来年の目標 ネットによるボランティア案内

 ご協力頂けませんか!!

 暮れに「たまボラ」が新聞折り込みされました。
 東大和市社会福祉協議会が発行しているボランティア情報紙です。
たまボラ12
(クリックで大)

 東大和市のボランティア・市民活動センターの案内です。

ボランティア・市民活動センター
(クリックで大)

 ボランティ活動をする、したい人へのコース案内です。

ボランティア活動までの流れ
(クリックで大)

 実際にボランティア活動をしているグループの紹介です。
 
ボランティアグループ紹介
(クリックで大)

 たくさんの活動があり、これからの参加が求められています。
 その活動をしている姿を生き生き紹介できたら、それがネットで容易に検索できたら、どんなに良いだろうと刺激されました。
 「東大和どっとネット」という市民のためのサイト(近くリニューアル)を公民館学習から自立して、立ち上げようとしています。
 残念ですが、まだ、ボランティアを中心に据えて取り組む部分がよちよち歩きです。
 ご一緒に活動頂けませんか。ご参加をお願い致します。
  (2017.12.31.記)

 

戌(いぬ)

 「どうにか間に合った」
 「良かったわね。ひさえさんが丹精込めて作ってくださったんだものね。早速投函してくる」

 気になっていた年賀状、膝の痛さにズルズルと遅くなっていましたが、まとまりました。

2018年賀21

2018年賀

 犬って可愛いだけに、ファインダーをのぞくといろいろの角度から、ああ撮せ、こう撮せと声がかかってきます。
 どれにしようか迷いましが、最終的に二つに絞って下の画像にしました。
 年賀状に仕上げて、宛名とコメントを書き終わって、ホッとして、膝を撫で撫で寝っ転がりました。

 「犬、戌・・・待てよ、豊鹿島神社の狛犬の問題はどうした?」
 と全くの方角違いの問題が気になり出しました。

DSC_55251.jpg

 市の重宝になっている豊鹿島神社の狛犬です。
 宝暦10年(1760)の修理の際の台座裏に、なんと「天犬」(あまいぬ)の墨書があります。
 狛犬と天犬とはどういう関係にあるのか、ずっと続いてきた謎解きです。
 そうだ、いい機会だ、皆さんに教えて頂こう、と豊鹿島神社狛犬・天犬の謎をそのままに書きました。
 是非、お知恵をお貸し下さい。

   (2017.12.24.記)

老老介護の予行演習

 「年賀状出しに行って、ポストから少し離れたところに車を止めたんです。
 出し終わって急がなくてもいいのに駆け出したら、ズトーンと転んで
 何が何だかわからなくて、寒気がして起きたら右肩がだらんとしているんです。
 ・・・」

 一気にしゃべるかっての職場の同僚から電話がかかってきました。立て続けに

 「ようやく弟を呼んでお医者様に行ったら
 手術をするか養生して直すか、どっちにしても4ヶ月かかります。
 って診断です。・・・フーッ」

 「少し深呼吸したら・・・」
 と合いの手を入れて、骨折の相身互いを慰め合います。
 掃除、洗濯、食事の準備のこと、布団干し、お風呂・・・と話が進んで

 「これって、老老介護の予行演習だよ。そう思うと腹の立つのも半分だよ」
 意思疎通、思いやり、我慢、その中での冗談、ぼけ防止・・・介護される身になって、介護される方も、する方もどれだけ大変なものだと実感したままを話しました。

 「そうか、予行演習か・・・。
 お互い健康だったから、わかんなかったけど、確かにそうですね」

 と言っているとこへ、ピン・ポン。
 娘が送ってきてくれました。水曜日あたりに膝のサポーターがとれるかも知れない!!
早速、乾杯とニコニコです。

焼酎2

(2017.12.18.記) 

東京の空

 東大和市に伝わるよもやま話に「きつねの嫁どり」があります。
 「昔、まだ石川の谷ツに電灯のつかなかった頃のことです。遠く東京の空にはネオンが明るくとてもきれいにうつって見えることがありました。・・・」
 と始まります。一方で、狭山丘陵の峰に、きつねの提灯行列が見えたという江戸から大正年代の話です。読んでいて、ふと思い出しました。

 「東京へ行ってきたよ」
 「エッ・・・?」

 昭和20年(1945)のことです。都内から戦火を逃れて東大和市(当時は大和村)に疎開してきました。大きな防空頭巾を持ってきたので「ボウクウヅキン」というあだ名がつけられました。そんな中で、親しくなった地元育ちの友達が切り出した言葉です。

 都心から35キロ圏、東京都北多摩郡ですが、当時の子供にとって区部は遠く離れた「東京」でした。当時、夕刻、村山下貯水池の堤防に立って東を見ると灯火管制中でしたが、空襲のないときは空がかすかに赤みを帯びて、友達は

 「あれが東京」
 と興奮気味にいいました。
 「〇〇ちゃんはあそこに居たんだ」
と羨ましげでした。生活の意識の中では、東京ははるか遠い憧れの場所でした。
 
 この地域に一挙に都心との距離が縮まったのは昭和30年代です。ベットタウンと称され、勤務地が都内になり、寝に帰る場所が大和町になった頃です。見渡す限り一面の畑の中に都営住宅の団地ができて「陸の孤島」と呼ばれることもありました。程なくして人口急増、生活基盤づくりに追われます。

 友達とかすかな明かりの東京の空を見てから60年余、今は狭山丘陵を除いた市全域がほぼ住宅地になり、その上、今後は人口減が予測されています。堤防からは東京スカイツリーが見え、空は星が見えないほど明るいです。
 これでは、きつねの嫁入り話はとうてい信じられない。丁度、その変化のさなかに生きた自分、今後どう伝えたらいいのか、途方に暮れつつ、「きつねの嫁どり」を書きました。

20120814195010bf0[1]

 きつねの嫁どりの里は村山上貯水池にこのような形で残り、現在もきつねが住んでいるそうです。
  (2017.12.14.記)

たぬき堀(胎内堀)

 東大和市になぜ村山貯水池がつくられたのか?
 この問題を解くために東京の上水について調べています。
 当時の上水の水源の一つが玉川上水であることから、ここから始め、一枚の文書を見つけました。
 明治3年(1870)です。近くの小川橋(小平市・立川市)に、政府の役人から玉川上水に関する村々30カ村の代表が集められました。
 そこで、言い渡されたことは

 ①これまでの分水口を廃止して、新しく堀をつくり、そこから水を分ける
 ②分水量は飲み水や田用水はこれまで通り、時には少し割り増しをする
 問題は次の事です。
 ③新しく堀が出来た後は、「洩水」があったら処罰する
 洩水が、一日あったら一日、十日あったら十日間、分水を全て止める。いささかでも不都合があればきっと咎める。

 ということです。農民達はこれを受け入れました。(小川家文書)
 農民の間にはこれまでの政府(幕府)の定めた分水では不足するので、何らかの方法で、内緒で玉川上水から水を引いたようです。隠水(いんすい)と呼ばれました。

 結果、34箇所あった分水口は17カ所になりました。そして、東大和市周辺で新しく掘った水路が「新堀用水」(しんぼり)、「北側新井筋」です。一部が地下水路であったため、地元では「たぬき堀」と呼んでいます。小平監視所から玉川上水に沿うようにトンネルになっていて、小川橋付近で顔を出し水路になります。

DSC_86571.jpg

 小平市が設置している新堀用水の説明版(クリックで大)

玉川上水と新堀

 顔を出した新堀用水、左側が玉川上水(クリックで大)

 しかし、隠れて水を使えなくなった村人達は、さぞ、困ったことと思われます。その様子は、東大和市域は玉川上水に直接接していないため、命令文書もその後の記録も残されず、つかめません。どこかで記録があれば是非教えて下さるようにお願いいたします。

