春先って、いいですね!!

 冬のコートを脱ぎ捨てて、かすかに残る里山を歩きます。都心から35キロ、狭山丘陵南麓の東大和市です。

谷ツ入り

コブシ

 「谷ッ入り」(やついり)と呼ばれる、この地方独特の小さな谷の里(狭山地域)では、丁度、コブシが招き入れてくれました。

都立東大和公園

 丘陵の雑木林に入ります。全体に芽吹きの色を加えていました。
 ブログで東大和市を発信し続ける東大和市民ネットの会が、市のウオーキングマップのコースを実際に歩いて、その様子を紹介する取り組みを始めました。

雑木の芽生え

 都立東大和公園になっています。住宅開発にストップをかけ、昭和54年(1979)、都立としては最初の丘陵公園となりました。狭山丘陵の景観を雑木林とともに保全する道が開かれきました。
 その木々が、季節の出番を競っているかのようで、足元を軽く感じさせます。
 
清水大日堂の地蔵尊

 麓の清水大日堂(武蔵大和駅付近)、六地蔵さんのお召し替えです。
 忙しく手を動かしながら、なんと、昔々の小学校時代の同級生。

「イヤー、久しぶりね、元気そうじゃん、でかいカメラ持ってさ・・・」
「まー、ちょぼ、ちょぼってとこだ」

「うちら、近頃、すっかり足が弱くなってな・・・」
「ちっとも、そうは見えねえけんど」

「寒いときにさ、せっせこ帽子を編んでよ、前掛け縫うのさ・・・」
「そんで、今日か!最高じゃん!!」

「そりゃそうよ、そうしなくっちゃいられねえもん。とうちゃんも、あとで来ると云うから、堂の方は任せるべー」
「そーか、夫婦でやってんだ・・・」

「ちょっと待ってなよ。お茶でも沸かすから」
「・・・」

 地元弁丸出しで、屈託ない会話が続きます。
 この人たちが居る間は、堂もお地蔵さんも大丈夫。ホッとしました。(2015.03.17日.22日撮影 30日記)
 

明治の小学校(東大和市)2

 明治の最初の小学校って、どんな様子?

 学校の仕組み

 「国民皆学」のスローガンのもとに、小学校は上等、下等に分かれていて

  下等4年間 6才から9才  
  上等4年間 10才から13才

 が就学を義務づけられました。

 実際はどのくらいが学校に通ったのか(就学率)
 全国の就学率は28%とされます。当時、この地方は神奈川県に属していました。神奈川県では40%弱が伝えられます。
 東村山市史では、市内4つの学校の就学率を 
  
  明治6年(1873) 32% 28% 13% 18% 

 としています。その後、学校施設の整備と共に増加したとされます(東村山市史下p85)。
 東大和市域では、最初のことははっきりせず、明治8年(1875)の蔵敷村の状況は

  学齢人口 6歳~13歳まで 男24人 女31人
  就学            男22人 女19人
                91%  61%

 となっています。これは、特殊な例と思われます。女子の就学率は低く、子守や家事手伝いをすることが多く、途中で止めて年季奉公に行く子もかなりいたと伝えられます。
  
 教科は

 大きく「習字」「算術」「読物・素読」に分かれていました。
 「習字」は、男子はイロハ、当用カナ、村名、国尽、消息往来、商売往来、農業往来などでした。
  女子は、イロハ、東京往来、陳情控、女消息などでした。

 「読物・素読」は、男子は和漢三字経、智恵の環、世界国尽などで、女子は女小学、女今川、女大学、智恵の環などでした。

 明治7年(1874)に蔵敷村の汎衆学舎(第百四十三番小学校)に備えられた教科書と教師用の参考書は次の通りです。(東大和市学校教育のあゆみ(p17)個々の児童は買うことが出来ずに学舎に備えていました。それらは、村の有力者の寄付であったようです。
明治の教科書
(クリックで大)
明治27年(1894)頃の様子

 建設時の授業の様子は伝えられませんが、時代が少し下がり、明治27年(1894)の頃の様子を『東大和のよもやまばなし』は次のように語ります。明治23年(1890)、学校の統廃合が行われ東大和市内の5つの学舎は3つの小学校に編成替えが行われています。

 「第一尋常小学校は芋窪の生活改善センターの所にありました。古い木造の校舎で、芋窪と蔵敷の子供たちが通いました。一クラスは三十人ほど、四教室ありました。その頃の校長、石井以豆美先生はひげを生やされ、年中「篠ン棒」(しのんぼう)を持ち、校長先生自ら授業をされました。今年八十六歳の木村さんは、小学生の頃、自習時間に遊んでいてそのムチでぶたれたことがあったうです。

 運動場は、豊鹿島神社の裏山の辺で、ここは子供たちにとって格好の遊び場、毎日にぎやかな声がひびいていました。

尋常第一小学校跡
第一尋常小学校が置かれた豊鹿島神社社務所(生活改善センター)

 第二小学校は雲性寺にありました。なにしろ校舎がせまく、教室は一つでした。お寺の大きな部屋が教室で、中央に黒板を背中合せにして区切り、生徒は学年別の二つに分かれました。二人の先生が同時に授業を行ないますと、間仕切がありませんので互の声がつつ抜けです。
 冬は毎朝、薪を一本つつ学校に持ち寄り、大きな角火鉢で燃やしながら勉強しました。

尋常第二小学校跡
第二尋常小学校が置かれた雲性寺 昭和56年(1981)再建

 第三小学校は狭山公民館のところにあって、四教室でした。生徒がいっぱいになったので墓地の霊性庵も教定(室)に使われました。しかしそこは、床のすき間から風が吹き上げ、冬の寒さは格別でした。雪の降るような寒い日には炭を起こしてあたりますが、火のそばは、いつも男子に占領されてしまい、女子はあたれませんでした。休み時間になると子供たちが墓場の中を飛んで廻り、そのあげく、土葬のくぼみに足を突込んでしまったこともありました。

尋常第三小学校跡
第三尋常小学校が置かれた圓乗院所有地・現狭山公民館

 今は貯水池になっていますが、当時、石川部落から学校に通った子供たちは一尺(約三○センチ)ほどの大雪が降ると半鐘を鳴らして雪かきをしました。自分の領分だけで、他はまだ雪が積っています。そこで男子は、松の木で竹馬を作りそれに乗って学校に行きました。女子はわら草履です。どちらも素足で行き、足袋は学校に着いてからはきました。

 欠席もなく、成績優秀な生徒に男女二人つつ賞状が与えられました。賞状は郡役所までもらいに行くのです。親にとってもそれは大変名誉なことですから、喜んでその日のために着物を作ってあげました。」(p78)(2015.03.29.記)
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 ウオーキングマップ多摩湖編

明治の小学校(東大和市)1

 東大和市に最初の小学校がつくられたのはいつ? どこに? どんな様子で?
 あまり確実な資料が残されていない中で追ってみます。

いつ、どこに?

 よく、明治5年(1872)8月、新政府が「学制頒布」をしたことにより、小学校が義務化され、校舎造りが始まったとの説明を聞きます。ところが、東大和市周辺では、そうはいかなかったようです。蔵敷村の有力者・内野杢左衛門氏の記録(杢翁記録)に次のように書き残されています。

 明治五年八月、学制が御頒布された。同六年二月、従来ノ筆学所(寺子屋、手習い)は一切廃止されることが神奈川県より達せられた。
 当時、村々の間では、芋窪・蔵敷・奈良橋に小学舎一校を設け、高木・後ケ谷・宅部・清水の四か村に一校と決めたが、まだ着手していなかったので、それがたちまち破られ、次のように校舎を置くことになった。表にします。
明治の小学校
(クリックで大)

 これからすると、神奈川県からの強い通達によって、設置の年代は明治6年(1873)、場所は神社か寺院、寺子屋で、先生は神官や僧侶、寺子屋の師匠が当たっています。研精学舎の内堀太一郎は郷学校の卒業生、後藤兵庫は神官でした。校舎を新設したり、教員を招く余裕はなかったことがわかります。

明治の小学校2
(クリックで大)

 当時の村は狭山丘陵の南麓、村山道、志木街道に沿って形成され、それ以南は人家はなく一面の畑でした。村山貯水池は存在せず、古くからの村が営まれていました。貧しい村でしたが、教育熱心で、最初は7つの村で2校が予定されましたが、小学校教育の義務化が通達されると、一度に「我が村へ、我が村へ」の要求が高まり、5施設が開設されています。神社や寺院を学舎として利用した背景が村人たちの熱意の象徴として浮かんできます。運営は村人たちの寄付と奉仕で行われました。

 学んだ内容や就学率は次のページに続けます。(2015.03.28.記)

モニュメント・野球少年

 狭山公民館の入り口の右側、狭山神社寄りにモニュメント・野球少年はあります。東大和ウオーキングマップ(多摩湖編)のコースにものっています。

モニュメント野球少年
モニュメント・野球少年の前に集まるウオーカー

 像の足もとに付けられた作品の紹介に
「明治五年になると義務教育が始まりました。学校は、今までの寺子屋が仮校舎となり、五つの小学校ができました。その一つとして円乗院に喝力学舎(かつりきがくしゃ)ができました。

 その頃、子供達は、木綿の着物に下駄か草履をはき、粉袋を開いた風呂敷には、弁当のさつま芋や学校の道具をくるみ、通学したそうです。まだ野球は、はしりの頃で子供達は初めて行うスポーツに目を輝かせたそうです。」

 とあります。このまま読むと、明治5年(1872)に野球がこの地で行われたように読み取れます。それは言葉の綾で、『東大和のよもやまばなし』はもう少し細かく伝えていて、

「大正の頃、女子はおかっぱ頭か、三つ編にしていました。男子は夏はランニングで他の季節は、男女とも木綿の着物に下駄か草履をはき、粉袋を開いた風呂敷には弁当や学校の道具をくるみました。弁当は大ていふかした「さつま芋」です。けれども子供たちは何のくったくもありません。さつま芋の弁当を持って元気よく学校に通いました。

 丁度その頃、野球を教えて下さったのは、第三小学校の石井梅光先生です。まだ野球もはしりのころ、子供たちは始めてみるスポーツに目をかがやかせました。ところが、学校の周囲には、「からたち」のくね(かきね)があって、ホームランを打つと球がトゲに刺さりパンクしてしまいました。」(p79) とします。

モニュメント野球少年2
モニュメント・野球少年と狭山公民館
 
 ここに出てくる第三小学校(村山第三尋常小学校)が、喝力学舎で、その敷地に現在狭山公民館があります。多分、この像がある辺りに「からたち」のかきねがあったと思われます。

 このように、野球が行われたのは、大正(1912~1925)の頃であったことがはっきりします。さすがにハイカラ好きの東大和人でも、まだ、明治時代には野球はしなかったようです。像をよく見ると、ユニホームもスパイクも独特で、何とも懐かしい気分になります。円乗院は像の前を左に進んで3分ほどです。

 第三小学校がどうして狭山公民館になったのか?その関係は別に紹介します。(2015.03.25.記)
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帯解林(おびときばやし)

 帯解林(おびときばやし)と云ってもピンとこないかも知れません。「○○さんちは、オビトキで・・・」と、昭和30年代まで、良く聞きました。ヒモトキと云うこともありました。七つのお祝いです。帯解寺から安産祈願を連想しますが、この地方では、子供が七歳になると精一杯のお祝いをしました。
 
 子供用に洋服・着物、帯、履き物などを新調し、餅をついて祝いました。大人はお酒を用意し、親戚と近所に餅と共に鰹節やスルメを配ったそうです。物入りでした。その時、役割を果たしたのが帯解林です。この日のために、その子の誕生の時に木を植えて、それを伐ってお祝いの資金にしたのでした。

 普段、質素な生活を余儀なくされていたことから、その経費を誕生の時から用意して、林を守ったと伝えられます。

 「あんちゅたって、めんこかんべ、いちにんめえになってもらうだからな・・・」
 
葭原山
(クリックで大)

 村人たちは、子供が生まれると同時に、ここに植林をして、子供たちの生育を見守り、お祝いをしたのでした。今では、あまり手入れも行き届かないようで、画像のような景観です。

 明治14年、国土地理院の迅速図を見ると、狭山丘陵の南麓に、もう一つの小さな丘があり、そばに丘陵のハケから湧き出す水を集めた小川が流れていて、周囲は湿地帯になっていたことがわかります。そこには葭(よし)が生えていたことから葭原山(よしわらやま)と呼ばれました。

 本当に良く名を付けたと感心します。この水辺の葭、そして林は、そのまま武蔵野の原に続いていました。画像左下にせせらぎが流れていました。

 場所は、清水神社の参道に接する道を北に下り、志木街道からは、吉岡美術園の手前、車止めのある簡易舗装された歩道を右に入ります。車の往来がないため、ゆったり歩けます。

 残念ながら、せせらぎは歩道の下になりました。村山貯水池が建設されたとき、この地に、湖底に沈んだ氷川神社と熊野神社が移転して、合祀を経て、清水神社になりました。

 少年に関わる残忍な事件に接し、この地が懐かしく、記しました。(2015.03.14.記)
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祝・おとなの社会科

 公民館講座(東大和市上北台公民館)から自主活動を始めた「おとなの社会科グループ」第2回講座が開かれました。
   内容は「電信事始め」と題して、日本の電気通信の出発点から、明治初期の状況を語るものでした。
 ・ペーリー献上モールス通信機
 ・浜御殿での公開実験
 ・西南戦争の時に岩倉具視が使った暗号表
 ・宮沢賢治の「月夜の電信柱」
  ・・・・・
 など、あとから後から繰り出す話題に、2時間、ゾッコンはまりました。
 「今では「電柱」と云ってますが、子供の頃には電信柱(でんしんばしら)って云いませんでしたか?」
 「今だって、そう云ってる」
 と電信と電気が対になって送られ、初期には、松の木にガイシ(碍子)を付けて送信していた画像が回覧されたときには最高潮でした。
電信事始め
(クリックで大)

 講師は長年電子関係の仕事に携さわれたシニアーの市民です。
 淡々と語られる口調の背後に、現場で積み上げられた実績がにじみ出ます。
 それは、同じ住民としての仲間づきあいの暖かさでもありました。

 
電信の話3

 講演料無料、市民の自主運営による、市民の講座、この芽生えが、東大和市の文化活動の鼓動を伝えるようで、これからの夢を見ます。
 今後の予定、講座の内容などは おとなの社会科 に詳細に発表されます。(2015.03.07.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
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