厄神さま

 暮れも押し詰まりました。
 大晦日、村山下貯水池に沈んだ上宅部(かみやけべ)の里に伝わるお話です。
厄神の里
 二つの取水塔の間あたりに伝わりました

 日もとっぷり暮れたある晩のこと。
 「トントン、トントン」
 家の戸を叩(たたく)く音がしました。出てみると暗やみの中に見すぼらしいなりの托鉢(たくはつ)の僧が、一人たたずんでいます。そして
 「一夜の宿をかしてください」
と言いました。山道で行き暮れてしまい、里の燈をたよりにようやくたどりついたのでしょう。○○家では快よく迎え入れ、手厚くもてなしてあげました。翌朝、その僧は、

 「せっかく泊めてもらったのですが何のお礼も出来ません。そのかわりこの家の厄病(やくびょう)を祓(はら)ってあげましょう。大晦日(おおみそか)の夜、幣束(へいそく)をさんだわら(俵のふた)に差して上りはなにかざり、三方(さんぼう)の辻に納めなさい」
 と告げて立去りました。

 そこで、○○家では大晦日の夜がくると、幣束をさんだわらに差して上りはなに飾り、お神酒(おみき)とお燈明(とうみょう)をそなえて無病息災(むびょうそくさい)、家内安全を祈りました。そして一夜が明けると塩ばなで清め三方の辻(三叉路)に納めたということです。

 それ以来、同家では「厄神(やくじん)さま」として祀るようになりました。これは、清水の○○さんが宅部村にお住まいの頃、ずっと昔から伝わるお話です。

 ところが、このご時世です。三方の辻の「神様」はいつ「ふんだらげられる」か分りません。それではもったいないことで、今ではうぶすなの神・清水神社のご神木の根元に納めています。

 始め、赤い幣束を立てたそうですが、今では、水色だった「水神さま」も同じように白い幣束になりました。「厄神さま」は、いつか○○家の親族の間にも祀られるようになり、その行事は今も続けられております。(『東大和のよもやまばなし』p45~46)
 
 厄神信仰は、続日本紀(しょくにほんぎ)に、「疫神を京師の四隅と畿内の十堺(じゅっかい)に祭らしむ」という記事(770年)があり、古くから伝えられています。また、有名な神社もあります。

 どのような経過をたどって上宅部の地に伝えられたのかは不明ですが、赤や水色の幣束の伝えから、疫病退散、水神信仰が一緒になっているものと思われます。

 形は変わって、今も、門口に小さな御幣がまつられてるのに接すると、この話を身近に思い出します。(2014.12.29.記)

今夜はブリしゃぶ

 午後4時、公民館での歴史談義を終えて帰宅すると、郵便受けに配達通知が入っていました。娘の名前、さて何だろうと、配達屋さんに電話。
 丁度、近くに居たらしく、すぐ届けてくれました。

 「ご主人の好物ですか・・・? 大事に配達して下さいと頼まれました」
 早速、開けてみると、昭和五十六年製造、「貴古」、33度という。

貴古


 連れ合いが
 「今晩、乾杯ね、丁度、クリスマスじゃない」
 「ホイ、ホイ、それにしても気張ったな」
 「あとが大変よ・・・!!」
 「まずは、命の洗濯」

 「鳥もいいけど、お魚屋さん行ってみない」
 「ブリしゃぶ?」
 「トンしゃぶでも、野菜の天ぷらでも」
 「ネギのいいの買ってきて、ブリしゃぶとするか」

 さてさて、どんな味がするのでしょう。
 (2014.12.24.記)
 

松っこごれ地蔵

 高木神社の東側、妙楽寺墓地の一角に地蔵堂があります。

松っこごれ地蔵堂

松っこごれ地蔵1

 もとは、高木二丁目の志木街道の道沿い(高木駐在所の近く)にありました。

松っこごれ地蔵旧地

 志木街道、高木一・二丁目 信号機右側安全柵の付近にブロック造りの地蔵堂がありました。『東大和のよもやまばなし』はこの頃の様子を次のように伝えます。

「地蔵堂の中には右手に錫杖、左手に宝珠を持った身の丈百五十センチメートルの立派な石のお地蔵さんが祀られています。

 お地蔵さんの背面には
 毎日晨朝入諸定
 入諸地獄令離苦
 無仏世界度衆生
 今世後世能引導
という文字が刻まれています。

 昔、このあたりが一面の原だった頃から、「いぼ地蔵」といわれ村の人達の信仰を集めていました。このお地蔵さんにお願いするとがんこないぼもいつの間にかコロリと取れてしまうからなのです。
 いぼを取ってもらった人は、お礼に山から「松っこごれ」(松かさ)を取ってきて木綿の糸でつなぎ、首や手にかけてあげました。いつも松っこごれでかざりたてられているので、いつしか「松っこごれ地蔵」といわれるようになり親しまれていました。

松っこごれ地蔵2

 昔は地蔵堂もなく広い原にポツンと立っていましたので、子供達の良い遊び相手にもなったようです。男の子は棒を振りまわしてお地蔵さんの廻りを飛びまわり、女の子は子守りをしながらままごと遊びをしました。お地蔵さんの台座でもち草つきでもしたのでしょうか、台座に石でたたいたようなあとが沢山残っています。

松っこごれ地蔵3

 信心深い村の人達はお地蔵さんに木のお堂を作ってあげました。お地蔵さんはそれからも長い年月、お堂の中からじっとみんなを見守ってきたのです。このお地蔵さんは、いつ頃誰の手によって高木の原に祀られたものか今では知る人もありませんが、村山六地蔵の一つといわれています。(後略)(『東大和のよもやまばなし』p4~6)

松っこごれ地蔵偈

 お地蔵さんの背には延命地蔵菩薩経の偈(げ)が彫られています。ここから延命地蔵尊であることがわかります。地元では平成9年(1997)志木街道の旧地から現在地に遷したとき、285年前の建立としています。

 単純に遡れば正徳年間(1711~1716)で、東大和市内では正徳2年、清水の大日堂の胎蔵界大日如来像の造立、三光院の梵鐘が造り替えられるなど、村人たちの信仰が高まった時でした。同時に、正徳4年には、江戸市中で、物価高のため町人の騒動が起こり、狭山丘陵では、幕府の御用林の改め調査がなされるなど、緊張も高まった時代でした。

 村山六地蔵については稿を改めますが、狭山丘陵南麓に新田開発が進み、ようよう、生活基盤が整ってきた時、ざわめきの中で、子孫の安楽を願った仏が、いつか、いぼ地蔵さんとして広く信仰されたようです。いまだに松かさが捧げられているのを前にすると、この文字を刻んだ当時が厳しく思い起こされます。(2014.12.20.記)

いづみのまわり地蔵さん

 「カンカンカンカン」甲高(かんだか)く冴えた鉦(かね)の音が秋空にひびき渡って、今年も「いづみの地蔵さん」が大和村にもまわってこられました。

 狛江市和泉(こまえしいづみ)にある泉竜寺の延命子安地蔵(えんめいこやすじぞう)さんです。この地蔵さんは、子育て子授(さず)けに大層ご利益があるというので、江戸の昔から近郷近在の人々の信仰を集めていました。十二代将軍の時代には徳川様の病弱なお子のために、地蔵さんがお駕籠に乗って登城したという言い伝えがあるくらいですから、それは大変なものでした。

 地蔵さんは毎月二十五日に泉竜寺を出立し、民家に一泊しては次々と町や村をまわり、翌月の二十二日に巡行を終えて、翌二十三日の午後に寺へ帰ってきます。「二晩泊めると地蔵さんが泣く」といってどこの家でも一夜限りでした。寺に帰られた時も一泊すると翌晩はお仮屋で泊り、次の日には「お留守居番」の地蔵さんに後を託して、また長い巡行の旅に発たれるのです。こうして子育て地蔵さんはほとんど一年中まわって歩かれたので、別名「いつみのまわり地蔵さん」とも呼ばれて親しまれていました。

 砂川、小川を中心とするこの辺りの地域は、毎年十月二十五日から十一月二十二日までが巡行期間ときめられていて、大和村に到着するのは十一月のなかば過ぎ、ちょうど麦の播(ま)きじまいの頃でした。大正から昭和にかけてもっとも盛んで、昭和十七年頃まで続きました。」

泉龍寺山門2
泉竜寺山門

 『東大和のよもやまばなし』はこう語り始めます。巡回は都内は3月、狭山丘陵周辺では8月から9月に入間市から所沢市、青梅市、10月から11月に立川市から狭山丘陵南麓を廻ったとされます。よもやまばなしを続けます。

 「お厨子に入った地蔵さんは、丸くおおいをした手車に乗せられて、鉦をたたく人を先頭に世話人など数人につきそわれ、隣の部落から送られてきました。篠棒(しのぼう)の先につけた「延命子安地蔵尊」と書かれた色とりどりの旗が風になびいています。宿に到着すると、旗は入口の立木にゆわえつけて今晩の宿の目じるしにします。

 「地蔵さんの宿をすると子が授かる」というので、宿を希望する家は少くありませんでした。しかし限られた期間に多くの部落をまわらなければなりませんので、各部落に一軒か二軒とあらかじめ決められていました。
 宿をする家では朝からおはぎや煮〆(にしめ)を作って、供養のふるまいの準備に大わらわです。地蔵さんを座敷に迎え入れると、お灯明をあげてお厨子の扉を開きます。左手に小児を抱き右手に錫杖(しゃくじょう)を持った、台座ともで四十センチメートルほどの小さな木の坐像です。

