懐かしい滝山城の画像

 「いい加減にしなさいよ、トシ考えてよ、それに、ご飯だから」
 「もう少しだよ、ようよう近くまでたどり着いたとこだから・・・」
 しばらくして
 「ともかく降りてきてよ。折角用意したのに、みんな冷めちゃうじゃない!!」

 東大和市の大まかな歴史の流れを書いています。中世、ほとんど東大和市域に関しての記録がありません。やむなく年表を見ながら周辺の出来事を並べます。
 「武田信玄が拝島大師へ布陣、滝山城攻撃」
 すごいこともあったもんだ、とドキドキしながら、さて、関係する画像はどこに?
 とやっかいな問題に突き当たります。
 拝島大師からはないけど、確か、多摩川を隔てて滝山城を撮ったものがあるはず。
 マダラぼけの記憶力には限界があって、やむなく古いハードデスクから探し始めたところです。

 まだ痛めた右足が軸にならずに、パタンコ、パタンコ階段を降りて、夕食をかき込みながら
 「中世の山城、山城って騒いでいたのはいつ頃だっけ」
 「素敵な八王子城だからって云うから、うっかりついて行って、急な坂で、フウフウした時ね」
 「うん、その頃、その頃」
 「この台所直したときだから、丁度、10年前よ」

 というヒントで見つかったのがこの画像です。

takatukizyou3.jpg

 多摩川を前にしての高月城(正面)、滝山城(左方面)
 永禄12年(1569)10月2日~3日 信玄は画像左端の拝島大師を陣営にして攻撃しました。
 あきる野市法林寺の裏から撮影
 クリックで大

中の丸と二の丸の堀1

 滝山城中の丸と二の丸の堀
 氏照は二の丸まで攻め込まれ、ようよう防戦しました。八王子城築城を決める要因になったとします。
 クリックで大

 信玄が小田原城を攻める途中で、北条氏照の滝山城を攻撃したのでした。
 気になるのは、信玄はどうやって拝島大師のところへ来たのか、そのルートです。
 あれこれ、本棚から関係しそうなものを引っ張り出しては
 「どうせ、行くところまで行かなきゃ気が済まないんだから」
 と冷やかされています。

 東大和市の大まかな歴史の流れ 中世 を書きました。

  (2018.02.01.記)

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10年前の写真

記憶と記録、凄いですね。こういう才能がないと、歴史は語れないのでしょうね。感服!Junpei

Junpei様

 あの画像はあそこ、と前には何でもなかったことが後期高齢になると、ぐるぐる回りで探すのに時間ばかりかかります。まして、出来事の背景となると、あれこれ思いだけ浮かんで整理がつかずお手上げです。

 とりあえず、大きな流れを整理して、そこに、ブログの利点を生かして個別記事を加えて行きたいと思っています。
 観光へのリンクはもう少し時間を貸してください。

滝山城への道

先日、八王子横山宿から拝島駅まで千人同心が歩いた日光街道旧道を歩いてみました。滝山城の麓を通って拝島大師に至りましたが、信玄もこの道を逆に辿ったのかと思うと、また別の感慨が生まれてきます。

イッセー様

 仰るとおりいい道筋ですね。現在でもよく見ると中世の曲がりが残っていて、行ったり来たりしたくなる道です。
 この画像を見つけて、信玄本体と勝頼との両攻めに遭って、氏照もさぞ大変だったろうと、そっちに気がいって、他の作業はストップ。最近、そんなことばかりしています。
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野火止用水

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