会と青年会役員であった。(東村山市史2通史編下p270~271)

高木村外五ヵ村組合(現・東大和市)

 高木村外五ヵ村組合でも米の安売り(廉売)と実費販売をしました。村が直接行い、大正7年の村会議事録は次のように記します。読みにくいのですが雰囲気を失わないため原文を引用します。

 「大正七年ハ恰カモ米価暴騰ノ気先ニシテ 一般細民ノ窮困一方ナラス 東西各地米暴動ノ不詳事ヲ惹起セルアリ 為メニ 畏クモ細民救済ノ資金トシテ全国皆恩賜金ノ御下付ヲ拝スニ至レリ 当組亦三百七十八円七十八銭ノ分与ヲ恭フセリ 之レニ以テ本府ヨリノ分与金四十五円五十銭 隣郡篤志家ヨリ寄附金五円ノ交付アリタリ 勿テ之レヲ資金トシテ更ニ資金五千円ヲ部内有志ヨリ借入シ 外米其他ノ廉売並ニ実費販売等ヲ執行セリ 而シテ 廉売ハ 三百五十名 実費販売ハ 四百八十名 ニ販売スルコトトナセリ」

 廉  売  8月21日、10月1日、11月1日、11月11日、12月22日
 実費販売 10月6、25、11月1、11、21、12月1、16日
 財  源  御下賜金378円78銭  東京府45円50銭 篤志家からの寄付5円
 組合村の借入 金5000円
 廉売対象  廉売 350名  実費販売 480名
 
残された問題

 財源のところで気づかれたことと思いますが、村は5000円の借金をしてこの事業を行っています。借入先は「部内有志ヨリ」とありますので、村の有力者達と思われます。
 大正7年の財政状況の資料が手元にないため、大正6年(1917)、9年、10年の支出の状況を見ると下表の通りです。
大正年代支出6910
大和町史研究9 p27

 役場費と小学校費でほとんどが占められています。この状況で、借入金をどのようにして返還したのかその労苦を知りたいです。返済のための特別会計を設けたことも考えられます。
 翌、大正8年(1919)、高木村外五ヵ村組合は合併して「大和村」(やまとむら)となります。恐らく、経費の削減が背景の一つにあったのではと推測します。(2014.07.26.記)



東村山軽便軌條(村山貯水池建設資材運搬トロッコ)

 大正7年(1918)になると、村山貯水池の建設工事が本格的に始められました。資材を運ぶのに馬でトロッコを曳くのでは間に合わなくなりました。東京市は蒸気機関車による輸送方法を取り入れることにしました。その背景には、地元の有力者が発起人になって敷設しようとした「村山軽便鉄道」が頓挫したことがあります。そのことは、東京市上水道拡張事業報告書に、経過が詳しく記されています。

 名前は「東村山軽便軌條」とよばれました。小さい煙突のある小型の蒸気機関車によって、最大20両のトロッコをひいたとされます。ルートには下の図の通り、東大和市内では清戸街道、東村山市内では鷹の道と呼ばれる道路の一部が使われました。

 東村山駅西側→鷹の道・清戸街道→現・東村山浄水所前→現・東村山消防署→現・西武多摩湖線踏切→現・武蔵大和駅西側→現・やまと苑→宮鍋隧道→村山下貯水池建設現場
東村山軽便軌條概念図(クリックで大)

・大正7年(1918)10月10日~大正8 年(1919) 3月10日、測量
・大正8年(1919)4月29日、東村山駅~清水村間の免許を鉄道院に申請 5月31日、許可
・大正8年(1919)7月17日起工、大正9 年(1920) 6月20 日竣工、

 開通式の日には、「当麻東村山村長・宮川大和村長等の玉串の捧献ありて、送神の儀終れば中野所長は挨拶に兼ね詳細なる事業報告を為して式を閉ぢ饗宴に移り、・・・余興の煙火・太神楽・相撲等も一斉に始められ、・・・余興見物の人出多く雑沓を呈したり、」(東京日日新聞)
 車両費約5万8000円、軌道費約6万8000円、建築費約8000円とします。(東大和市史資料編2p162)

 宮鍋隧道は東大和市高木の宮鍋氏が工事を請け負ってつくられました。宮鍋隧道は後に境浄水場への導水路として使われました。
東村山軽便軌條やまと苑
軽便軌條は、現・やまと苑の角を通り
桜木の中を宮鍋隧道へと進んだ

東大和の人々の思い出


「機関車は1台に12台のトロッコを連結して、東村山駅から砂利やセメントを運んできた。・・・武蔵大和西信号機の所に踏切があって、汽車が来ると踏切番が白旗を持ち、鎖をひいて通行を止めた。」(多摩湖の歴史p305)

「軽便鉄道のトロッコから荷をおろす仕事をオロシといった。オロシは屈強な若者でないとつとまらない重労働で、専門にやった。12台のトロッコに6人のオロシがつくので1人が2台の割り当てという計算になる。といっても仕事は共同作業で、セメント樽(50貫)をおろして倉庫に四段に立てて積み上げる。次の車の交換までにおろすのは大変だった。・・・病気などで休むと積み込みの人をまわしてきたが、一日でこりてしまったというくらいであった。そのかわり賃金は高く、普通の倍になった。

 食事は十代の育ち盛りだったので人に笑われるほど食べた。二食分入る弁当箱と別に小づけに一食分つめて、その他に現場でひまを見て「油さし」の人がゆでてくれた干しうどんを食べた。油さしというのはトロの車輪の検査手で、定夫の副のような役をしていた。」(多摩湖の歴史p306)
 この軽便鉄道も、昭和2年3月、村山貯水池の完成と共に撤去され、山口貯水池の建設に転用されました。(21014.07.25.記)

馬ドロ(馬力軌道)

 村山貯水池建設工事の資材運搬は、最初、村山軽便鉄道を予定していました。しかし、別に紹介したように敷設されなかったことから、馬力によるトロッコ輸送が行われました。道路に軌道を敷いて、その上を馬でトロッコを曳くものでした。

 ルートは当時の川越鉄道東村山駅から村山貯水池下堰堤の工事現場を結ぶもので、志木街道(村山道)に沿って設けられました。現在では、その跡はたどれませんが、資材をはじめ馬やトロッコの重さから、地盤の軟弱さを避け、志木街道の一部が使われたことも考えられます。
馬力軌道 馬ドロ概念図(クリックで大)

 工事用資材(玉石、砂利、砂)は多摩川で採取されました。小作置場に集められ、小作駅~立川駅~国分寺駅を経て、川越鉄道・東村山駅まで運ばれ、東村山駅西側の資材置場に置かれました。そこから、志木街道を西へ、現在の武蔵大和駅西側信号機の所を曲がり、工事現場に達しました。

 馬方が追分を歌いながらトロッコ1~2台を引いたと伝えられます。(多摩湖の記録p305) 
馬ドロの道
馬ドロはこの交差点を曲がって工事現場に進んだ

 下堰堤工事は大正5年(1916)5月に開始されていることから、馬ドロはそれに合わせて作られたと思われます。しかし、工事の進捗と共に機能が不足し、東京市は自前の蒸気機関による軽便鉄道を設けることになりました。大正9年((1920)に役割を果たし、大正10年に撤去されました。(2014.07.23.記)

村山貯水池建設と幻の村山軽便鉄道1

 もし出来ていれば、狭山丘陵南麓はどのようになっていたかと興味津々です。
 甲武鉄道(現・中央線)と川越線(現・国分寺線)が唯一の鉄道でした。そこへ、狭山丘陵南麓に鉄道をひこうと云うのです。
 まだ八高線もない時代、箱根ヶ崎から豊多摩郡戸塚村(現・新宿区)までの路線です。

 話は、村山貯水池の建設に併せて、出てきました。それにしても、驚くべき素早さです!!
 大正2年(1913)9月7日、村山貯水池の建設について内閣の認可がなされ、11月、建設事務所が設けられて、測量が始められようとしました。
 なんと、早くもその12月14日、村山地方に軽便鉄道を敷設したいとの申請が総理大臣(山本権兵衛)に行われました。

 発起人は
 北多摩郡 中藤、岸、三ッ木村、田無町、東村山、小平、芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、狭山、郷地
 西多摩郡 殿ヶ谷、石畑、箱根ヶ崎
 南多摩郡 八王子町、
 東京市  日本橋、麹町、四谷
 の各地域の豪農、有力者達の総勢42人の面々です。
 
  申請の内容は
・村山軽便鉄道株式会社を創設する
・東京府西多摩郡箱根ヶ崎村を起点として、北多摩郡東村山村、田無町を経由、豊多摩郡戸塚村に至る区間35.4㌔に蒸気鉄道を敷設する
・沿線には、八国山、久米川古戦場、狭山および狭山池の風光等、風光明媚な名勝旧蹟が多い
・ちかく東京市が貯水池を築造する計画がある
・この地勢を利用して貯水池を囲む一大遊園地を設置する
・東京より人びとがやってきて、一日遊覧する好適所となる
・村山貯水池築造に要する材料運搬の利便をはかる
・交通空白地帯の解消をはかり、沿線の乗客、および貨物運輸に資する
 というものでした。

 目論見書には
・資本金120万円、本社を東村山におく
・路線は西多摩郡箱根ヶ崎-石畑村-殿ヶ谷村-北多摩郡岸村-三ッ木村-中藤村-芋窪村-蔵敷村-奈良橋村-高木村-狭山村-清水村-東村山村-久留米村-田無町-保谷村-北豊島郡石神井村-井荻村-杉並村-落合村-戸塚村とする
 となっていました。村山貯水池建設用の資材運搬が背景にあることに要注意です。
村山軽便鉄道概念図
村山軽便鉄道概念図(クリックで大)

  経過
・大正3年(1914)1月28日、東京府は、北多摩、西多摩、北豊島、豊多摩郡の郡長に意見を求めました。
 西多摩関係は、公益上有用、産業発展の重要な機関など、おおむね賛成意見
 豊多摩郡関係は、慎重にすべき、との回答が寄せられました。
・大正3年5月頃、発起人に申請は「却下」、「廃案」の空気が伝わりました。
・大正3年6月29日、発起人は、「村山軽便鉄道ヲ川越線以西ニ短縮」することについて検討します。
・大正3年7月13日、関係する村長などが連名で内閣総理大臣(大隈重信)に促進のための上申書を提出しました。
 煩雑ですが、当時の村名がわかりますので、記しておきます。
 北多摩郡中藤村外二か村組合村長、東村山村長、高木村外五か村組合村長、小平村長、田無町長、西多摩郡箱根ヶ崎村他三か村組合村長、北豊島郡石神井村長、豊多摩郡井荻村長、野方村長でした。
・大正4年2月8日、敷設案が一部変更され、資本金が155万円、終点が豊多摩郡戸塚村から北多摩郡武蔵野村吉祥寺、総延長23.1㌔になりました。
 ルートは、現在の青梅街道と新青梅街道の中間地点を東西に走る予定で、停車場は、箱根ヶ崎(瑞穂町)―中藤(武蔵村山市)―奈良橋(東大和市)―大岱(東村山市)となっていました。
・大正4年3月25日、総理大臣から免許状が下付されました。東京市水道拡張事業(村山貯水池建設等)に支障を及ぼさないことなどの条件が記されていました。次に続く。(2014.07.22.記)



計画は幻に、川越鉄道への譲渡 (幻の村山軽便鉄道2)

 さて、いつ出来るのか、村人達、村山貯水池建設関係者は最大の関心事として見守ったことでしょう。調べている者だって気をもみます。
 ところが、ところがです。どうしたことか、計画は突然頓挫してしまいました。しかも、権利が他の鉄道事業者に売り渡されます。

・大正4年3月25日、総理大臣から村山軽便鉄道に免許状が下付されました。
・大正4年12月28日、発起人総代より首相に対して、村山軽便鉄道敷設の権利を、一切、川越鉄道に譲渡する旨が申請されました。
 肝心の経緯は不明です。
 第一次世界大戦の影響による経済的事情、政治的背景、他の鉄道事業との関連などの指摘があります。
・大正5年5月20日、譲渡はサッサと許可されています。
 何があったのか、知りたいです。

免許は新しい路線に生まれ変わった

・大正11年(1922)、川越鉄道は西武鉄道と改称し、新しい会社になりました。ややこしいのですが現・西武鉄道と区別して、旧・西武鉄道と呼ばれます。
・昭和2年(1927)、西武鉄道は旧村山軽便鉄道の免許を流用する形で、東村山~高田馬場(仮駅)間を開業しました。村山線と呼ばれました。
・昭和5年(1930)、西武鉄道は村山線を延長して、東村山~村山貯水池前間を開業しました。
 旧村山軽便鉄道の免許の一部で、現在の西武園線の原型となりました。
 村山貯水池前から箱根ヶ崎までについては、工事施工認可申請の延期を繰り返しましたが、着工はしませんでした。
・昭和6年(1931)、工事施工認可申請の延期は認められず、村山貯水池前から箱根ヶ崎間は実現しないまま、免許取消となりました。

その形跡が残されている

 さても、残念な話ですが、西武新宿線が生まれたことはメデタシ・メデタシでしょうか。

 東大和市史資料編2は、「免許は現在の西武鉄道新宿線、西武園線へと、形を変えて継承されている」(p161)とします。
 武蔵大和駅付近の高架橋に「箱根ヶ崎架道橋」と不思議な名前が付けられています。由来を遡ると、幻の村山軽便鉄道にたどり着けそうです。
箱根ヶ崎架道橋2
志木街道に架かる高架橋
 
箱根ヶ崎架道橋
橋梁名は「箱根ヶ崎架道橋」となっている
 貯水池建設の資材運搬に使用を目論んだ東京市は、軽便鉄道が利用できず、直営で東村山軽便軌條を敷設することになりました。(2014.07.22.記)



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野火止用水

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