 その日ばかりは女衆達も、子供の健康祈願という大義名分があるので、晴れて機織(はたおり)りの仕事を休み、着飾って三々五々お詣りに出掛けます。若い衆たちも地蔵さんの来られる日は、はなやいだ雰囲気に心が浮き立つ思いだったといいます。

 日頃からきれいな端布(はぎれ)を見つけては、夜なべに縫いためておいた柿や猿の縫いぐるみを地蔵さんに供えます。新聞紙を重ねた台紙に、いくつも猿や柿を糸で結びつけ「お針が良くできますように」と念じながら、お厨子(ずし)の扉の内側に飾ります。猿は五匹まとめてつけます。「マメでござる」の意味がこめられているのだそうです。そのほか、地蔵さんのよだれ掛、頭巾(づきん)、きんちゃく、鉦のふとんなどを供える人もいました。

 子供達は上達を願って習字や絵を供えます。子に恵まれない人、弱い子をもつ人、もうすぐ母親になる人などはお賽銭(さいせん)をあげ、供えられた品々の中から何か一つお借りして身につけ、それぞれに願をかけます。病弱な子には柿や猿を借りてチャンチャンコの衿(えり)につけて背まもりにします。翌年、結願(けちがん)のあかつきには借りた品物を倍にしてお返しするのがならわしでした。

 子供達は丈夫になるようにと、地蔵さんに供えられたお菓子を分けてもらって大はしゃぎです。隣の部屋からはお詣りに来た人達が、ご馳走になりながら四方山話(よもやまばなし)に興じる楽しそうな声が聞えています。年に一度、地蔵さんの来られた日は、子供達も若い人も、お年寄りたちも、祭気分で夜の十時ごろまで一日中楽しく過しました。

 一泊した地蔵さんは、翌朝世話人に送られ隣村からも迎えが来て、賑々(にぎにぎ)しく次の宿へと引継がれて行きました。」(p1~3)

つるし雛
現在のつるし雛

 親友が狛江の住人で、泉竜寺に葬られ、生前、よく遊びに行ってはこの話の背景を聞いたのを思い出します。お地蔵さん建立の願主は、安永7年(1778)年、神田の上州屋・松本弥次兵衛夫妻と調べてくれました。当初は江戸市中に信仰が厚かったことがわかります。

 多摩地方では、中島恵子氏が「入間市の宮寺では、天明の飢饉のあと、疫病が流行って子どもが大勢亡くなったので、このお地蔵さんをお迎えすることにした、と云い伝えている。」(『多摩のあゆみ第三号』p40)としています。現在の寺院に、水子地蔵がずらりと並ぶ風景を重ね合わせるとセルロイドの風車の奥につるし雛が揺れているのが一瞬見えるようで、複雑な思いです。(2014.12.13.記)


いかづちさま

 村山上貯水池に沈んだ藤兵衛さんのふるさと石川に「いかづち山」と呼ばれる小高い山がありました。山頂に「雷大明神」(いかづちだいみょうじん)の碑がまつられていました。現在は芋窪四丁目の住吉神社(地元では山王様)の境内に移されています。

住吉神社境内碑

 左から弁財天、雷大明神、神明社で、真ん中が、いかづちさまです。一部が欠け、摩滅していますが、『東大和のよもやまばなし』はこの碑について次のように紹介します。

 「五十六センチメートル程の小さな石碑ですが、これが大層子供の夜泣きに効き目があったということです
 生れて間もない赤ちゃんはよく夜泣きをするものですが、夜中に力いっぱい泣かれると家の者はたまりません。幾晩も続くと皆、睡眼不足になってしまいます。

 そこで雷様にお参りをして夜泣きが止まるようにお願いをしました。夜泣きが治ると村のおもちゃ屋で買い求めた竹の横笛をお礼に納めました。今、この石碑は芋窪の天王様の境内に移されてひっそりと建っています。「雷大明神社 文正元天戊十月三日」(一四六六)と記されてあったようですが、すっかりすりへって読むことは出来ません。」(p208)

雷明神碑右面1

 夜泣きとともに小供の寝小便がなおり、遠くからも信仰されたそうです。我が家でも、子育て最中には、夜泣きに、夫婦かわりばんこでおんぶしたり、おねしょで布団に広がった世界地図に苦笑の連続でした。早くから知っていれば、願掛けに行ったと思います。竹の横笛をお礼に納める風習は10円玉に変えられています。この石碑、面白い背景を伝えます。

