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胸の内にしまっておけない報告

 2015年1月30日(金)、雪でした。
 昭島市で久しぶりの仲間との会食、
 午前10時、玉川上水駅から乗ろうと都立東大和南公園の中を通りました。

雪の南公園

 鳩の姿もなく、自転車のタイアと長靴の跡を追います。

雪の変電所

 第二次世界大戦の時(昭和20年4月)、米軍の爆撃を受けた
 東京ガス電気工業(株)の変電所は寒そうです。

雪のグラウンド

 いつもは、様々なところから集まってくる若者で活気づくグラウンドも人っけなし。
 今日ばかりはお休みか、と通り過ぎます。

雪の作業1

 午後4時、帰り道。
 黙々と作業をしています。

雪の作業2

 
 さすが!さすが!!
 「どこの高校?」

 声をかけようとしましたが、止めました。
 大事に、大事にしている、その大事さが直に伝わってきました。
 明日は土曜日、たくさんの若者が集まります。今日、この作業をしなければ、走れないでしょう。
 何人が、このことを知るだろうか、
 しまっておけなくて、報告します。(2015.01.30.記)

山うなぎの蒲焼きとステッキ

 栄公園(さかえこうえん 東大和市南街五丁目)の一隅に奇妙なモニュメントが置かれています。
 ほとんどの人が、
 「これは何じゃ?」
 「コウモリ傘の柄か?」
 と小首をかしげます。

へびのステッキ
モニュメントへびとステッキ

 実は、深い背景があり、この地に軍需工場が盛りの頃の記念碑の一つとも云えます。『東大和のよもやまばなし』はこう語ります。

 「第二次世界大戦の頃のことです。当時の大和村も戦争が進んでくると、配給がきびしくなり食糧も不足になってきました。今まで農業をしていなかった人達も、空地にジャガ芋、とうもろこし、スイートメロン等作りましたが、なれないため失敗した事もあったそうです。

 栄養補給のため「山うなぎをたべた人もいた」と聞いたので、よく話を聞いてみたら、それはヘビの事でした。
 現在の玉川上水駅付近は、雑木林が続きワンパク少年達の遊び場でした。
 そこには長さ七〇センチメートルから一メートル位の、茶色に黒の縞蛇(しまへび)や、青大将、黒い地もぐりが沢山いました。
 地方から日立航空機に動員された青年の中に、ヘビ取りのじょうずな人がいました。 まず雑木林から、適当な木の枝を見つけ先を割り、紐をつけた棒をはさんで簡単なヘビ取り器をつくります。
 ヘビを取る時は、細工した枝を何本も用意して出かけ、ヘビを見つけたらそっと近づき、首をはさんでひも紐を引くと、ヘビは苦しくて棒にまきつき簡単にとれました。
 とったヘビの肉は骨つきのまま、四、五センチメートルに切って串にさして、醤油をつけて焼いてたべました。くさみもなく醤油の味がよくしみて、「山うなぎの蒲焼き」と云って貴重なタンパク源となりました。

 又、ヘビでステッキを作った人もいました。肉を押し出すと、むいた皮は裏返しになるので、もう一度表に返るように棒をさします。そのまま水にさらしてから、風通しのよい場所で蔭干し乾燥させると、皮が棒にぴったりとはりついて、立派なステッキができ上りました。本式には上薬(うわぐすり)を塗って仕上げると、つやもよく、うろこもはがれなかったのでしょうが、塗料もなかったので、そのまま使用していたら、だんだんうろこがはげて来てしまったということです。」
(『東大和のよもやまばなし』p100~101)

山うなぎと蒲焼き800
(クリックで大)
 

 工場(日立航空機(株)立川工場)は陸軍への航空機エンジンの製作に当たりました。昭和19年(1944)には、13,896人の従事者が居ました。全国から徴用工が集められ、併設された青年学校には3000人、その他学徒動員により、若者が多く在籍していました。昭和20年(1945)2月から4月にかけての米軍機の爆撃により、工場は壊滅しました。幸い、このモニュメントの置かれた地域は、従業員の寮と社宅地域で、爆撃からは逃れられました。

 全国から集められた青年たちは、亡くなった人も居ましたが、多くが終戦直後、それぞれの国に帰りました。わかりにくいモニュメントですが、この前に立つと、爆撃の後の荒廃した姿が目に浮かびます。(2015.01.27.記)

165と250の違い

 仲間と進めている、東大和 市民ネット
 ・テンプレートを一新し、少しでも動きがあるようにしよう!
 ・内容を少しずつ充実してゆこう!

