病死、嫁婿縁組み、出生のバランス?

 「江戸時代のうちの村の人口って、どんな動きをしたんですか?」
 「難しくって・・・、困ってるんだ」
 「うちの村にも、五人組とか宗門人別帳とか残っているんでしょ。
  欠落(かけおち)の記録なんか、そこに付けられていると聞きましたが。
  そうならば、ちゃんと辿れるはずなのに」
 「いやいや、もう、勘弁しろよ」
 高校の先生になったばかりの近所の息子さん。迫りに迫って来ます。
 やむなく、下の表を出します。

蔵敷村人数増減
(出典 大和町史研究1p55)

 蔵敷村(現・東大和市蔵敷)の内野家に伝わる記録です。
 宗門人別帳によって研究者が調べた数値で、人口の動きの内容がわかります。

 文化2年(1805)には、病死が1、婿入りが2、出生が9、差し引き10人の増。
 文化15年(1818)には、病死が2、お嫁さんに他村に行った娘が1人、出生1人で、差し引き2人の減。
 文政7年(1824)には、病死が2、嫁婿縁組みで2名の増、出生なしで、差し引き増減なし。
 出生無しは文政8年、9年と続く、人口が減っちゃう。これはどうした理由?
 
 ・江戸時代の村って、縁組みまで関係するんだ。婿取りが多すぎない。
 ・いや、出生がない年が3年続くなんて、おかしい。
 ・村高に人口がほぼ一致って云うから、そうなるように制限したんじゃないんですか。
 
 問いかけは尽きません。
 そこで、仕方なく
  「宗門人別帳や村明細の記載には、一才から五才までの子どもの扱いが統一されていなかったんだ。
  だから、人口の動きがこの通りかどうか、わかんないよ」
  「???・・・」
  本当に実態がわからなくて困っています。肝心なことなのに!
  (2016.05.28.記)

おんじー!?

 東大和市の現・狭山地域が後ヶ谷村(うしろがやむら)と呼ばれていた江戸時代の話です。
 杉本家に伝わる貴重な古文書に宗門帳があり、当時の家族構成がわかります。
後ヶ谷村家族2
 (出典 大和町史研究10p71)
 宝永4年(1707)、享保14年(1729)、天明2年(1782)、寛政6年(1794)、天保12年(1841)、明治5年(1872)

 寛政6年までは中核となる家族構成は4人から6人(年寄り夫婦、若夫婦、子ども)、以降、若干変動します。他市と比べても江戸時代普通の家族構成と思います。

 ところが、天明2年(1782) から天保12年(1841) にかけて一人暮らしの世帯が現れてきます。
 これは何なのだ?なぜ、このような状態になったのか不思議です。
 聞き回っているうちに少し教えられてきました。この人達は多くが30才以上の男の独身者という分析です。
 古老は云います。

 「おんじーと云ってな、分家してもらえず、嫁もとらずに、親の家のそばに、納屋とか小屋をゆってな、住んでたーだ」
 「結婚しない一人もの?」
 「そうよ、若けえ内は、年季奉公や外稼ぎに出ていたのが、年くってきて、そうもいかなくてな」
 「じゃー、おんばーは居なかったんですか?」
 「そりゃー、聞かねえな・・・」

 丁度、この時期は天候不順で飢饉となり飢え人などが出て、当時の村は代官に年貢の延納、食料の拝借願いを出しています。わからないことだらけです。同じような現象について、是非、教えて下さるようお願いします。
(2016.05.26.記)

タケノコが竹林になるとき

 今がその旬です。まさに見頃です。

タケノコと竹1

 場所は狭山丘陵の東大和市立狭山緑地、
郷土博物館から熊野神社の間です。

タケノコと竹2

 コースは、初めての方は郷土博物館からが、わかりやすいです。

タケノコと竹3

ドームと展示室の間の石段を登ります。
登り詰めてすぐ左側の雑木林の小径を入ります。

タケノコと竹4

道なりに進みます。
くだりになり、周辺には、背の低い山ツツジがごく僅かに咲きます。
木々は新緑真っ最中です。

タケノコと竹5

途中、蔵敷方面から入る小径と出会います。
四つ角になりますが、そのまま直進します。
標識には「散策デッキ 西口広場」と示されています。

タケノコと竹6

若干の登り坂に入ります。
でも、そこにはもうタケノコが迎えてくれます。20分もかかりません。

タケノコと竹7

新旧・大小が程よく並びます。
バランスを保つため古い竹は伐られます。

タケノコと竹8

タケノコの横の竹に、数字が書き込まれています。
14は2014年にタケノコっだったものです。
いろいろあります、確かめて下さい。

タケノコと竹9

この仕事、狭山緑地雑木林の会の方々が、
ボランティアで担当されています。感謝です。

このまま引き返すのも良し、案内図に従って、
蔵敷の谷ッの集落を遠望し
かって東京サンショウウオが生息していた湿地を通って、
村山貯水池の周囲道路に出てから戻っても1時間かかりません。

途中のいろり焼き「鳥山」(とりやま)の
平日ランチメニュー「麦とろ定食」は
1000円と案内されていました。(2016.05.05.撮影、06記)

血取り

 5月になると狭山丘陵はツツジの花で埋まったと伝えられます。東大和市はツツジを市の花としています。それが、現在は東の地域では余り見かけなくなりました。それだけに、芋窪の鹿島台の花は貴重です。

DSC_0504.jpg
鹿島台のツツジ(2005.05.05.撮影)

 このツツジを巡って、東大和市内に不思議な話が伝わります。「血とりとつつじの山」と題されています。こんな風に語り始めます。

 「山にはエラ(たくさん)、つつじがあったなあ。五月になると、そりゃきれえだった。原の方からも見に来たもんな」

 湖底の村で生れたおじいさんは目を細めます。貯水池が出来る前は、狭山丘陵一帯に山つつじが自生して毎年淡赤い花を咲かせました。その頃になると子供たちは、ついつい花に引かれて山へ入りたくなります。親たちは心配して、

 「血とりが出るだから、ひとりで山へ行くでねえよ」

 と、止めます。血とりは子供をつかまえて、血を取ってしまうのだというのです。

 「血とりは箱を下げてるだよ」

 ちょうど肩から箱を下げた見知らぬ人でも来ようものなら、子供たちはバラバラ、バラバラ先を争って逃げたものです。物売りか、植物採集の人だったかも知れません。

 「血とりがこの道をこう行った」
 「あの麦畑の所にいたとよ」

 噂が口から口へ伝わると、子供たちは背筋をぞくぞくさせました。山は子供たちの楽しい遊び場です。つつじを取りに近くの友達と連れだって出かけて行きました。つつじは枝ごと折って来て、花だけ集めて塩で揉んで食べました。うすら甘くておいしかったそうです。紫色の花は毒だと言われていました。女の子は赤い花をおさんかくしの茎に通したり、紐や糸に通して、たすきにしました。それは着ている紺の絣(かすり)によく似合いました。

 山つつじは、二メートルぐらいにも成長しました。貯水池が竣工した当時は、今のように桜が呼びものではなく、むしろ、つつじ見物を謳ったと言います。あんなに美しかったつつじがなぜ今のように少なくなったのでしょう。花盗人が荒してしまったのでしようか。ある人は、戦中戦後の燃料不足の時にそれこそなめるようにしたくず掃きや、粗朶づくりのせいで、苗が鎌で伐られたことも一因かも知れないと言いました。

 昔は山の木を薪にするためよく伐ったもので、大木にしなかった為に陽がよく射し込んでつつじが大きく育ったとも言います。今は木を伐ることもなくなったので、つつじが伸びないのだそうです。

 いろいろな原因があってのことでしょうが、燃えるようだったという美しいつつじの山が、また戻ってくればいいと思いますね。」(『東大和のよもやまばなし』 一部省略)

DSC_0495.jpg

 大正末から昭和初年の伝承です。鹿島台から村山貯水池の堤防の下を通って埼玉県側の慶性門付近に達すると、この地域でも見事な株が見られます。
 「血取り」の伝承は狭山丘陵全体にわたって伝えられているのでしょうか。東大和市では、箕作(みのつくり)の話と一緒に伝わっています。(2016.05.04.記)
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野火止用水

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