 でも、最大の満足は東京にこの時点(明治3年)で水不足の兆候があったことが突き止められたことです。まだ足にサポートを付けているので一杯やれませんが、乾杯です。
 玉川上水への通船3 分水口の改正 (水不足が生じてきたか?)を書きました。

(2017.12.11.記)
 

幕末の江戸に外国人が

 明治の初めですが2年間と少しの間、玉川上水に船を浮かべて物資を運ぶ通船が行われました。
 東大和市では蔵敷村名主の参加があり、その記録によって、通船の内容がわかってきました。
 通船のきっかけは、何と江戸市中に砂利を運ぶことでした。

 何の目的で砂利を運ぶのか?
 それが、慶応3年(1867)8月の文書で、道の修復に砂利を使うこと、特に「外国人乗車通行ニ付」と記録されています。
 横浜ならいざ知らず、江戸市中に、外国人の通行が多く、道普請に砂利が必要とはどういう状況だったのか気になります。

 調べていますがよくわかりません。
 足にサポーターを付けて、気が散る中、疑問がどんどん膨らみます。
 解けないままですが、ともかく通船を前に進めようと、
 玉川上水への通船2 明治の通船開始を書きました。

 大好きな玉川上水の散歩道は、船が江戸から羽村方面に帰るとき、その船を引っ張るための「曳舟の足場」でした。
 行きは自然流下に船頭さんが舵を取り、帰りは歩いて引っ張ったところかと思うと、玉川上水の両岸がチラチラ目に浮かびどうしようもありません。

P1020053650.jpg

 ここを左側の上水に浮かぶ船に長い紐を付けて、引っ張ったんですね。
(2017.12.09.記)

微妙なバランス

 痛めた足も少し具合がよくなってきたらしく、しきりに外へ出たくなります。
 思い切って家の前を歩いてみました。30メートルほど行くと20度くらいの坂があります。
 僅かですが下りに入ります。
 驚きました。足がすくむのです。前倒れになりそうです。
 右足のサポーターのため膝が曲がらないので、坂の傾斜がそのまま危険と反応するようです。
 何度か試して、少しずつ進むうちに、どうやら下れるようになりました。

 帰宅すると、反対の左足が妙にツリ加減です。ああ、これでバランスを取っていたんだと悟りました。
 左足に感謝、感謝です。

 玉川上水縁に行きたくて、画像を見ては、今年はどうなっているだろうかと想像しています。

IMG_27192.jpg

 去年の12月3日の玉川上水 クリックで大

 そして、玉川上水について書きたくなりました。
 上水に船を浮かべて荷物を運んだことがあります。
 その江戸時代末の状況を書きました。
 玉川上水への通船1 江戸時代

 (2017.12.05.記)

お目出度う でも、これからが大変

 「○○さん、今度の市のHP、どう思われます?」
 「イヤー、まだ全部目を通したわけではありませんが、変わりましたね」
 「市の売り出しですね」
 「そういう時代ですから、どこの市のHPも変わって来ると思います」

生まれ変わったHP
 新しいHPの「イントロページ」クリックで大

 「東大和 出生率 都内NO1の秘密 これは凄いですね。人口が減ってる中ですから」
 「子育て日本一が東大和市の売りですから、ここは売りの一番でしょう」
 「でも、2番になったら困るでしょう・・・」
 「そこが、これからの市の腕の見せ所でしょうね」


 「下の方に、日本語 language ってあるじゃないですか」
 「自動翻訳でしょう。これが、もう当たり前なんですね」
 「英語、中国語、韓国語になっているけど、もっといるんじゃないですか」
 「・・・・・」

 足の具合はどうかと見舞って下さった歴史仲間が最初に切り出した話題です。
 次から次から切りがありません。

 「ともかく、お目出度うを云いましょうよ」
 「大賛成です。」

 変化の狭間、市を売り出す方法の一つ、これからが楽しみです。
 お目出度う ホームページ一新(東大和市を書きました。

   (2017.12.02.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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