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イヌショウマ

 ガーンです。
 東大和市駅広の歩道に埋め込まれた「緯度・高度」の標示板を撮影しに行ったので、薬用植物園に寄りました。
 早速目に付いたのがこの画像の花。小さく「イヌショウマ」のラベルがあります。

DSC_01141.jpg
(クリックで大)

 「イヌショウマって、どういう字を書くのですか?」
 「「犬升麻」って書きます」
 「何に効く薬ですか?」
 「ショウマは解熱や解毒と云われますが、これは・・・」
 何かがありそうで
 「どうして犬が付くのですか?」
 「向こうにサラシナショウマがありますね。あちらは薬になりますが、こちらは薬にならないので「役立ず」とのことだそうです。
 もう一つ、同じショウマでありながら、「似て非なるもの」の「非(イナ)」がナマッたとも云われます。」
 「??? 花言葉は何ですか?」
 「「逃げる」 です。臭いが猛烈に強くて、虫も逃げだすから・・・」

 薬用植物園の親切なボランティア・ガイドさんの説明を受けて、俄然、ショウマが気の毒になり、
 「この花の付き方は素敵じゃないですか」
 すかさず
 「それは花じゃないんです。もう花びらは落ちていて、雌しべと雄しべ(長く白い方)が残っているんです。・・・」
 「ウェエー」
 明日もいい天気でありますように!! (2015.10.30. )

東大和市の地形、景観、土地利用

狭山丘陵と台地色分け文字640
 (クリックで大)

 東大和市は上図のように北に狭山丘陵、丘陵を背に南に広がる武蔵野台地でできています。
 丘陵部は奈良橋川周辺の裾野部分を含めると、総面積の約3分の一を占めます。
 このため、市内を歩くと起伏に富んだ独特の地形と景観が楽しめます。
 平成25年(2013)現在の土地利用は下表の通りです。

東大和市地目別面積640
(出典 市勢概要 2013年版p4) (クリックで大)

 村山貯水池は一口に市の面積の四分の一と云われます。正確には、水面と周辺山林を合わせ3,1ヘクタール、総面積の23%弱で、貴重な自然を残しています。丘陵の南に広がる平地は住宅地となり、道路を含むと60%余を占めています。

南街5丁目家並み
 市南端部(道路は桜街道)からの狭山丘陵と市街地(クリックで大)

鹿島台からの武蔵野台地
 狭山丘陵・鹿島台からの市内(武蔵野台地)、遠方は多摩丘陵。
(クリックで大)

 この地形を形成する地質は丘陵部と台地部で異なり、複雑さを示します。別のページに続けます。
 (2015.10.27.記)

娘っこに化けた狐

 昭和13年(1938)のことです。狭山丘陵の南麓に旧来からの集落が営まれ、南はすべて畑でした。人家は一軒もなく、冬の夜など漆黒の原野が広まっていました。そこに、東京ガス電気工業(株)が進出して昼夜にわたる突貫工事が進められていました。その時当時の村人が不思議な体験をします。

 「昭和のはじめごろはまだ、三光院の西側の辺りは小高い山になっていました。ならやくぬぎが生い茂る中に一本、ろうそく形の杉の木がひときわ高く、にょっきりとそびえ立っていました。一里(四キロメートル)四方どこからでもよく見えて、人々は「清水の大杉」とよんで方角を知る目じるしにしていました。

三光院
(クリックで大)
現在も大木に囲まれる三光院

 秋も深まった十一月のある夜、清水に住む五十なかばの男の人が、村の寄合いが終って家に帰ろうと、十二時ごろこのあたりを通りかかりました。ちょうどその時、風もないのに持っていたちょうちんの灯がふうっと消えて、月あかりの中にぼんやりと大杉の傍に立っている若い女が目に入りました。「はて、見なれない娘だが……。こんな時間にどうしたことか。」

と不審に思いながらふり返った時、もうそこには娘の姿はありませんでした。

娘っこに化けた狐
(クリックで大)

 そのうちまるで洪水でもあったように、足首のあたりまでどっぷりと水につかって、氷りつくような冷たさです。ほんの一足の所にあるはずの家になかなかたどりつきません。ふと気がつくと、なんと空堀川の中を遡って歩いているではありませんか。これはどうしたことかと、とにかく川の中から這上り、遠くに見えた明りを目ざして夢中で歩きました。

 漸く着いた所が、昼夜兼行で突貫工事を進めていた南街の大工場の建設現場でした。本人は一体ここがどこなのかまったくわからず、狐につままれたとはこの事かと目をこすりました。

 さんざん歩きまわって、もう午前三時を過ぎていました。まっくらでは馴染の大杉も見えず、清水の方角は皆目見当もつきません。工事人の指さす方へと、半分もうろうとしたまま疲れた足をひきずり、やっとの事で清水の部落につきました。けれど自分の家がどうしてもわかりません。思い余ってよその家の戸をたたいて自分の家を教えてもらい、やっと我が家に落ついて正気に戻りました。
 「あの娘っこが狐だったんだべ」
 (東大和のよもやまばなし p176~177 )

空堀川2003年
(クリックで大) 
凍り付くような中を歩いた空堀川 2003年の姿

 昭和13年当時の絵図からルートを想像しても、村人は随分と歩きました。へとへとだったことでしょう。
 その村人と突貫工事と娘っこ姿の狐の三者対比が何ともユーモラスです。しかし
 ・東大和市のその後に大きく影響した東京ガス電気工業(株)が立地した当時の村の雰囲気、
 ・翌年には、日立航空機工業(株)と変わり、軍需工業化し
 ・昭和20年、米軍機による爆撃、壊滅
 ・「本村と南街」と云う二分したコミュニティ
 など、次の時代を用意した舞台の一コマとして読むと思いを新たにします。
 (2015.10.20.記)

秋の気配

変電所前600
(クリックで大)

 平成27年10月4日(日)、好天気につれられて、追い迫る雑用をすっぽかして都立東大和南公園に出かけました。
 変電所前の広場は親子連れのはしゃぐ声で沸き返っていて、思わずにっこり。

紅葉の種600
(クリックで大)
 モミジの種も羽を広げて実を膨らませ、飛び立つ準備。

ハナミズキ600
(クリックで大)

 ハナミズキの実はすっかり赤くなって、夢中でシャッターを押していると、突然

 「オジイちゃん、あれ取ってえ・・・」
 見知らぬ三歳ぐらいの女の子がバンドにつかまってせがみます。
 「ドーレ?」
 「あそこにくっついてるの。アタシのなの」

 よく見ると確かにシャボン玉がくっついて居ます。(画像右端)
 「とりたいね、どうしたら、とれるのかな?」
 頭を撫でていると
 「おじいちゃん困らしちゃダメ、触ると壊れちゃうのよ・・・。」
 と、ママ。
 「もう一度、シャボン玉、フーッてしたら、一緒になって降りてくるかも・・・」
 「うん。ママ、かして」
 「じょうず 、上手・・・」
 小さな手と握手してその場を離れました。

DSCN40371.jpg


 帰りみち。
 「卵みたいに並んでんだよ。あれなーに?」
 ヨーカドーと高層住宅の間、数人の男の子達が見上げています。

ヒマラヤスギ6002
(クリックで大)

 「確か、ヒマラヤスギの実だろう。でも、間違っているといけないから、お家で確かめなよ」
 大きさは20センチ近くあります。
 「あんなでっかいの落っこちたら大変だね」
 「いきなり落っこちないんじゃないかな。あそこで茶色になって、カラカラになって、実は飛び散るはずだよ」
 「へー、松ぼっくりみたい?」
 「うん、ずっと時間がたってからだけどさ。その間、楽しみにしてなよ。お爺ちゃんもここ通る度に確かめておくよ」