 ということになりました。

 先ず、トップの画像の問題がでました。
 関心のある方に呼びかけて、投稿していただいて、積み重ねられれば最高ということです。

 テンプレート全体の形から
 横幅は800ミリに決まりです。縦は165ミリか250ミリでテストすることになりました。

 とりあえず、自分で過去に撮りためたものから始めてみました。
狭山丘陵秋165
 上165ミリ、下250ミリ(いずれもクリックで大)
狭山丘陵秋250

 横長風景ではさほど問題は感じません。2~3枚のパノラマにすれば、ほとんどクリアーできそうです。
しべ桜165

 問題は花とか昆虫、動物です。165ミリでは、制約が出そうです。
 250ミリで、ようよう雰囲気が出てきます。
しべ桜250

 テストをしているうちに、愕然としました。
 「1枚の画面に精魂を込める撮影者の立場はどうなるんだ」
 ということです。
 
 当然のことですが、
 完成型写真の画面の一部の切り取りは
 「御法度」「ダメ」
 とガッチリ教えられました。

 横長の165ミリと250ミリを頭に置いて、改めて、撮影を始めました。
 仲間が苦労して、165ミリにするか、250ミリにするか検討を続けています。
 結論が出次第、お知らせします。
 是非とも、横長の東大和市内の画像の提供をお願いいたします。
 (2015.01.20.記)
 

三角神社(東大和市清水)

 三角辻のお話の続きです。東大和市清水に、三角神社と呼ぶやしろがまつられているところがあります。
 中世に遡る「八王子道」と江戸時代、清戸(現・清瀬市)の宿を通り、新河岸川に通ずる交易の道「清戸街道」が交わる所です。
 (この地域で、地元で八王子道と呼ばれる道との交差する場は二カ所を考えています。一つは、更に300メートルほど西方に進んだ通称「三角山」と呼ばれていた箇所で、村山貯水池に沈んだ杉本に通ずる道と交る所です。
 もう一つが、この地で、所沢方面からの広域な交通が交る場と考えています。お知らせ有り難うございました。)
 
 まさにY字型の三角地、辻しょうげの話題にもピッタリのところです。

三角神社

 今は全く姿を変えていますが、かっては周囲に雑木が茂る低い丘で、大きな欅の木があったそうです。砂川九番(立川市)からも見えるほどで、根元は6人が手を広げて廻すほど太かったと云います。

 赤い鳥居をくぐると、中に、2基の塔があります。地元では左側の塔を「馬頭様」という人も居ますが、両方とも庚申塔です。それぞれに特徴があります。

三角神社庚申塔2
三角神社内庚申塔

①右側の塔

 塔の造立経過を詳しく刻んでいます。

 正面に、青面金剛像、日月、三猿、像の左側に「武州多摩郡山口領 清水村」、同右側に「享保十三戊辰歳九月吉日」

 左側面に
 厚く青面金剛を信仰する村人が、五年間信仰を続け、三十季の結願を迎えたので、香華・燈明を捧げ、擁護を祈り、塚を築いて安置する
 鶴亀の長寿や安楽とともに近隣ならびに四海泰平を願う。(意訳しました)
 
 右側に 大聖山 持寳院 法印慶傅

 台座に 宮奈戸、杉崎、野口、五十嵐、大久保、原、田口、池谷などの名前
 が刻まれています。いずれも、狭山丘陵南麓の清水地域の旧家です。

 この像から、60日ごとに廻ってくる庚申の日に、狭山丘陵南麓の清水地域で講を開き、5年間継続した。その結願として、庚申塔を造立した。
 享保13年(1728)、塚を築き、そこに、塔をまつった。
 ことがわかります。まさに庚申塔造立、庚申塚築造の由来がわかります。東大和市内には奈良橋、蔵敷に庚申塚がありますが、それらの塚の築かれた経緯が類推できます。

②左側の塔

 上宅部村の村名が刻まれています。

 造立した時代は不明ですが、村山貯水池が建設されるとき、湖底に沈む地域からこの地に移されました。
 表面が荒れていますが「山口領宅部村」と刻まれています。
 上宅部は地域名としては残されていますが、村名としては明確ではありません。
 村山下貯水池の取水塔から堰堤のある辺りが「上宅部」の地域でした。江戸時代に入り、散在する集落がまとめられて一村とする「村切り」が行われて「清水村」ができる以前に、上宅部という独立した村があり、享保13年に至っても、村人達が、その存在の主張として村名を刻んだと推察されます。

