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今夜は乾杯

 日本の男性の平均寿命よりも少し長生きして、本日、誕生日を迎えました。
 朝食の時です。

 「おめでとう」
 「ありがとう」
 「これからはゆっくりね。授かり人生だものね」
 「そうも云ってられないよ。Word Pressってヤツで、ポータルサイトに参加するんだ」

 「え、なんだって。まだ、なんかやるの!!」
 「だって、みんなで一緒にやるんだから。
  名前だって[東大和いまむかし]ってつけたんだ」
 「?????」
 
 「いい加減にしてよ、間違いも知らずに恥さらしになるわよ」
 「記憶は落ちる、根気は無くなる、全くしょうがないもんな」
 「皆様に迷惑かける前に、ちゃんとしてよ」
 「うん・・・」

 お目出度うだか、なんだかわからなくなり始めたとき
 「お荷物です」

 そら来た。娘から届いたのがこれ。

 繋がり

 先ず、今夜は乾杯。
 いろいろの心配は、その後にしよう。焼夷弾の炎が追う中を生き延びてきたんだから。
 ということで、今後もよろしくお願い致します。
  (2015.07.31.記)

力石(ちからいし)

 たまには、気分を変えてと、東大和市市民体育館の前を通りました。入り口の横に、モニュメント・力石が置かれています。
 そのヒョウキンな姿に、子ども達の遊び場になっています。(カメラを持って行かなかったので、2月の写真です)

力石1

 「オモシロイ オジサン」
 「なんか重そうだけど、くれるのかな・・・」
  股くぐりには良いのですが、どうも、ピンとこないようです。

力石2
(クリックで大)

 「昔は、いまとちがって非常に楽しみが少なかったので、仲間が集まっては、力くらべをするのが楽しみの一つになっていました。
 東大和市内の神社の境内などには、たいてい「力石」と言われる石が置いてあり、若者たちは、汗と泥にまみれ、競ってこの石を持ち上げました。
 力石は、だいたい、20貫ぐらい(75キログラム)が普通でしたが、中には50貫(187キログラム)もある石があり、これを持ち上げれば、それこそ村中の話題をさらったものでした。」-東大和のよもやまばなしから-

 平成2年3月27日設置、高さ180×幅160×奥行き100センチメートル、と「作品紹介」があります。

 子ども達の相手をして、読んで聞かせても通用しません。
 今の子どもは違うんだ。「俵かつぎ」や「力石」じゃなくて、ゲームなら目を輝かせる。
 「俵かつぎ」は現在の運動会でも行われるけど、力石は完全に過去のものとなったんだ。
 当たり前のことなのに、ちょっと、淋しくなって『東大和のよもやまばなし』を読み返しました。

 「若い衆が四、五人寄ると誰が言い出したともなく、石の担ぎっこをする話がまとまって、一日の労働が終ると暗い夜道を神社の境内へと急ぎます。鼻をつままれてもわからないほどのまっくら闇でも、勝手知った村の道ですから足どりも軽やかです。家々からはトントンカラリと働き者の女衆の機織る音が聞えています。

 その頃はどこでも力試しが盛んでした。神社の境内などには大抵"力石"といわれる恰好の石が置いてありました。米一俵(六十キログラム)ぐらいは担げなければ男じゃない、といわれた時代でしたから、力石は十八貫から二十貫位(六七~七○キログラム)が普通でした。石の目方は秤で測って正確に決めることもありましたが、大抵はみんなで持上げてみて、おおよその見当できめました。中には三割ぐらい多目に誇大表示して、気をよくしていた向もあるようです。

 腕に自慢の男達が「われこそは村一番の力持」とばかり、競って挑戦を試みます。中腰になって持上げた石を、一旦膝の上に乗せ、かけ声諸共に渾身の力をふり絞って一気に肩に担ぎ上げるのです。同時に腰に力を入れ足をふんばって立上ります。そんな時、大向うから黄色い声援でもとんでくれば、それこそ思いがけないほどの馬鹿力がでるのでしょうが、残念ながら女性の見物人は滅多になかったようです。そのせいか、力尽きて肩まで担ぎきれずに放り落す者、はずみで肩越しに後へ落してしまう者、なかなか定石通りにはいきません。

 ある時、久米から働きに来ていたおさんどんの娘が、その場に居合せました。男達が口々に重い重いと言っていると、件の娘、石をひょいと持上げ「なるほど、こりゃ重い」といいながら、そっと下に置きました。これを見た力自慢の面々も、さすがに度胆を抜かれたという事です。

 力石は、狭山神社、熊野神社、豊鹿島神社などの境内にありました。そのほか大橋の地蔵前や、芋窪の観音堂にも置いてありました。今は湖底に眠る内堀部落でも、非常小屋の脇に二つ、三つ置かれていて、若い衆が集っては強力を競い合ったものでした。

 山口観音の境内に、五十貫(一八七キログラム)の力石があります。天保十二年に福生の人がこれを持上げ、奉納した旨、石に刻まれています。大力を自負する人達が、狭山丘陵を越えて山口観音まで、わざわざわざこの石を担ぎに行ったものでした。芋窪部落にこれを持上げた力持が二、三人いたということです。」(一部省略 p213~214)

力石3

 蔵敷の熊野神社には現在も奉納されています。狭山神社には石垣に力石が埋め込まれています。
 どなたか読んで下さればと書きました。ゲームにしてとてつもない世界につなげたら喜ぶでしょうね。
 (東大和のよもやまばなし モニュメント・10 2015.07.26.記)


米軍大和基地の碑

 西武拝島線玉川上水駅を北口に降りると正面に駅広があります。
 数人が集まっていて、そのうちの一人が
 「あ、丁度いい、奴に聞けば、知ってるべー。
  よー、タバコ吸ってたら、急に聞かれてよ、困ってんだ。ちっと訳を話してくんねえか」
 と引き込まれたのが「米軍大和基地の碑」の謂われです。
 
 かって、この地が有刺鉄柵で囲まれ、門は軽易ではありましたが武装したアメリカ兵に守られていたことを知る人は少なくなりました。
 米国空軍の基地で、宿舎が建てられ、後にハイスクールにもなっていました。

 それ以前は、軍需工場があり、陸軍の飛行機のエンジンを作っていました。
 そのため、昭和20年(1945)、米軍の爆撃を受けて、一面が焼け野原となりました。
 その跡に米軍の基地がつくられたのでした。

玉川上水駅北口駅広
(クリックで大)

 質問は、基地のあった時、この辺はどんな雰囲気だった、
 どのような経過で基地になったのかと云うことでした。
 
大和基地碑所在地
(クリックで大)

 駅を降りて正面から左側に向かうと、島の広場に、喫煙所、ベンチ、水辺が設けられて、中央に米軍基地の碑があります。
 碑には「Yamato Air Station」と彫られています。

大和基地碑
(クリックで大)

 碑の傍らの説明版は次のように記しています。
 「かってこの地域は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました。
 この工場は太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼に(かいじん)帰しました。
 その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。
 この石碑はそのとき基地正門に建設されたものであります。(一部省略)
 
  平成二年一月吉日
           東大和市長 尾崎清太郎」
大和基地位置図
(クリックで大)

 この説明をもとに、丁度iPadを持っていたので、年表を引き出し、次のことをお話ししました。
・昭和20年(1945)、爆撃を受けた日立航空機(株)の工場跡地は西武鉄道(株)の所有地となっていた。
・工場に併設された青年学校の校舎(現在のヤオコーの場所)を当時の大和町は唯一の中学校校舎として使用していた。
・そこへ、昭和27年(1952)、突然、国から米軍兵舎建設の通知が届いた。
・町を挙げての反対運動が広げられた。
・しかし、昭和28年(1953)、用地は強制収容された。
・昭和29年(1954)、工事が完成した。
・昭和31年(1956)2月24日、基地として開設された。
・同じ年、中学校は現・第一中学校の地に移転した。
・その後も返還運動は続けられた。
・昭和44年(1969)、立川基地の飛行が停止された。
 いくつかの経過を経て、その時点では、大和基地は立川飛行場に含まれる施設であった。
・3年後に返還の実現性が出てきた。
・返還運動が高まる中、昭和48年(1973)、在日米軍基地の整理統合を機に返還された。

 ウオーキングの道筋で出会ったことですが、話している間に、爆撃の跡からのすさまじい変化に今後を重ね、考え込まされました。自分のブログに書き止めておくことも必要と、紹介する次第です。堅苦しい話で、恐縮です。
  (2015.07.23.記)
 

木食上人(もくじきしょうにん)

 東大和市・高木に木食上人の話が伝わります。
 説明を受けないと近くの人も由来がわからないほどになりましたが、高木神社の東側、妙楽寺墓地にその石像があります。
 
勝楽寺墓地
(クリックで大)高木妙楽寺墓地

 狭山丘陵の小さな岡が張り出したところです。向かい合う六地蔵尊の中央に、背の高い石塔の上に大日如来様が居られます。その横の2体の石仏のうち、右側の高さ五十㌢ほどの座像が木食様です。地元では法如(ほうにょ)上人と呼びます。

法如上人石像
(クリックで大)法如上人像

 木食僧は、五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)、時には十穀(五穀の他にトウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶つことを戒律として、全国を遍歴、修行したとされます。山梨県身延町丸畑の木食行道が微笑仏で有名です。若い頃、その足跡と仏像を追いましたが、法如上人は別人です。その木食僧がなぜ、高木に祀られているのでしょうか?

 いわれを追ってみました。円乗院に次のような伝えが残されていました。
「文化六年(1809)に、本堂と庫裡を再建した。その時、山林の様々な材木を伐採し、諸々の地を穢し、虫類にも傷を負わせた。この報恩のため木食法如をおよびして、10月15日から17日までの二日三晩にわたって光明真言土砂加持と施餓鬼をした。あわせて天下の安全、五穀の豊作、様々な難を除き、子孫の長久を願った。」

 久しぶりにこの仏の前に座しました。飽食によって糖尿病を初めとする成人病に医療費を費やし、食べ残し、売り残しに処分のための経費を必要とする現在に、恥ずかしさと反省の気持ちが浮かんできました。左側面に「高木村 光明真言講中」と彫られていて、当時、数年にわたる米価不安定の中で、この像をまつった村人達の優しい心遣いが伝わってきました。
 法如上人はその後、さらに遊行を続け、渋谷の室泉寺(しつせんじ)で亡くなり、お墓も同寺にあるそうです。
(2015.07.20.記)

朝顔

 暑い日が続きます。それも猛暑です。熱中症にやられないように注意をしています。
 花もさぞ大変だろう、と水やりに気を配りますが、どうも、一つ足りない気分です。

 「朝顔がないからじゃない」
 「そうだ、確かに、朝顔がないんだ」

 今年は、何事も手早く処理出来なくなってきたことと気ぜわしいことが重なって、朝顔を植える機会を逸してしまいました。
 その時期になって、玄関口にいつもの鉢がないのは、何かが一つ抜けたようで、おかしな感じです。

 「淋しそうね、鉢植えでも買ったら」
 との連れ合いの提案です。
 「でも、なー・・・」
 「気が進まないんだ。やっぱり苗から育てないとだめなんだ」

 お店にも行ってみました。
 「白いのと水色の組み合わせはないね」
 「絞りはあるけど、無地の大輪はないわね」
 結局、手ぶらで帰ってきました。
 
 床屋さんで
 「どうも、お疲れ様でした。
  ○○さん、いつもおいで頂きますので、せめてものお礼にクジを引いて下さい」
 「イヤー、くじ運が弱くて・・・」
 と、店主とその家族が見守る中で、箱の中からの三角くじを開けると
 「鉢植え」と書いてあります。

 「お目出度うございます。この中からどうぞ」
 いくつかの鉢植えの花や植木が用意してあります。その中から、一も二もなく、選んだのがこの朝顔です。
 それから、毎朝、一輪か二輪
 「お早う」と云ってくれるように咲きます。
 「今日も暑いな、元気でな、俺も気をつけるよ」
 と水をやります。
  (床屋さん 東大和市南街6丁目「理容 西川」です。若主人は福祉施設で散髪のボランティアをされています。)

朝顔2
(クリックで大) 

 絵はがきにして礼状としました。そして、今度は宝くじを買おうと思います。 
  (2015.07.14.記) 

2キロ増

 夕食の後、どうもズボンのバンドを緩めたくなります。

 「このズボン、胴回りを詰めた?」
 「ううん、ちっともいじっていないよ」

 おかしいなと思い始めて1週間、風呂上がりに体重計に乗ったら「ウェー」。

 これはいけない、なぜだ?
 原因となるものを思い浮かべます。
 あります、あります。

1甘味
 
 「もう、お酒は飲まれないと思いまして・・・。」
  来宅の方が甘味を持ってこられる。
  その都度「ちょっと一つ」が積み重なってる。
 「他人のせいにしなさんな」
  と言い聞かせても、なんと自制力の弱さよ・・・。

2完食 

 「今日も完食!!」
 「その調子、その調子」
  に乗って、戦後の食糧難から身についた勿体ない意識が全部平らげろ命令。
  無理もないよね、は言い訳にならない。

3果物

 「今日は桃、買ってきた」
 「スイカがあんまり美味しそうだったので」
 「もう、ブドウが出てるの」
 「サクランボは高いけど、糖度14だって」
 「・・・」
  もとからの果物大明神様。これじゃ、ヘモクロビンa1cもないもんですよね。

4歩行減

 パソコンに向かうと、どうも腰骨が突っ張り、不快感、腰痛。
 お医者様に行くと、レントゲン写真を見ながら
 「多少、高齢現象が出ていますね。予防体操をしましょう」
 両足を組んで左右に一、二、三、・・・。
 この程度じゃカロリー・オーバーは解消しないのに、

 天気はジメジメ
 「腰痛からの開放期、腰が重いし、体操してるから、駅までで帰ってきた」
 「それじゃー、半分じゃないの」
 歩行計を見ると5000歩未満。

 数えれば出てくる出てくるです。
 結局は、「自分の弱さ」
 に、ようよう思い至って、若いときやったように、雨の中でも歩くことにしました。

雨の変電所
(クリックで大)

子ども達は元気で

半夏生
 
  雨粒を乗せた「半夏生」(はんげしょう)が
 「しっかりしろよ」と云ってくれているようでした。 
 (2015.07.09.記)
 

とんだ思い違い

 花の少ない時期、俳句に親しむ旧友に季節の花をと、近くの薬用植物園に行きました。
 花はまばらでしたが、穂先を揺らして目を惹く数本がありました。

ウツボ草1

 説明板には「ウツボグサ」とあります。

ウツボ草2

 どこがウツボなのか、ピントを合わせる点を探します。
 岩陰に潜むどう猛な魚、口を結んで狙いを定めているに違いないと、それらしき箇所を見つけて、ウム・ウム。
 
ウツボ草3

 ところが、上の方に、可愛らしいリボン。

ウツボ草4

 ウツボにリボンとは!!
 こっちの方に気が移ります。
 何枚か撮って、これで良し。帰宅して、ネットで調べると、
 俳句の季語は「夏」、花言葉は「協調性」とか「優しい癒やし」とします。

 よしよし、では、ウツボの謂われはどこに、・・・、和名の「靫草」に行き着きました。
 何だ?これは、武具のはず!!
 古墳からの出土品や歴史物語でさんざん手こずった漢字。
 解説を読むと、花穂が弓の矢を入れる「うつぼ」に似ているからとのこと。

 しまった、肝心なところが撮ってない。呆れた思い違いに、友に電話したら
 「お前は、その程度、付き合いきれねえよ」
 とのご託宣。
 踏んだり蹴ったりですが、ウツボにリボンが気に入って、友には送ってなんかやらず、ここに。
 (撮影 2015.06.16. 2015.07.02.記)

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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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