 わずか一時間足らず、こんな出会いもあるんですね。これ書いて居て、幸せになりました。
 また、楽しみが増えました。(2015.10.04.記)

川端稲荷大明神

 青梅街道・奈良橋の交差点を少し西に、東大和市立郷土博物館への道を入ると左側に稲荷さん様が目に入ってきます。
 江戸幕府が開かれる前のこと、家康は早々(1591~92年) と狭山丘陵周辺に直属の家臣を配属して来ました。お稲荷様の地に石川氏が配属され、陣屋を置きました。奈良橋村と名付けられ、その名主に岸氏が当たりました。『東大和のよもやまばなし』は語ります。

 「・・・赤い鳥居の両側に、大きな「まさかき」が二本たっていますが、この木は五百年はたっているだろうと思われるもので、大正のはじめでさえ、東京府下にこんな大きな「まさかき」はないだろうと言われていました。ですから、このお稲荷様がかなり古くから祀られていたのではないかと思われます。

川端稲荷1

 祠(ほこら)のすぐうしろを奈良橋川が流れているので、川端稲荷と呼んでいますが、昔から勘兵衛稲荷とも言われていました。祠の西隣に、江戸期のころ名主をつとめた岸さんの家があります。先祖の岸勘兵衛(きしかんべえ)という人が、鬼門よけに、お稲荷様を屋敷内に祀り、守り神にしていたので、勘兵衛稲荷といわれたようです。

 祠の中には、ご神体が納まっている小さいお宮があり、ご神体は丸い石と長い石だと伝えられていますが、扉があけられないので、誰も見たことがないそうです。

川端稲荷2
(クリックで大)

 ずっと昔、お稲荷様の近くに「げす溜」(肥溜・こいだめ)がありました。ある晩、お使い狐が「神様が気分が悪いと申しておこっている。」と、なきながらこのあたりを走り回って知らせたので、村人は驚いて早速、げす溜を他の場所に移しました。

 また、はやり病や悪いことのある前知らせに、お使い狐がないて近所をとび回ったとも伝えられます。このようなことが、たびたびあって霊験あらたかなので、人びとが信心して、よくおまいりしました。はじめは岸家の守り神だったお稲荷様は、のちに村の人たちがお金を出しあって、祠の修理や改築をするようになりました。明治の頃には、信者が集まって稲荷講ができていました。

 稲荷講は、毎年二月の初午(はつうま)に、赤飯をたき、油あげ、目ざし、うどん、お神酒などを供えて祭ります。そして講の人たちは輪番で「どうや」(お日待の宿)をきめて集まり、お日待をして楽しみます。今は祭日の二月十一日に稲荷講をしています。

 戦前のことですが、この近くで遊んでいた子供が、自動車にひかれました。集まってきた人たちが「かわいそうに、死んでしまったろう」と言っていると、車の下から子供がはいだしてきました。よくみるとかすり傷一つおわずに助かったので、これはお稲荷様のおかげだと大喜びしたそうです。また、ここは十字路になっていて、車の往来がかなりありますが、大きな自動車事故が少なく、ことに死亡事故がないので、これもお稲荷様がお守りくださるからだろうと、土地の人は言っております。」(東大和のよもやまばなしp9~10)

川端稲荷3

 この地域は畑作中心で、地味が悪く大量の肥料が必要でした。秣(まぐさ)や落ち葉などを集めて下肥(しもごえ) と混ぜて堆肥にしました。また下肥を溜めて中和する肥溜(こえだめ こいだめ)が重用されました。それらがさりげなく話題とされるところもよもやま話の持ち味と思えます。
 道行く地元の方は、立ち止まって手を合わせ、講も規模が小さくなりましたが続けられています。横の道を鎌倉街道、府中道と伝え、中世からの雰囲気をとどめます。(2015.10.01.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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