三角神社草鞋

 三角神社には、かって、わら草履が捧げられていました。街道筋から、旅の無事を祈ったことも考えられます。江戸時代後半には、この周辺が清水村の南境であったことがわかります。

 また、「上宅部」と「清水」の村人たちのそれぞれの思いのこもった庚申塔がまつられて、社の中に守られていることは、文化財としても摩滅が防止され、辻しょうげもお守りとなって、何よりです。

 長くなってすみません。(2015.01.10.記)

辻しようげ

 道路に、自動車の往来がなく、主に歩く場所だった頃のことです。道筋が三角形に交差するところがありました。そこには、お地蔵さんや幣束がまつられていました。最近では道幅が広がり、歩道がつくられて、石仏や石塔は神社やお寺にうつされて、幣束も見ることが出来ません。

蔵敷庚申塚1
道筋がY字形に交わる箇所(蔵敷庚申塚) 

 そんな場所での出来事を『東大和のよもやまばなし』は、次のように伝えます。

 「Y字形の三角辻には悪い神様がたくさん集まっていて、通る人やそこに住む人になにかとわるさをするものだ、と昔から言われていました。これを「辻しようげ」と言っていました。ですから三角辻は利用価値が低く、たいていは石仏、石塔などが建っていたり、捨て場になったりしたものでした。

 一年間の厄払いをした幣束やご用済のお札が捨てられていて、風雨にたたかれてとけかかり、なにやら陰湿な雰囲気をかもし出していました。夕暮時の辻はことさらにうす気味悪く恐しいものでした。

 「辻しようげにたかられるといけないから、辻は足早に通りなさい」
 と常日頃、母親にいわれているので子供達は、たかられないうちにと目をつぶって一目散に駆けぬけました。それでも運が悪いのか、神様の気に入られたのか、中には「しようげ」にたかられて虫を起したような状態になって、親をびっくり仰天させたものでした。

 五日市に、たかった「しようげ」を抜いてくれる人がいましたので、そんな時は早速、自転車の荷掛に子供を乗せて連れていきました。三十代の男の人で、特に祈祷を職業としているわけではないのですが、効き目がると評判でした。数珠(じゅず)をかけて何やら云いながら拝むと不思議に「しょうげ」が抜けて、また元気な子供に戻ったものでした。」(『東大和のよもやまばなし』p47~48)

蔵敷庚申塚2
左から、湯殿山大権現祈願塔、馬頭観音、庚申塔、
西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔

 東大和市内には、現在もいくつかの三角辻があります。しょうげの話はなくなり、御幣もあげられていません。プライバシーの問題もあり、代わりに、蔵敷の庚申塚を紹介します。

 この地は、江戸時代には村のはずれで、昭和20年代まで、人家から離れた原中にぽつんと塚がありました。道路は左側が江戸と村山(武蔵村山市)を結び、右側が砂川(立川市)を経て八王子方面への主要な道筋でした。

 そのため、この三角辻には庚申塚が築かれました。石塔として、湯殿山大権現祈願塔、馬頭観音、庚申塔、西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔などがまつられて居ます。おそらく、子供たちには「しようげ」か、何か恐ろしげな話が語られたものと思われます。(2015.01.06.記)

新年の桜

 暮れに、知り合いが「福島の桜です」と届けてくれました。
 「わざわざ、福島から」と、ふるさとがとても近くになりました。

正月の桜

 「無事、開くといいけど・・・」
 「名前なんて云うんだっけ・・・?」

 正月元日、かすかに芽の動きが始まりました。
 2日朝、何輪かがピンクの色を付けてきました。
 3日朝、目覚めると微笑むかのように迎えてくれました。

正月の桜2

 今年も健康で!
 と言ってくれているようで、写真日記第1号でアップしました。
(2015.01.03.記)

明けましてお目出度うございます。

 お元気で新年をお迎えのことお慶び申し上げます。

2015年賀

 長い歴史の間に、様々な気候変動を経験してきましたが、火山・地震を含め、ここ数年の異常さは普通ではないようです。被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。

 幸い、狭山丘陵、玉川上水、野火止用水では、四季の訪れと生育する植物たちはそれなりに循環をしています。おだやかな羊にあやかって、今年も平穏であってほしいと願います。

 東大和市民ネットの充実に向かって努力を重ねます。
 おかげさまで、夫婦とも、薬を飲みながら、日々の生活を楽しんでおります。本年もよろしくご交誼のほどお願い致します。
 (2015年 元旦 記)
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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