FC2ブログ

酒の肴

 「今日はリュックで行って」
 交通事故から足の具合が回復しない連れ合いが買い物に行く合図です。
 野菜だな。油かな、それとも牛乳か?
 などと担いで帰るのを想像しながら、近くのショップへ出かけます。

 「今晩はなにがいい?」
 「ゆうべ(昨晩)はサンマだったから、今晩は肉」
 「そう肉ばっかりじゃ、・・・」
 と云いながら選んだのが色野菜(パプリカ)。

DSC_6193640.jpg
(クリックで大)

 そして出てきました。大好きな一品。
 「これ、なんて云うの?」
 「そんなの知らないわよ・・・。牛肉、入れといたから」
 年とったので、グラスに3センチばかり、オンザロック、連れ合いは梅酒。
 「ミサイルの恐怖が現実となりませんように!!!」
 と祈りながらの乾杯です。 (2017.08.31.)
 

昔のお産

 「こんなことが本当にあったんですか?」
 「信じられない!」
 「人権問題だ」
 「もっとひどいところもあったってよ・・・」
 「産気づくと、戸外の産室に移るんだってよ」

 若いママと話すと、次から次へと話題が広がり、それだけで記録集ができます。
 聞いて下さい。東大和市にあった話です。

 「産婆も産科医もいなかったころのことです。
 お嫁さんが妊娠すると、あまりからだがつらくならないうちに、高木の塩釜様へ安産をお祈りに行きました。そしてお守札と一緒にお燈明に使った短いろうそく、お饌米(せんまい)、麻ひもなどをいただいてきました。麻ひもは戌の日に腹帯の中にはさんで身につけました。

安産の絵馬400

 嫁の立場は弱いもので、産気づいてからでも、しゅうとめに
「もう一度ぐらい畑へ行ってこい」
 と言われると、つらいのをがまんして車を押して畑へ行った嫁もありました。
 
 産室は北側の暗いへやが使われ、たたみをあげてしまい、わらを敷いた上にボロ布を何枚も敷きました。
 いよいよお産が始まると、家族は塩釜様からいただいたろうそくに火をともし、この灯明の燃えつきない内に出産するように祈りました。

 産婦は腹帯の中の麻ひもを首にかけたり、かみの毛の根元を麻で結(ゆわ)えたり、しばったりして、うつぶせになってお産をしました。中には、ふとんを何枚も折りたたんだところに寄りかかってお産した入もありました。

 赤子をとりあげるのは、しゅうとめや近所の老婆、分家の老婆でしたが、時には間にあわず、主人がとりあげたこともありました。よほどの難産でなければ医師を呼ばず、東村山市から医師が来た時にはどうにもならなかったこともあったとか。なにしろ素人がとりあげるので後産が出ないのがわからずに、大出血で母親が死んだことがあったりしました。出血がひどくて顔色が変ってくると、塩水をのませるとよいちえと言ってのませたのも、今考えると、リンゲル注射にかわる老人の知恵だったようです。

 無事に出産すると、実家から米二、三升と鰹節とが届けられます。これは産婦の食べ物で、力がつくように、よくお乳が出るようにと、塩釜様でいただいたお饌米をまぜてお粥をたき、鰹節の削ったものに味噌あじをつけたものをおかずに食べさせました。産後二十一日間は、ちぼく(不浄)だからといって、産室から出られませんでしたが、これは産後の体をゆっくり休ませることになりました。

 出産後のえなは、さん俵にのせて家のとんぼ口(出入口)に埋めました。たくさんの人に踏まれて赤子が丈夫に育つようにという願いからだといいます。
 大和村の産婆第一号の本田スミさんが、昭和七年に開業した時、産室の床下から寒い風がスースー上ってくるのに驚き、たたみを敷かせてお産させたところが、しゅうとめが
 「まるで天朝様のお産みてえだ。」
 と言って逆に驚いたそうです。」(『東大和のよもやまばなし』p73~74)

DSC_44961.jpg

 絵馬堂は閉められ、ひっそりしている塩釜神社。時に訪れる方々は、鳥居の横の「安産の護り神 塩釜神社のお社はこちらです」の案内にほっとするそうです。歴史教室のお話で終わらせたくありません。全文を紹介しました。

(2017.08.20.記)33

暑さお見舞い

 暑いばかりでなく、続く不自然な自然現象に何かを考えさせられる日が続きます。
 古いアルバムから、西芳寺を見つけました。画像はクリックで大きくなります。

西芳寺1

 写経をスピードアップして、庭にお邪魔した後ろめたさに冷や汗が出ます。

西芳寺2

西芳寺3

 2008年6月21日、台風の予報を聞きながらの訪問でした。

西芳寺4

西芳寺6

西芳寺7

 影向石のしめ縄もしっとりして、離れがたく、佇みました。
 2017年、改めて、これからの無事を祈ります。

(2017.08.09.記)

前野稲荷さんの原風景

 我がまちのお稲荷様の言い伝えを調べています。
 村山貯水池に沈んだ戸数28戸の「内堀」という集落では、江戸時代、瘡守稲荷(かさもりいなり)、峯稲荷、失物稲荷(うせものいなり)・・・などがまつられていました。死が伴う疱瘡についての無事や治癒を願う瘡守稲荷、おそらく高台にまつられていたであろう峯稲荷はストンと納得ですが、失物稲荷にはよほど何かがあったのだろうと苦笑です。

 そうこうしているうちに、次の記録に出会いました。

 「前野稲荷は前野に在る。神木の大杉は廻り一丈三尺余(約4メートル)で、田無や柳澤辺よりも見える程の高さであった。弘化三年(1846)二月二日の大風で倒れてしまった。俗に枯杉稲荷と呼び伝えられる。
 境内に紅葉の大木がある。廻り八尺余(約2.4メートル)である。明治維新の際、伐って神官の復飾料に供した。」

 という、『狭山之栞』 の記事です。江戸時代末から明治初年にかけて地元の郷土史家杉本林志氏が書き残しました。
 前野とは名の通り、集落から少しばかり離れた畑作地域です。1600年代末に茫々たる武蔵野の原野を新田開発した区域で、一面に畑が広がっていました。

前野稲荷位置図
昭和13年(1938)大和村図(クリックで大)

 昭和13年(1938)の図ですが、赤点が前野稲荷の地です。周辺は全面桑畑になっています。明治まで、ここに、大人二人で抱えるほどの大杉と紅葉の大木が並んで、その元に小さな社があった、これが原風景のようです。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、境内面積は92坪(約300㎡)、信徒49戸とされます。文字通り穀物、豊作祈願の神でした。

蔵敷の三本杉
蔵敷三本杉(クリックで大)

 どこかに原風景を偲ばせるところがないか探しました。お稲荷様ではありませんが蔵敷の三本杉に見られそうです。
 周辺の人家を全部消して、一面の畑の中にポツンと三本の大杉がある姿をご想像下さい。ここでは、根元に塚が築かれ天王様がまつられていました。

DSC_4947.jpg
狭山神社の境内社としてまつられている前野稲荷社(クリックで大)

 東大和のお稲荷さんは屋敷神を含めると233社あります。その中で、原にまつられたのは前野稲荷だけと云えるかもしれません。「稲生り」(いなり)、「稲成り」(いなり)などがお稲荷さんの語源とされます。畑の中にまつられ、まさにその象徴とも云えそうです。

 紅葉の大木は、明治維新の際、伐られて神官の復飾料になりました。神仏習合排除によって、それまで円乗院が別当としてお守りしていたのを、僧侶の一人が神官になっておまつりすることになりました。その身分替えの経費となったようです。明治39年(1906)、前野稲荷は狭山神社の一隅に遷されています。原風景の写真が残されていればと、手を合わせる度に思います。

DSC_3886.jpg
杉の大木の画像が見つかるまで、暑さしのぎに西芳寺の切り株です。(クリックで大)

  (2017.08.04.記)

sidetitleプロフィールsidetitle

野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleLc.ツリーカテゴリーsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR