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一中の桜 (東やまと20景19)

 学校のまわりの道を歩いているだけで、見事さに魅せられます。

一中桜1
(クリックで大)
 桜は学校の全体を囲んでいます。

一中桜2
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 フエンス越しに撮影していると、生徒達が「今日は!!」と声をかけてくれます。
一中桜3
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 表門を入ると正面に東やまと20景の表示があります。

一中桜4
(クリックで大)

 北門、西門と校庭の周りに、学校全体をぐるりと囲むようにたくさんの桜の木が植えられています。
 第一中学校は、昭和22(1947)年に創立し、昭和31(1956)年に立野から現在の奈良橋に移転しました。昭和25(1950)年に植えられた木も、同時に移植されました。
 数種類の桜があるので、咲く時期がわずかずつことなり、枝いっぱいに花をつけた木、つぼみが開きかけた木など、それぞれに趣きがあります。(東大和市の解説)

一中桜5
(クリックで大)

 60年余を経た木々は、この学校の歴史を物語ります。
 現在のヤオコーの位置に、戦中の青年学校の校舎を利用して開校し、この地に移りました。
 生徒がみんなで椅子などを運び、校庭を整備しました。

一中桜6
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 桜は、2016年3月31日、ほぼ満開を迎えました。

一中桜7
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一中桜8
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 若枝から元気を貰います。

一中桜9
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 来年も数々の花を付けるように祈ります。(2016.03.31.記)

鹿島様の欅

豊鹿島神社参道周辺800
(クリックで大)

 青梅街道から豊鹿島神社の表参道を進むと左側に大きな欅が目に入ります。

DSC_4046.jpg
(クリックで大)

 手前にモニュメント「ふくろう」があり、その向こうに太い枯れた空洞の幹があります。
 尾﨑荘助氏は『大和村史稿』を残されましたが、その中に「優に十人を容るるの洞穴をなし、周囲二丈余を有す」(大和町史研究4p36)と記されています。約6メートル余あったことになります。
 書かれた年月が明記されていませんが、人口や他の記述の内容から大正十年(1921)代と思われます。

鹿島様の大欅(2003)
(クリックで大)
2003年(平成15)の大欅

 この空洞の欅に次のようなお話が伝わります。

 「豊鹿島神社の欅は樹令千余年、神社の歴史と同じ位といわれています。
 現在は、中ががらんどうになってしまい、昔の面影は全くありません。明治時代までは、枝が大きく茂り、人家が少なかったので、夜はとてもこわくて、この近くは歩けませんでした。

 明治の中頃、この大木のうろ(空洞)に火のついたお札が投げこまれて、火事になってしまいました。近所の人達が、井戸より水をリレー式で運び、枝の上に乗り、車井戸を使って水をかけ火を消しました。
 大正時代に、大きな枝が折れましたが、まだまだ樫は大きく、子供達が十人位で手をつないでまわったり、地上から一メートル位上のこぶにのり、鬼どっこ(鬼ごっこ)などして遊ぶことができました。

 あけ方になると、「ブッ」「ブッ」と不気味な音が聞こえてきました。きっと欅も水がほしくて、地下水を飲んでいたのかもしれません。この不気味な音は大正の末ごろまで毎晩聞こえてきたそうです。

 暗くなると、オッポッポ(ふくろう)が、どこからかとんで来て、枝の上で目を光らせているので、若い娘達はこわくて、外に出る気にはなれませんでした。

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(クリックで大)
モニュメント「ふくろう」

 大きな枝が折れて倒れた時、きこりさんが二人がかりで、ギーコ、ギーコと鋸で切ったら、きれいな玉目や竹の子目が現われ、その木目を利用して、たばこ盆や仏壇の下の戸を作った家もありました。

 また、戦争で焼けてしまいましたが、新宿の鳴子天神の拝殿にも使用されたと言われています。
 その後、昭和の初めの台風で、また大きな枝が折れて倒れ、近くの建具屋さんの作業所がこわされてしまいました。戦後は、人も車も急に増加したので、欅はすっかりつかれてしまい、今の様に、中ががらがらになってしまいました。」
(『東大和のよもやまばなし』p147~148)

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(クリックで大)
2010年の大欅

 鹿島様は慶雲4年(707)の創建伝承を持つ、東大和市内で最も古い神社です。
 特に、現在の本殿は文正元年(1466)の創建棟札を持ち、郷土の誇りとなる東京都内最古の室町時代神社本殿です。そのため東京都の指定文化財になっています。
 欅の幹は年々空洞化が進んでいます。この大欅は本殿の建設された経過をしっかり目にしていたはずです。「永久保存 鹿島の大欅」となるように氏子の皆様が頑張って居られます。(2016.03.30.記)

 豊鹿島神社

豊鹿島神社本殿棟札 本物の凄さ

 豊鹿島神社の本殿は、社殿の奥に鎮座します。わが市の誇りです。少ない中世建築物の中で、文正元年(1466)十月三日に創建されたことが明確だからです。得がたい室町神社建築物として高く評価され、東京都の有形文化財として指定されています。その創建を明らかにしたのが本殿に釘付けされていた棟札です。

 創建棟札
豊鹿島神社棟札146670
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(出典 豊鹿島神社発行パンフレット)

 ところが、この棟札、実に面白い謎解きに誘い込みます。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』、地元の杉本林志氏著『狭山之栞』(江戸末期から調査、明治9年発刊)に紹介されている棟札があります。いずれも記述に少差はありますが、ほぼ同じ事柄が記されているので『武蔵名勝図会』から紹介します。

 『武蔵名勝図会』棟札
武蔵名勝図会棟札70
(クリックで大)
 (出典 慶友社 武蔵名所図会 p59)

 この外に、神官宅に「天文十九年(1550)の棟札」が箱入りで保管されていました。
 この三者から、従前は豊鹿島神社の創建を天文19年(1550) としていたこともありました。文正元年(1466)の棟札の写しは文字などが不明瞭で、保管された棟札に頼ったことによるものです。
 平成5年(1993)に本殿の解体修理が行われました。その際に本物の棟札が下記の通り4枚発見されました。保管されていた棟札と合わせて、合計5枚となりました。

本殿解体修理時に発見した棟札

 文正元年(1466)大旦那源朝臣憲光
         武州多東郡上奈良橋郷
 天正4年(1576) 細野主計殿 番丈衆十人御力合
         武州多東郡上奈良橋郷
 慶長6年(1601) 大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿 参鴨久兵衛 同□太ろう □野善□□ □□□□衛門 木村□左衛門
        武州多東郡奈良橋内芋窪
 正保3年(1646) 大施主 酒井極之助重忠
        武州多麻府上奈良橋郷

神官宅保管棟札

 天文19年(1550) 大旦那 工藤下総入道
         武州多東郡上奈良橋郷
 
 これらの棟札から様々なことが読み取れます。
1文正元年棟札は創建の年代が明確になりました。大旦那は源朝臣憲光でした。
 神社所在地は武州多東郡上奈良橋郷であることが初めて明らかになりました。
2天正4年棟札は後北条氏の支配下にあって、本殿の修理者が細野主計 番丈衆十人御力合であることが明らかになりました。
3慶長棟札は大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿で、当時芋窪村に配属された徳川家臣の一人です。
 地元では地頭と呼ばれ、家族とともに現地で統治し、江戸城へは、江戸街道を馬で通勤登城しました。
 神社所在地が武州多東郡奈良橋内芋窪として、「芋窪村」の存在が明らかになりました。
 地頭と参鴨(三鴨)以下の村人達が尊崇する神社修復に関わったことが明らかになり、頬が緩みます。

豊鹿島神社棟札160170
(クリックで大)
(出典 豊鹿島神社発行パンフレット)

 しかし、次のような様々な新たな謎解き問題をもたらせました。

 謎解きは、
1文正元年棟札は狭山丘陵南麓に「武州多東郡上奈良橋郷」の存在が明らかにしました。
 従前の「村山郷」「宅部郷」とどのような関係にあるのか?
2地誌類に書かれている天文三年の棟札が今回の解体修理の時には発見されませんでした。 その行方が気になります。
 本殿修理工事報告書は次のように分析します。
・地誌類が紹介する「天文三年の棟札」は写しである。
・記載内容は、天文19年のものと同種で、年号の写し違いである可能性が極めて高い
 として、天文三年棟札は天文十九年棟札の写しと解釈しています。
3天正四年棟札の細野主計殿 番丈衆十人御力合とは誰か?
4天文十九年棟札の大旦那 工藤下総入道とは誰か?
 などなどです。これらの解明を本物の棟札達が求めています。
 また、権威ある地誌も修正が迫られることに、本物の棟札の凄さに圧倒されます。
 
  (2016.03.28.記)

 豊鹿島神社 豊鹿島神社創建伝承 

豊鹿島神社 創建伝承と江戸時代の地誌

 豊鹿島神社の創建について、神社パンフレットは江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』記載の社伝を引用しています。その原文は次の通りです。

新編武蔵風土記稿
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左 雄山閣版『新編武蔵風土記稿』 右『武蔵名勝図会』

『新編武蔵風土記稿』
 「鹿島神社、社地、一萬三千六百六十四坪、御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半、
 社傳を閲るに、慶雲四年の鎮座にて、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神とし、神体は龍王丸とて、則武甕槌命の太刀なりしといへど、神主も拝することを得ざるよし、
 
 社を造立ありしは、天智天皇第四姫官なりしとも、又、蘇我山田石河麻呂たりしとも記し、この外疑ふベきことをも記したれば、此社傳もいちいちには信すベからず、さはあれ、後にのせたる文正・天文等の棟札あるをもて見れば、旧きよりの鎮座なりしことは知るべし、」

『武蔵名勝図会』は、
 「社伝云う、当社は慶雲四年(七〇七)丁未 武蔵国へ鬼神来る時、常陸峯にて鬼神を鎮めたまう。今、鹿島之艮(うしとら=北東)之方二町に六本松がある。御陣場と云い伝う。・・・。今、祭礼に獅子舞有。それ、獅子の頭三面なるを用ゆ。是は鬼神の頭三面にして、身長一丈六尺ありし鬼神なり。それを鎮め給う古例なりとぞ。」
とします。

 祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で常陸との関係を示唆します。現在、豊鹿島神社と呼ばれますが、明治以前の記録では「鹿島大明神」(文正元年(1466)棟札、正保4年(1647)日待灯籠)、「鹿島宮」(宝暦10年(1760)狛犬)、鹿島大神宮(『武蔵名勝図会』文政6年・1823)と呼ばれていました。いずれも常陸一宮の鹿島神宮との関係を示します。

 これらのことから、『東大和市史資料編8』では
 「武神である鹿島の神が祀られ信仰の対象とされた背景には戦いの守護が必要とされる状況があったものとも推測され、当社は中世武士団と深い関わりを有していたと考えられている。」(p15)
 
 とします。明治になり「豊鹿島大神」を経て「豊鹿島神社」に名称の変更をしています。残念ですが、「豊」が付いた日時は不明です。

石川の地

 『新編武蔵風土記稿』は創建伝承に係わった人物として蘇我山田石河麻呂をあげます。また、『武蔵名勝図会』は、「村内の小名に石川という地あり。村の北方にて、狭山続きの山なり。広さ二町程なり。往古、ここに石川入道というもの居住せし跡なりと云う。馬場の跡あり。年代不知。」としています。

 慶雲四年(707)は別として、村山貯水池の湖底に沈んだ古村にこの伝承は伝わり、地名も早くから「石川」を名乗っていたようです。柳瀬川の支流の最上流にあたり、古い水田がある地域でした。「石川の七池」と呼ばれるほど池が多く、水田用の溜池と考えられます。昭和51年(1976)、湖底の水が抜かれたときの発掘調査の際、弥生時代の遺跡を探しましたが、確認されませんでした。

村山貯水池石川集落状況のコピー
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 石川の地でまつられたとされる「白山碑」が豊鹿島神社境内に遷されています。天文三年(1534)十一月三日の年銘と願主に「石川麻呂」の名が刻まれています。
 しかし、この年号は、後に記す、本殿に関する、年号の書き違えではないかと推定される棟札の年号と合致し、確実な資料とは言いがたいようにも思えます。
藤原、武田の落ち武者などの断片的な言い伝えも聞きました。いずれも古老間のまた聞きの昔話として受け止めました。

現本殿の創建棟札

 『新編武蔵風土記稿』に、「文正・天文等の棟札あるをもて見れば 」の記事と別添の二枚の図があり、『武蔵名勝図会』も同様の図を載せています。
 文正の棟札は現本殿の解体修理の際に実物が発見されました。その年号は文正元年(1466)十月三日で、本殿創建時のものとされます。
 大旦那として「源朝臣憲光」の記名があり、石川氏の消息は不明確です。
 さらに、地名として、上に記した両著に欠落している「上奈良橋郷」の郷名が明確に記されています。
 もう一つの天文の棟札については問題が残ります。次に続けます。

 (2016.03.26.記)

 豊鹿島神社 
 豊鹿島神社本殿棟札

豊鹿島神社

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(クリックで大)

 東大和市内で最も古い創建の伝承(慶雲4・707年) を持ちます。
 現在の本殿は、文正元年(1466)の創建棟札を残し、東京都内で最古の室町神社建築物です。
 東京都有形文化財(建造物)に指定されています。

豊鹿島神社参道周辺800
(クリックで大)

 東大和市の北西部・芋窪一丁目、青梅街道から狭山丘陵に向かって表参道があります。
 長い参道の脇には、維新の象徴「郷社 豊鹿島神社」の石碑、自由民権運動の集会が開催された跡、大欅モニュメント「ふくろうなど、話題性がある事柄が並びます。

 
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 参道正面の石段(男坂)を登ると、地元で「かしま様」と親しまれる社(やしろ)が、がっしり鎮座しています。
 江戸時代には朱印十三石が給せられました。手前から、拝殿・弊殿・本殿で構成され、中には祭神、本殿の様式、棟札、狛犬、獅子頭・・・など歴史の豊かさを示唆する事柄がいっぱいに詰まっています。

DSC_55461.jpg

拝殿からは本殿を拝することができます。
(2014年9月27日 撮影許可を受ける)

豊鹿島神社裏
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 社殿の北側には、八社の境内末社が祀られ、さらに、二社の境外摂社によって全体が構成されています。
 地域的には、下図の通り、南に要石、北に奥の宮を構え、狭山丘陵と武蔵野の原を包み込む神社であることがわかります。

豊鹿島神社石川里
(クリックで大)

豊鹿島神社はいつ創建されたのでしょう

 神社に置かれたパンフレットは、次のように沿革を記します。

豊鹿島神社沿革
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 『武蔵名称図絵』『新編武蔵風土記稿』の記載の詳細についてはページを改めます。
 本殿に関して五枚の棟札を有しますが、本殿の創建に関わる「文正元年(1466)十月三日の棟札」について概略を紹介します。

豊鹿島神社棟札
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 創建棟札は二枚在ります。
○左は『武蔵名称図絵』記載の文正元年棟札です。
 豊鹿島神社の神官宅に保管されている「写しの棟札」を記したものと考えられます。
○右は平成5年(1993)本殿改修工事の際に発見された、棟に実際に和釘で留められていたものの表部分の内容です。
 この二者の基本的違いは新たに発見された棟札が実物であると同時に「武州多東郡上奈良橋村」の記載があることです。

武州多東郡「上奈良橋郷」

 従前から考えられていた狭山丘陵の中世の郷は下図の通りで、南麓には村山郷と宅部郷とされ、「奈良橋郷」は想定されていませんでした。今回の解体修理で、当時の鹿島大明神は「上奈良橋郷」に建設され、「上奈良橋郷」という郷が存在していたことを明らかにしました。

奈良橋郷
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 奈良橋郷は、東大和市以外ではほとんど知られていません。これからの解明がまたれています。
 豊鹿島神社を語るときは、この問題を抜きにできません。
 ブログという制約もあります。いったんここで区切って、次に続けたいと思います。

拝殿での説明

 魅力的な神社内部の拝観は団体で事前に神社側に申し込めば可能性があります。画像は2014年9月27日、東大和市観光ガイドの会が拝観をお願いしたときのものです。当日、石井神主さんから本殿の懇切なご説明、ご案内を頂きました。
(2016.03.24.記)
 
  創建伝承と江戸時代の地誌 豊鹿島神社本殿棟札 大欅 境内社1 境内社2 二つの碑  奥の宮 
 豊鹿島神社の要石1  豊鹿島神社の要石2(武野遊草  豊鹿島神社の要石3(『東大和のよもやまばなし』)

ふくろう(モニュメント)

 芋窪・豊鹿島神社の本殿へ詣でる男坂(正面階段)の手前に大きな欅の木の幹が残されています。その根元に、本日の主人公「ふくろう」が翼を休めています。

ふくろう1
(クリックで大)
 
モニュメントの「ふくろう」です。

ふくろう2
(クリックで大)

 タイトル:ふくろう
 場所:豊鹿島神社参道
 設置日:平成4年1月28日
 材質:黒御影石
 サイズ:H1600×W600×D600センチメートル

 (作品紹介)
 「豊鹿島神社の「けやき」は、樹齢千余年、神社の歴史と同じくらいといわれています。現在は、中ががらんどうになってしまい昔の面影はありませんが、昭和の初めまでは枝が大きく茂っていて、その周りを子供たちが十人位で手をつないでまわって遊びました。
 当時は、人家も少なく、あたりが暗くなるとオッポッポ(ふくろう)がどこからか飛んできては、枝の上で眼を光らせていたので、通りすがりの若い娘たちを驚かせていたとのことです。」

ふくろう3
(クリックで大)

 豊鹿島神社は慶雲4年(707)に創建されたとする東大和市内で最も古い創建伝承を持ちます。
 現存する本殿は文正元年(1466)の棟札から、東京都内最古の室町時代神社本殿として東京都の指定文化財になっています。
 オッポッポと呼ばれたふくろうの住み処であった欅はその頃の様子を見ていたことになります。昭和29年(1954)に新たに植えた木が跡を継ぐように、大きく茂り始めました。
 『東大和のよもやまばなし』「鹿島さまの欅」を併せてご覧下さい。
(2016.03.17.記)

続きを読む

繭(モニュメント)

 東大和市・芝中団地(蔵敷)の中程に位置する芝中・中央公園に
 「オヤ・・・?」
 と首をかしげるモニュメントがあります。

繭1
(クリックで大)

 モニュメントの下の地面を見るとポコリ、ポコリと「まゆ」が半分顔を出しているので、
 「解った!」
 「そうか!」
 と頷きをもらえます。「繭」(まゆ)と名付けられています。

繭2
(クリックで大)

 タイトル:繭(まゆ)
 場所:東大和市芝中中央公園
 設置日:平成4年10月26日
 材質:ブロンズ、黒御影石
 サイズ:H2000×W700×D700センチメートル

 (作品紹介)
 「昔、東大和市の農家では、養蚕(ようさん)が盛んに行われていました。養蚕とは、蚕蛾(かいこが)の幼虫である蚕が作った繭(まゆ)を糸にして売るために蚕を飼育することです。
 昔は、農作物だけでは収入が少なく、不作だと半年や一年は苦しむこともあったため、養蚕は農家にとって貴重な収入源にもなっていましたので、蚕のことを「オコ様」とか、「カイコ様」と呼んでいました。
 そのため畑には蚕の餌になる桑が一面に広がっていました。蚕を飼っている農家では、特に七月の下旬から八月二十日頃までは初秋養蚕で忙しく、九月は晩秋養蚕で大わらわでした。」

 昔と云っても、東大和市域内の村々では、江戸時代から木綿織りと養蚕が行われていました。しかし、モニュメント「繭」が語る養蚕は、大正から昭和にかけて、「村山大島」として絹織物の生産が急増した時期のことと思われます。

昭和13年大和村縮図800
(クリックで大)

 昭和13年(1938)の大和村全図を見ると、狭山丘陵南麓の居住地を除いて南は一面に桑畑が広がっています。村山貯水池内でも斜面には桑畑が連なっていたと伝えられます。いかに養蚕が盛んであったかが偲ばれます。
 しかし、養蚕は蚕を育て、繭をとるまでの厳しい作業の積み重ねで、生糸や織物のように付加価値がつかず、当時の農家の皆さんは一番苦労が多い部分を担ったことになります。その作業を『多摩湖の歴史』は次のように記します。

 一月、山林の落葉(ナラ・クヌギ・マッ)を運び、風呂湯をかけて腐らせる。
 二月、堆肥の切りかえし。人糞をかけて積み込む。反当り300~350貫目桑畑に入れる。
 三月、中旬に春蚕用20本ほどを残し、他は秋蚕用に枝を切り取る。
 四月、中旬に夏草取りにそなえて、桑の根本に盛土する。
 五月、春蚕掃立(はきたて)は8日頃が目標。晩霜などの年は数日遅れ。桑園の除草をする。
 六月、掃立後、35日位で上蔟(じょうぞく)。
   蔟(まぶし)はワラを折ったものを、平らな竹篭のようなものに細縄でつける。7日目に収繭する。
 七月、中旬に初秋蚕掃立。気温が高いので、21日~22日で上蔟する。給桑は忙しい。桑園2回除草。
 八月、桑園施肥。
 九月、3日頃初蚕掃立。28~30日で上蔟。
 一一月、中旬から下旬にかけて、寒さから桑の木を守るため中耕し、根の土をウネの間にもりあげる。
 (p234 文中に専門用語が並び、説明をしていませんが、あまりにも長文になるのでお許し下さい)
 休む間もない、忙しくキツイ作業の連続であったことがわかります。

 奈良橋の八幡神社、男坂を上り詰めたところの大欅の根元に見逃してしまいそうな祠がまつられています。
 小さな祠で、現在は祠が新しくなっています。かっては、素朴で、蠶影社(こかげしゃ)と刻まれていました。厳しい生活環境の中で、まゆが無事に育つように精一杯の願いを込めてまつったであろうことが偲ばれます。

蠶影神社2
(クリックで大)

 モニュメントの置かれた芝中・中央公園からは30分ほどのところです。お訪ね頂きたくご案内する次第です。
 また、『東大和のよもやまばなし』には、「村山絣」「愛染様」「機場(はたば)遊び」が採録されて、絣の考案者、糸染め、織り手などについて伝えます。
 村山貯水池下堰堤の広場には、綿織物の時代を表すモニュメント「木綿絣」が置かれています。
 縞(しま)、絣(かすり)などの画像が紹介できませんが、現在、資料を集めています。集まり次第掲載します。
(2016.03.08.記)

木綿絣(もめんがすり) モニュメント

 西武多摩湖線・武蔵大和駅から周囲道路を登ると村山下貯水池堰堤への入り口に出ます。
 進むと左側に広場があり、モニュメントがあります。

木綿織り1
(クリックで大)

木綿織り2
(クリックで大)

 子ども達を案内すると、たいてい
 「どうして、おにぎりがひっくり返っているの?」
 と聞かれます。

木綿織り3
(クリックで大)

 近寄ってみるとゴツゴツしていて不思議な感覚です。
 側の案内表示を見て、「木綿絣」と名付けられたモニュメントであることがわかります。

 タイトル:木綿絣
 場所:東大和市多摩湖下貯水池
 設置日:平成7年3月
 材質:ステンレス、コールテン鋼
 サイズ:H1400×W1700×D1700センチメートル

 長文の説明があります。

 「昔・東大和市では機織りが盛んでした。藍染の木綿絣がほとんどで、江戸の頃から、明治、大正となるにつれて生産が増えました。白い綿糸十二反分を輪にして、ところどこをくくり、藍がめで染めつけ、絣模様を作りました。このくくり方の間隔で絣模様が変わります。染め場には、藍がめが何十個もあります。藍玉をかめの水によくとかし、染め付けを良くするために、押麦、米、灰、酢などを入れ、よくかき回します。かめに入れ綿糸を引き上げて絞り、何度も打ちつけて乾かし、また次のかめに入れます。

 こうした作業が繰り返されて濃い紺色に染め上がります。染め上がったら、つぼ(織子)に出します。織手の娘たちは、朝五時ころから、夜十時ころまで織り続けます。朝食前に三、四尺織り、一日に一反織って一人前と言われました。この木綿絣は、時代の流れとともに、人々が洋服を着るようになると需要が減り、次第に織られなくなりました。―東大和のよもやまばなしから―」

 ◎モニュメントはこの藍がめを表したものでしょうか?
 ◎ここに置かれた理由は、木綿絣を考案したのが芋窪・石川の慶性院住職や荒畑源七さんと伝えられ、村山貯水池に沈んだ地域であった事によるものでしょう。

木綿織り4
(クリックで大)

 木綿織りは明治、大正期に最盛期を迎えます。どの位、村の中で重要な地位を占めていたかは、下の表の通り、明治8年(1875)の各村の特産額でいずれも第一位を占め、生産額も群を抜いて高かったことがよくわかります。
木綿織り5
(クリックで大)

 東大和市の織物の歴史は
 ・江戸時代には木綿織りと養蚕(蚕を飼っても、農民が絹物を着ることはなかった)
 ・明治時代には木綿織りに模様が加えられ「木綿縞」「村山絣」(むらやまかすり)として発展
 ・その後、大正から昭和にかけて、養蚕が盛りとなり、「村山大島」として絹織物の生産が急増
 しました。
 養蚕については芝中中央公園に、モニュメント「繭」があります。
 機織りについては『東大和のよもやまばなし』に「村山絣」「機場(はたば)遊び」が伝えられています。
 縞、絣などは資料を集めています。集まり次第掲載します。(2016,03,05,記)

ひな祭り

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(クリックで大)

今年も我が家の小さなひな祭りの季節が来ました。
和やかな気配が喜びです。
近所の和菓子屋さんに頼んだ菱餅と
娘から送ってきたチョコを供えました。

「そんなに願い事したら、荷が重くて、お気の毒」
「まあ、叶えて下さるよ」
「・・・」
「惚けないように」
 から始まって、中東の和平・・・、
 山ほどのお願いをして
「元気でブログが続けられますように」
 で結びました。

DSC_0018.jpg
どうぞよろしくお願い致します。
(2016.03.01.記)
 
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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