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今年のサクランボ

  目が疲れて、少しの間の癒やしにと家を出ると
 「やっと、熊本に荷物が送れるようになりましたので・・・」
 と大きな箱を抱えたお隣の奥さん

 「倒壊は免れていますが、今後のことが心配で・・・。
 近くなら、呼び寄せるのですが・・・」

サクランボ1

 スーパーまで、ご一緒して、都立東大和南公園内に入ります。
 変電所裏の桜は蘂(しべ)をつけたまま緑の葉を増やしていました。

サクランボ2

 公園から玉川上水駅に至る間の緑道です。
 木々の下に蘂(しべ)が散り
見上げるとサクランボになっています。

サクランボ3
 
まだ枯れた花が引っかり、蘂も残っている中で
色を付け始めて居ます。

 ちょっと、か細いかなと気にしながら
家に入る前にお隣に寄り、お見せすると

 「まあ、なんと・・・。もう一足早かったら、写真頂戴して荷物に入れてあげられたのに・・・」
 「それじゃ、早速、葉書に焼いてきます。大急ぎで送って下さい」
 ということで、絵はがきにしました。早く着くことを祈ります。
(2016.04.26.撮影、28日記)

スキップで行こう!!

DSC_00891.jpg

先に行かれて、一人遅れて、泣いてた子
ママが声をかけました。

 「じゃ、スキップで行こう!!」

都立東大和南公園のグラウンドです。(2016.04.26.記)

降ります

 立川駅から東村山駅間を走る西武バスの車中です。
 東大和市の奈良橋停留所にさしかかると、必ず、「降ります」と乗り合わせている誰かの声がかかります。
 後ろの座席から若い娘さんが肩から斜めにかけた鞄に紐で結んだ乗車証を運転手さんに示して降車します。

 雨の日でした。乗客が多く、降りる方は傘を開き、乗る方はたたむので、時間がかかります。
 どうしたことか娘さんの乗車証の紐が絡んで、うまく処理できません。立ち止まって泣き出しそうです。
 いつもの運転手さんなら手真似で教えるのですが、新人らしく、また、ただでさえ、バスの時間は遅れていて、乗客も運転手さんもいらいら顔。

 だまって、さーっと手を貸した方が居ました。いっぺんに空気はほぐれました。

 数日経ったある朝。なぜか、手間取った娘さんが降りようとすると、降り口まで行く前に数人が乗車して来ました。娘さんは、そこで立ち止まったまま、次の行動に移れません。

 「まだ、降りますよー。通れるようにしてあげて下さい」

 後の誰かが声をかけました。前の誰かが手招きしました。

 東大和病院前、連れ合いが乗る午前9時台のバス、もしも、誰かが居ないといけないからと、娘さんが居るのが目に入ると、運転手さん近くの座席に座る事にしました。奈良橋停留所にさしかかると、前後から、 「降ります」 の声がかかります。時には、「ゆっくり行きなよ」と娘さんに先を譲る方も出てきました。

 「心配ないわね」

 との声も聞こえます。娘さんの降りるところに、NPO法人の運営するパンを作っている事業所があります。

DSC_00231.jpg

 「今度、奈良橋までパンを買いに行こうか」
 と言い出した連れ合いからの話です。(2016.04.21.記)

生活機能基本チェックリスト

 市役所から28年度の調査票が送られてきました。65才以上で介護保険の要支援・要介護認定を受けていない市民が対象です。

 「お父さん 忘れないうちに書いて送りなさいよ」
 「ホイ、ホイ! 何てことないよ」
  呟きながら書き込みました。項目は適当に省略します。

 ・バスや電車で1人で外出していますか
 ・日用品の買い物をしていますか
 ・預貯金の出し入れをしていますか
 ・階段や手すりや壁をつたわらずに昇っていますか
 ・15分位続けて歩いていますか

 ともかく○がつけられます。

 ・お茶や汁物等でむせることがありますか
 ・口の渇きが気になりますか

 連れ合いが口出しを始めます。
 「お父さん、ピッタリね。お茶飲んでむせるんだから」

 段々、ギョツとします。

 ・毎日の生活に充実感がない
 ・以前は楽にできていたことが今ではおっくうに感じられる
 ・自分が役に立つ人間だと思えない

 「正確に書いた方が良いわよ」

DSCN65042640.jpg

 チャリを入れられながら、ともかく書き終わります。郵送して、暫く経つと判定結果が送られてきます。

 「投函しながら、玉川上水まで行ってくる」

 九州は大変なんだから、介護費用を増やさないためにも、ウオークを兼ねた近くの福祉施設の活動資金のアルミ缶集めに、靴紐を結びます。(2016.04.18.記)
 

豊鹿島神社の要石1

 豊鹿島神社から青梅街道を経て芋窪街道を約400メートルほど南に進むと蓮花寺があります。その南隣に、そこだけこんもりとした森になっていて、鳥居があります。

要石11

 左が蓮花寺で、手前が芋窪街道です。この鳥居の奥にまつられているのが豊鹿島神社の要石(かなめいし)です。

要石12


 位置的には、豊鹿島神社の本社殿の北に「奥の宮」があり、ここ南に「要石」があって、三社が一体となっています。
 奈良橋川に「宮田橋」があり、神撰米用の水田があったところと伝えられます。
 これらを結び合わせると、豊鹿島神社の広大な神域の構成が考えられます。
 要石は豊鹿島神社の南端の拠点、シンボルとも思われます。

要石13
鳥居をくぐると祠がまつられています。その前に鎮座するのが要石です。
要石14

 地元では「鹿島様の要石」と呼びます。この石、表に出ている部分は一抱えほどですが、地下は何処まで続くかわからないと伝わります。市民グループの方々を案内して
  「要石とこのお話、どこかで耳にしたことがありませんか?」
と声をかけると
  「鹿島神宮!!」
すぐさま答えが返ってきます。茨城県鹿島市の常陸一宮(ひたちいちのみや)の鹿島神宮です。

要石15
鹿島神宮の要石

 歴史好きの方が説明して下さいます。
 「鹿島神宮の要石は
 ・神代の昔、香島の大神がお座わりになるところだった
 ・水戸黄門が七日七夜掘っても掘りきれなかった
 ・巨大なナマズを抑えて地震の被害を守って下さる
 なんたって強力なパワー・スポットだって。」

 豊鹿島神社の要石にもよく似た伝承が伝わります。

1江戸時代の地誌
 『新編武藏風土記稿』(江戸時代末に編纂・1830年代に完成)

 石
 社前の原上むはら生ひ茂れる中にあり、要石と称す、
 其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、経り一尺五寸、黒色にしていと潤澤あり、
 かかる田間にありては、耕作の妨たりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、
 地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得ベきにも非れば、是より土人 要石と称せる名を得たりと、
 村老の口碑にのこれり、按るにこの石 適々 鹿嶋社前にあれば、かかる話を附合せしにゃ、覚束なし、

要石16
(出典 雄山閣版『新編武蔵風土記稿』多摩郡)

◎武蔵野の原に「むばら」=茨(いばら)が生ひ茂り、石はその中にあったようです。
 現在の石はねずみ色をしていますが、江戸時代末期には黒い色をして、潤んだ輝きを発していたようです。

2『東大和のよもやまばなし』

 最後の結びに
 「・・・、大古の昔このあたりが海だったころ、建御雷命(たけみかずちのみこと)が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという伝説もあります。」
 とします。

3地元の地誌はまた、違った伝承を伝えます。
 『狭山之栞』(地元の名主・杉本林志氏が江戸時代末から明治にかけて執筆、1876年出版)

 要石
 要石は楯野にあり、高二尺ばかり、廻り六尺五寸。
 里語にこの奇石の傍らを穿ちて子供の有無を知ると。虫一匹を得れば一子、二匹なれば二子を得、死したるを得ば子死すと云ふ。
 要石の傍に樅(もみ)双生す。一本は廻り一丈一尺、他は七尺余あり。この付近に昔庵室ありしと云へど今はその跡を知らず。
要石17
◎地元の研究者として、新編武藏風土記稿にはない、「里語」=郷里の伝承を書き残してくれました。そして、重要な「庵室」の存在を指摘しています。別に紹介する、江戸時代の旅行記『武野遊草』は要石の辺りが「方十間(18メートル四方)の塚」であったことを記しています。両者併せて大きな研究課題と受け留めています。

◎鹿島・香取神宮の要石の伝承にある「地震を抑える石」が豊鹿島神社の要石では、「虫封じ」になっています。いかにもこの周辺の空気を伝えて微笑ましくなります。(2016.04.15.記)

 
豊鹿島神社の要石2(『武野遊草』) 豊鹿島神社の要石3(『東大和のよもやまばなし』)
 豊鹿島神社

豊鹿島神社の要石2(『武野遊草』)

 要石に関しては江戸時代の見聞の記録があります。
 寛政7年(1791)9月30日~10月12日にかけて、江戸青山の住人清痩園主人=石子亨が妻の父親である大久保狭南を訪ねて清水村(現・東大和市清水)に来ました。高尾山や青梅、所沢方面を遍歴して、克明にその記録を残し「武野遊草」としてまとめました。

武野遊草
武蔵野文化協会 武蔵野 第62巻 に収録された武野遊草

 10月11日、最後の日程、所沢市山口方面を廻って清水村に帰村しました。その夕刻です。清水村の名主・五十嵐氏の要石を見に行こうとの誘いにのって出かけます。現代文に意訳します。

 「・・・夕陽の頃、清水に帰ると、五十嵐氏が来て、芋窪の鹿島の宮へお参りして、要石を見ようではないかと誘われた。そこで、また、清水を出て、高木、奈良橋などの村を過ぎて、蔵敷村で道を原の中に進んだ。十四~五町(1.6キロ)ほど行くと、塚があった。方十間(18メートル四方)ばかりもあるだろうか。

 古松が二株生えている。樹の下は茨が生えて、勢いよく茂った中に、その石はあった。形は図に描くとおりである。石は地下に埋まり、いたって深いと村の老人が云う。中古、要石とは知らず、このように畑の中央にあるので耕作の妨げとなり、地元の人々が集まって力を尽くして掘り上げようとしたが、石の根は下に行くほどますます広大で掘り上げることができず、空しく止めたという。
武野遊草要石
武野遊草の著者が描いた要石
 
 石を見終わって、原から十二町(1.2キロ)下って村落に入る。鹿島明神の社がある。朱印十三石、神主を石井左門という。社前に樫の古木あり、周囲五間(9メートル余)という。この村古名は「井の窪」と云ったが、今は、「芋窪」と云うそうだ。・・・、薄暮、清水に帰る。清水より芋窪まで一里あまりである。」(武蔵野文化協会 武蔵野 第62巻 通巻305号p40~41)

◎この記録により、1791年当時、要石の場には四角い「塚」があったことがわかります。周辺は江戸時代初期から、畑地として新田開発されて居ます。その中で、古い松の木が2本植えられ、特別の場所として区切られていたようです。一面の畑の中に際立っていたことでしょう。茨が覆っていたことは、当時の武蔵野の植生にヒントを得ます。

武野遊草コース

 ◎当時の道を復元してみました。現在とはだいぶ様子が違いますが、要石は芋窪街道と四街道・中藤道(中藤村・武蔵村山市から江戸への主要な道路)が交差する近くにありました。武野遊草の記事はそこに18メートル四方の「塚」の存在を貴重な証言として残してくれました。『狭山之栞』が指摘する庵室と関係があったのかも知れません。

 ◎要石が面する道は「芋窪街道」(途中から多摩都市モノレールの道に接続)と呼ばれます。享保年間(1716~35)に、芋窪村の人々が現在の立川市栄町に「芋窪新田」を開発するため、日夜通った道です。村人達は要石の塚に何事かを託しながら往き来し、厳しい開発の日々を過ごしたものと推察されます。(2016.04.14.記)

  要石1  要石3(『東大和のよもやまばなし』)  豊鹿島神社 

豊鹿島神社の要石3(『東大和のよもやまばなし』)

 芋窪通り、蓮花寺に隣接してこんもりした木々の間に豊鹿島神社の要石はまつられています。

要石31

 鳥居をくぐりフエンスの前に進むと祠とその前に表面的には一抱えほどの石が目に入ります。地元では「鹿島様の要石」として親しまれます。 神職さんのお計らいで、フェンスに鍵はなく、中に入ってお参りできます。そう大きくは見えない石ですが、これまでに紹介した様々な話題を伝えます。

要石32
 このページでは『東大和のよもやまばなし』から紹介します。

 「芋窪の豊鹿島神社の歴史は非常に古く(慶雲四年 707鎮座)、徳川時代には御朱印十三石をたまわった由緒ある神社です。大むかし鹿島さまの社地は南の方までひろがっていて、一万三千坪(四万三千平方メートル)あまりの広大なものでした。

 蓮華寺に隣接した空地の、木立にかこまれた草むらに、高さ二十センチばかり、根まわりニメートルほどの山型の自然石が頭をのぞかせて、ご幣が一本立てられています。これが伝説の "鹿島さまの要石"だといわれています。

 大きな石であったため、耕作のさまたげになっていました。ある時、村人たちが大勢集って相談をし、この石をとりのぞくことになりました。ところが掘っても掘っても根深く、地下にいくほど大きくてどうしても掘り出すことができませんでした。それ以来、誰言うとなくこの石のことを“要石”というようになったということです。

要石33

 この要石には虫占いのいいつたえがあります。石のかたわらを掘って、出てきた虫の数によって、授かる子供の有無や数を占いました。一ぴき出たら一人、二ひきなら二人というように、虫の数と同じだけ子宝に恵まれるというのです。死んだ虫が出ると大凶で、子供の死を暗示するというので、人々は真剣な気持で占ったといいます。

 要石のそばに、昭和のはじめまで、大きなもみそ(もみの木)が高くそびえて枝をひろげ、かなり遠くからもよく見えました。五十年ほど前に、このもみそを伐り倒したところ、その年、大変な雹(ひょう)の被害に見舞われました。人々は恐しがって「これはきっと要石のたたりにちがいない」と口々にうわさをし合ったそうです。

 また、大古の昔このあたりが海だったころ、建御雷命(たけみかずちのみこと)が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという伝説もあります。」(『東大和のよもやまばなし』 p200)

 「東大和市が海だったって本当?」
 「その証拠は何処にあるの?」
 「なんで、この石だけが残ったの?」

 子どもさん達に話すと、矢継ぎ早の問いかけです。
 「最初に、市の郷土博物館に行ってごらん、
・2階の入り口を入ってすぐ右側の壁に、海だった頃のことが説明されているよ。
・村山貯水池建設の時、 下の堤防付近で、カキの化石が発見されていて、その写真を見せてくれるよ。
それから、第一中学校の北側に「地盤沈下観測所」があるから、そこへ行ってごらん、
・地下水の調査のため深井戸を掘ったとき、何層もの地層からアサリなどの貝殻が発見されていて
・その時代の地質の図がいつでも見られるように展示されているよ」

要石34
 第一中学校校舎北側の東大和市地盤沈下観測所(東京都の施設)
 
 要石ははるかな昔に夢を誘います。(2016.04.14.記)

 豊鹿島神社 豊鹿島神社の要石1 豊鹿島神社の要石2『武野遊草

豊鹿島神社奥の宮

 豊鹿島神社の「奥の宮」は現社殿から約400メートルほど北の狭山丘陵の頂きにあります。

豊鹿島神社奥の宮 (1)

 現社殿の正面右横から石段を登って境内社の間を進みます。

豊鹿島神社奥の宮(2)

裏山に続くように鹿島台遺跡があります。

豊鹿島神社奥の宮(3)

 旧石器から縄文時代にかけての遺跡で、縄文時代には使用した土器や住居の跡が発掘されています。

豊鹿島神社奥の宮(4)
 
 この周辺からの展望は遙かに多摩丘陵を望み、その間を古多摩川が移動して武蔵野台地を形成した様を眼前に見る事ができます。

豊鹿島神社奥の宮 (5)

 多摩湖自転車道橋の際の階段を登ります。

豊鹿島神社奥の宮 (6)

 多摩湖自転車道に沿って一段と高いところがあり、豊鹿島神社の「奥の宮」跡です。

豊鹿島神社奥の宮(7)
 
 奥の宮の跡は鹿島台にあります。
 多摩ロームの地層が露頭する箇所で、古多摩川が狭山丘陵を削り残した上に積もった火山灰とされます。  
 同じロームが多摩丘陵にもあり、先に記した古多摩川の移動を地質の面から物語ります。

豊鹿島神社奥の宮(8)

  この地は、村山貯水池に沈んだ石川の地からも拝され、石川には先史、古代からの遺跡が沈み、伝承が伝わります。
  奥の宮がどのように、いつ頃まで建てられていたのかは不明です。

豊鹿島神社奥の宮(9)

 現・本社殿の修理の際、基壇の発掘調査が行われ、年代は確定されませんでしたが、本殿創建(文正元年・1466)以前の柱跡などが発見されています。また、社殿から南へ約500メートルほどに豊鹿島神社の要石がまつられています。それらと併せて、奥の宮についても全容が明らかになるのが待ち遠しいです。 (2016.04.10.記)

豊鹿島神社境内二つの碑

 境内には、多くの神々の祠と共に次の二つの碑があります。

九頭龍大神碑

DSC_41201.jpg
(クリックで大)

 九頭龍大神碑(九頭龍大神=くずりゆうおおかみ)
 昭和7年(1932)4月建立 高さ155センチメートル
 芋窪の皆様方による戸隠講中による碑です。
 
 かって、東大和市周辺は雹(ひょう)が多かったと伝えられます。そのため、作物が被害を受け、雹害を防ぐ祈りが捧げられました。
 雹は長野県の榛名山や戸隠山の方向から来るとされて、榛名、戸隠信仰が高まり、講が形成されました。修験道との関わりが深く、東大和市域の人々にとって関心を呼んだことも考えられます。

