悲田処(ひでんしょ)

 古代,、府中市に武蔵国府、国分寺市に武蔵国分寺、下の図の所沢市・東の上遺跡に駅家がある他は、武蔵野の原がずーっと続いていた頃、狭山丘陵の東端に、旅の救護所(悲田処)が出来た(833)という話です。その費用を官吏が自分たちの給料の中から出したという、ホットなことも伝わります。

1 続日本後紀 天長10年(833)5月11日条

 ごく大ざっぱに現代語に置き直すと
 「武蔵国から云ってきた。武蔵野は広くて、茫々として、旅の途中、飢えや病に苦しむ者が多い。そこで、多磨郡と入間郡の境に悲田処を設かたい。五軒の家を建て、我々六人の俸給の一部をさいて、それを貸し付けた利息で、維持費としたい。これを代々の国司に受け継がせたい。」
 (原典の一部 介従五位下・当宗宿禰家主(あてむねのすくねやかぬし)以下、少目(しょうさかん)従七位上・大丘秋主己(おおおかのあきぬし)上の六箇の人、各公廨(くげ)を割き、・・・。)

 と、書かれています。旅人の休息の場所であり、一時の飢えを救い、病んだ旅人を保護する場であったと思われます。
 注 昭和46年発行・東村山市史では、悲田処を計画した介従五位下当宗宿禰家主以下の人々は渡来系の人としています。(p166)

 もう一つは、悲田処が続いていたことの記録で 

2 延喜27年(927)の延喜式主税寮式に
 「武蔵国 悲田稲4500束」
 と書かれています。

 この二つを結びつけると、悲田処は1の833年から、2の927年まで、約100年間続いていたことがわかります。その後は不明です。
 そして、2では、支出が、大蔵省主税寮に変更となって、悲田処の維持が役人のボランティアから国の管理に移っていることを示します。悲田処の役割が重かったことが推定されます。

3 悲田処はどこにつくられた

 肝心の悲田処はどこにつくられたのでしょう? はっきりしないのです。
 悲田処は古代の道路に関する施設でした。武蔵国は、最初、東山道(とうさんどう)に属していました。その道筋は、都から現在の中山道を東へ進み、群馬県で南下して「東山道武蔵路」(とうさんどうむさしみち)となり、多摩川を渡って東海道に接していました。
 これが、続日本紀によると、宝亀2年(771)年10月に、東海道へ所属替えになった事を伝えます。東山道武蔵路は官道の役割を終えました。しかし、1・2により悲田処の存在はその後も上野国と武蔵国の連絡路として機能していたことを明らかにしています。
 
悲田処位置図
(クリックで大)

 続日本後紀は「多摩・入間両郡の界」としています。東村山市か所沢市の狭山丘陵周辺になります。しかし、確たる考古学的な成果が得られていません。そのため、所在について、次の説が出されています。

①所沢市久米
②東村山市秋津
③東村山市多摩湖町
④東村山市諏訪町
⑤清瀬市野塩西原

①は、八国山の北麓、現在の松ヶ丘に、かって、埼玉県が指定していましたが、1957年に解除され ました。その後、所沢市が指定して、現在も公園として整備され、案内柱が建てられています。東山道に近く、位置的には期待され発掘もされました。現在まで、遺跡は発見されていません。
悲田処跡所沢
所沢市指定 悲田処跡
②は、東村山市の秋津で、武蔵名勝図絵が「入間・多摩の界とあれば、この辺りのことなり。武蔵国府よりこの筋へ出て往来するもの上古より上野、下野へ至るは国史などに見えて伝われど、千載に及べる旧跡なれば、しかと知るべきことにあらねど、ここに出せり」としています。周辺の発掘が行われ、集落遺跡が発見されています。
③は、瓦塔出土地に併せて、悲田処の存在が考えられてきました。東村山市の下宅部遺跡から瓦塔の一部が発掘されています。
④は、江戸時代の斉藤鶴磯によって提唱されました。その後も東村山市内では最も期待されています。位置は徳蔵寺の東側で、東山道武蔵路とも近接しています。まだ、遺跡として発見はされていません。
⑤は、清瀬市の野塩西原遺跡をあてるものです。三面庇の掘立柱建物や墨書土器などが出土し、何らかの公の施設である事が推定されています。

◎最近、東村山市史5資料編考古で、府中街道沿いの八坂神社周辺説が唱えられています。多摩・入間の郡界を狭山丘陵ではなく柳瀬川上流の空堀川に置く考えです。

 いずれにせよ、悲田処の跡は当時の狭山丘陵周辺と東山道を繋ぐもので、早く遺跡の発見があって、全容がはっきりするのが待ち遠しい限りです。(2014.09.29.記)



豊鹿島神社の棟札

 「芋窪のうぶすな様」として親しまれる古社に、豊鹿島神社(とよかしま)があります。毎年暮れには、熱心な氏子によって大しめ縄がなわれ、芋窪囃子連の華やかなお囃子とともに、新年初詣が行われます。9月の例大祭には御輿がまちを練り、出店が賑やかに雰囲気を盛り上げます。
 東大和市内で最も古い創建伝承を持ち、本殿について、中世建築の確かな年代の棟札を伝える神社です。
豊鹿島神社全景
鹿島谷ッの中腹に鎮座

