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西楽寺の不動明王

西楽寺(さいらくじ)の不動明王

 東大和市に直接伝わり、日常的に誰もが聞いている話ではないのに、猛烈に興味を引くお不動様の話題があります。

 平安時代です。承平5年(935)、平将門(たいらのまさかど)事件が起こります。
 最初は下総の国での一族間の争いでした。やがて、常陸へと勢力を広げ、地元の豪族、当時の武蔵国の猛者連達を巻き込んで、ついには武蔵国の紛争に関与します。
 天慶3年(939)、将門は上野国府を占領、武蔵・相模を巡検して国印を奪い、新皇を称します。
 これに対して、朝廷は平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に将門の追討を命じます。
 この時です。藤原秀郷は陣中に不動明王をまつり、戦勝を熱く祈願したそうです。やがて940年、将門は討たれ、乱は終結します。
 その不動明王が、幾多の変遷を経て東大和市の西楽寺(さいらくじ)にまつられていたと云うのです。
 
 このことは『新編武蔵風土記稿』(豊島郡)と『江戸名所図会』に紹介されています。不動明王について現代文に置き換えて紹介します。

 木佛立像 長三尺三寸
 智証大師が三井寺を開基した時、自らこの不動を彫刻して本尊とした
 天慶二年(939)、平貞盛、藤原秀郷等、平将門追討の時、秀郷がこの不動に祈誓をこめ陣中で守り、勝利を得たので
 凱陣の時、下野国小山の郷に安置した。

 其後、遥星霜を経て、永禄年中(1558~1570)、武田信玄が甲州七覚山辺に移し崇敬したのを
 北条氏政が奪取(うばいとりて)て相州筑井□□院に納めた。
 天正一八年(1590)、北条氏没落の後、東照宮(徳川家康)が、代々の武将が崇敬した像であることを聞いて
 多磨郡の宅部村三光院に移し給わった
 延享四年(1747)九月、霊夢の告があって、荘厳寺に安置すると云う」

 という内容です。また地元の地誌『狭山之栞』は

 「宝珠山西樂庵地藏堂は往時宅部山三光院の末寺にして西樂寺地蔵院と号し、本尊延命地藏尊は長五尺、脇士不動尊は長四尺なりしが、故ありて幡ヶ谷村荘嚴寺へ移し、廃寺となりし跡に、一宇を建て、西樂庵地藏堂と呼ぶ。杉本家の持にて代々の墓あり。・・・。」
 と伝えます。

 西楽寺は三光院の末で、村山貯水池に沈んだ地域にありました。その三光院は西楽寺について、
 「宝暦十一年(1761)ごろ、武蔵野新田開発のため、荘厳寺(現・渋谷区)に菩提寺として引寺された」と記録しています。
 現在の渋谷区にある「幡ヶ谷不動さん」で親しまれる荘厳寺です。
 
西楽寺関係図1640
 西楽寺の旧地 クリックで大

 こんなスゴいお不動様が東大和市に居らしたんですね。
 勿論、いつ、誰が、どのようにして、西楽寺におまつりしたのか
 新田開発で幡ヶ谷とはどんな関係があったのか・・・
 などなど、解明しなければならない問題が山積しています。
 そんな中で、ドキドキしながら「将門の乱と西楽寺の不動明王像」を書きました。

    (2018.10.10.記)

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野火止用水

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