 戸隠神社は戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなります。そこから、芋窪の九頭龍大神碑は表面に

 中社 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
奥社  天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
 寶光社 天表春命(あめのうわはるのみこと)

 中央に 九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)

 を刻み、裏面にはびっしり講中143名の方々の名前が刻まれています。
 講には、代表者が参拝する代参講、神職さんが講中のもとに来られて祈祷される日待講の方法がありますが、最近の芋窪の場合は日待講でした。『東大和のよもやまばなし』中の「雹の話」(p55)として、榛名代参講の事が採録されています。

御嶽山蔵王大権現碑

DSC_41221.jpg
(クリックで大)

 御嶽山蔵王大権現碑(おんたけさん ざおうだいごんげんひ)
 高さ130センチメートル
 今は山林となっていますが、明治14年測量の迅速図には芋窪の西谷ッに神社の記号が記されています。熊野神社です。『狭山之栞』には神祠として熊野と記載されています。その脇にこの碑は立てられていました。いつの頃か、豊鹿島神社境内に遷されました。

 碑の表面には次のように刻まれています。 木曽の御嶽山を信仰する講中が元治二年(1865)に造立しています。

御嶽蔵王権現碑のコピー
(クリックで大)

 表面には大きく分けて次のように刻まれています。

      八海山提頭頼神王
   大元租神
  御嶽座王大権現
   国常立尊 
     三笠山刀利天

  御嶽座王大権現 八海山提頭頼神王 三笠山刀利天の三神は御嶽山信仰を代表する神とされます。

 裏面には講中の名が刻まれています。その範囲は
 ・中藤村  
 ・蔵敷村 芋窪村 上宅部村
 ・二本木村 
 ・野中村 
 ・菩提木村 山口村 
 です。世話人は中藤、菩提木、山口、芋窪各村の村役人でした。特に芋窪村の講中は、村山貯水池に沈んだ石川、丘陵南麓の東、中、西組と全域にわたっています。詳細が明らかでないのが残念ですが、幕末、狭山丘陵周辺にこれだけ広範囲で御嶽山蔵王大権現に対する信仰があったことに驚かされます。 (2016.04.09.記)

  豊鹿島神社

桜が丘の桜

 2016年4月6日(水)、久しぶりの晴れ間、待ち焦がれて近くの桜を訪ねました。
 桜街道を通って都立東大和公園に向かいます。画像はクリックで大きくなります。

桜が丘桜1

 江戸時代に遡っての言い伝えからか道幅を広げた近代的な整備ですが、桜街道と名付け街路樹として桜の木が植樹がされてきました。

桜が丘桜2

 花は、若やいだ姿で迎えてくれました。でも、まだ8分咲?
 感覚的には、いつもはもっと早く咲くのが、今年は8分とは?

桜が丘桜3

 都立東大和南公園北側の広場、入学式を済ませたのか、子ども達が大はしゃぎ。

桜が丘桜4

 平和広場の周囲も賑やか。でも、何かいつもより5日ほど遅れているような気がします。
 きちっとした統計をとっていないので、あくまで感じです。

桜が丘桜5

 日立航空機工業(株)の爆撃を受けた変電所周辺の桜も満開

桜が丘桜6

 しかし、どうしたことか、毎年見られる小鳥たちが居ない。
 (2003.04.01.撮影)
 数日、通っていますが、どうも見られない。他の地域でもそうでしょうか?

桜が丘桜7

 しだれ桜は見事、しかし、いつもトップ切って咲くのに、今年は他の桜(吉野桜など)と同じ時期。

桜が丘桜8

 連れ合いは
 「おかしいわね・・・。いつもここが早くて、その後で変電所の桜が咲くのに・・・?」
 と顔をかしげます。
 でも、満開で「心配しなさんな!!」と云ってるようで、マア、マアと自分に言い聞かせます。

桜が丘桜9

 住宅団地の間を通って玉川上水駅への道、いつものヤマザクラも咲き出しています。
 歩く高齢者も走る若者も少し散って居る花びらを避けて通ります。

桜が丘桜10

 風に揺られて若葉と一緒に揺られます。

桜が丘桜11

 そして、早くもシベになっています。
 一番早く桜ん坊を付ける樹。

 「もう、サクランボウの準備ね!!」
 「また、その時期にカメラ持ってくるから」

 と約束しました。 (2016.04.07.記 年とって、頼まれ仕事が遅くなって、報告が一日ずれてしまいました。)
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野火止用水

Author:野火止用水
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