 正面は読めませんが、昭和32年(1957)調査では

 「雷大明神社  祭主 若 満 
           願主 石川麻呂
   文正元天戊十月三日」

 右側「歳二月日、□州多摩郡芋久保村、尾又七郎左衛門・石井武左工門・高杉糸兵衛・栗原七左衛門・□□□兵衛」
 左側「願主石井甚衛門、進道善衛門、氏子中、須嘉沼平衛門・清野半左衛門」
 と刻まれていたと記録されています。

 文政元年(1466)の年号と願主・石川麻呂の名が刻まれていることは、豊鹿島神社の現・本殿の創建の年と豊鹿島神社の創建伝承を併せています。
 同時に、左右に彫られた人名は、豊鹿島神社境内にまつられている他の石碑と同名で、その石碑は文化4年(1807年)2月に造立されています。

 このことから、雷大明神の石碑は、江戸時代末に造立されたことが推測されます。その頃、石川の谷に、豊鹿島神社尊崇と天候の神、豊作の神をまつる気運が高まったことが考えられます。

 毎月、1日・15日・28日に参詣者があり、石川では28日を「神まいりの日」として、多くお参りする風習であったことが伝えられます。多分、藤兵衛さんもお参りしたことでしょう。(2014.12.10.記)

藤兵衛さんのふるさと 石川の谷

 藤兵衛さんは村山貯水池に沈んだ石川(芋窪村、現・東大和市多摩湖三丁目、六丁目)に住んでいました。狭山丘陵ができるとき、自然が刻んだ大きな谷です。
 その谷の傾斜地とあまり広くない平地に集落がありました。小さな谷ツからの湧き水を巧みに集めて「ため池」を作り、中央にそれらを集めた石川が流れていました。その水を利用して貴重な水田が営まれていました。
村山上貯水池
村山上貯水池に沈んだ石川の里 堰堤から
 なぜ、石川か? 
 この地には蘇我氏の石川麻呂に関わる伝承が伝わります。古くは、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は芋窪村の豊鹿島神社の創建社伝について「蘇我山田石河麻呂たりしとも」と紹介して、「この外疑ふベきことをも記したれば、この社伝もいちいちには信すベからず」と否定しています。

 また、明治13年(1880)の皇国地誌には、「往古石川麻呂の居住地」として、下石川2419番地の地を伝えます。村山貯水池の工事が行われたとき、発掘調査が行われ、馬具などが出土しています。その他、文正元年(1466)「願主石川麻呂」銘が刻まれている石碑がありますが、確実な裏付けはありません。

 狭山丘陵の南麓の芋窪地域にはお寺がありませんでしたが、石川には蓮花寺と慶性院の二つのお寺がありました。いずれも、江戸時代の創建と考えられます。
 考古学の上からは旧石器、縄文時代の遺物が採集され、石川は柳瀬川の支流の一つ、もしかしたら弥生時代の遺跡が眠っているかも知れません。また、古代の土器、中世の板碑が残り、古くから人々の生活が営まれていたことがたどれます。そして、南麓では、具体的に9世紀から10世紀にわたる生活跡が残されています。

笠松坂3 
(クリックで大)

 藤兵衛さんは図の住吉神社の北側の麓に住んでいました。住吉神社は丘の上にあり、大きな森に囲まれていて、北側の谷は日かげ地になっていたことから、「ひかげの藤兵衛さん」と呼ばれたのでした。そして、腕のよい木こりの親方でした。図の「土ヶ窪池」の周辺は、幕府の「御林山」で松の木が植林されていました。また、笠松坂を超すと、その周辺にも「御林山」がありました。
 藤兵衛さんはこれらの管理をしていたことも考えられます。次へ続く。(2014.12.05.記)

師走の芽吹き

 衆議院選挙が始まって、先生方の走りは慌ただしく
 なぜか、歳暮の送達もいつもより早い感じ
 「師走って、こういうことかよ・・・」
 変な実感です。

 歳暮のお礼状にと近くの紅葉を撮りに出かけると
 応援演説のスピーカー
 「・・・・、お約束します」
 「ホントかよ???」

ぼやきをよそに都立東大和南公園は紅葉の真っ盛り。

都立南公園の紅葉

  子どもたちは落ち葉を集めて、掻き揚げの順番を決めるジャンケンポン。
 
寒ボケ

 そばで、ボケの花が「ソーレ!!」

 でも、寝袋か、不似合いの大きな袋を抱えて、ベンチに座る中年の人、今夜どのようにして過ごすのか気になります。みんなが暖かくなるように祈ります。

紅葉と新芽

 葉を落とし始めた欅の向こうに
 色づきを深めた葉が、役割を果たしたように新芽を生み出し
 来年が託されようとしていました。

 こう、強くありたいものと、念じます。
 (2014.12.03.記)

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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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