 神社のパンフレットでは、「創立の経緯は明らかではありませんが」として、『武藏名所図会』(1820)記載の社伝をひいて
 「創建は文武天皇の慶雲四年(707)」と紹介しています。

 また、『新編武藏風土記稿』(1828年)は
 「御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半」
 「社伝は、慶雲四年(707)の鎮座にて、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神とし、・・・社を造立ありしは、天智天皇第四姫官なりしとも、又蘇我山田石河麻呂たりしとも記し、この外疑ふベきことをも記したれば、此社伝もいちいちには信すベからず、さはあれ、後にのせたる文正・天文等の棟札あるをもて見れば、旧きよりの鎮座なりしことは知るべし、」

 と記します。奥の宮、要石と共に謎解きがいっぱいの神社です。ここでは、文正・天文等の棟札を中心に紹介します。
豊鹿島神社
拝殿の奥に室町建築の本殿がある

 平成5年に大改修が行われ、その時、「文正元年(1466)十月三日」の棟札が発見されました。さらに、天文19年(1550)、天正4年(1576)、慶長6年(1601)、正保3年(1646)など、全部で5枚の棟札が確認されています。
豊鹿島神社本殿2
拝殿の奥に、文正元年(1466)の棟札を持つ都内最古の室町神社本殿
 (東京都有形文化財指定 都重宝・建造物)
 文正元年は、将軍・足利義政、若き太田道灌が活躍し、翌年には応仁の乱が始まるという変化が多い年でした。そのような中で建立された棟札には、中世史上の地名としては、ほとんど知られていない「武州多東郡上奈良橋郷」の地名が記されいます。
 また関わった人名として

文正元年(1466)、大旦那 源朝臣憲光
天文19年(1550)、大旦那 工藤下総入道
天正4年(1576)、細野主計殿 番丈衆十人御力合 
慶長6年(1601)、大旦那 酒井筑前守 同強蔵殿
正保3年(1646)、大施主 酒井極之介重忠

 の名前があり、文正から天正にかけての旦那は、どのような人物であったのか、まだ解明されていません。
 天文19年については、前年・天文18年(1549)4月14日の巨大地震発生に伴う工事とも考えられ、興味津々。中世の謎解が満ち満ちの本殿です。
 慶長、正保の人物は、徳川家康の直属の家臣です。酒井筑前守・同強蔵は、家康が関東に移ってきた最初から芋窪地域に配属されて、現地に住み江戸城へと通勤登城したことが知られています。

 豊鹿島神社の棟札は狭山丘陵全体の中世の謎を解く鍵をもって居るとも云えそうです。(2014.09.25.記)

狭山丘陵の植物

2014年9月

ニホンハッカ http://sage5505.blog.fc2.com/blog-entry-2590.htm
ツリガネニンジン http://sayama818.blog.fc2.com/blog-category-3.html
オオマツヨイグサ 
ツリフネソウ
ゲンノショウコ
オオバコ
キバナアキギリ
キヅタ

10月
キンエノコロ
キヅタ
アキノウナギツカミ
カラスノゴマ
コブナグサ
ミソソバ
ハナタデ
シラゲヒメジソ
ヒメジソ
ノコンギク
イヌコウジュ
カントウヨメナ
ナギナタコウジュ
リュウノウギク
キッコウハグマ
フユノハナワラビ
ツルグミ
イヌセンボンダケ
ヤクシソウ

11月

マラヤン
ノササゲ
ツクバネウツギ
テイカカズラ
ゴンズイ
ムラサキエノコロ
ヒヨドリジョウゴ
オオジシバリ
オトコヨウゾメ
ゴマノガマズミ
ロモジ
センボンヤリ
ツクバネウツギ
シロダモ

12月

イヌザンショウ


狭山丘陵の昆虫

2014年9月

アシグロツユムシ アシグロツユムシ http://sage5505.blog.fc2.com/blog-entry-2586.html 
オオアオイトトンボ

10月
ルリモンハナバチ

東大和 市民ネット

  公民館講座の仲間と出発した「東大和 市民ネット」。少しずつ新しい仲間が増えて、楽しさが増してきました。母体となった「上北台公民館まつり」に活動状況を発表することになり、みんなでゲームづくり(パワー・ポイント)を進めてきました。
2014ゲーム表紙2
(クリックで大)

 今後、実際のネットで、どのように展開するかが課題であり、楽しみです。どうか応援して下さるようにお願い致します。

 2階の窓用の網戸を運ぶ途中で、階段から滑り落ちそうになり、右肩でどうにか支えました。そのため、右手が痛くなり、左手でマウスを使っています。元々、左利きなので、慣れるには早かったようですが、反応の遅いこと、いらいらずくめでした。
 ようよう、このブログに復帰できました。ほっとしました。(2014.09.23.記)




sidetitleプロフィールsidetitle

野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleLc.ツリーカテゴリーsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR