狭山丘陵周辺の「郷」(ごう)

 これは690年代から700年代初めの頃の話です。藤原宮跡(694~710)から発見された瓦に「□玉大里評」と書かれていることから、武蔵国でも、当時行われていた地方制度の「評」が実在した。「評」は701年の大宝律令で「郡」になった。その郡の下に「郷」が置かれた。狭山丘陵周辺では何という「郷」があったのかと云う問題です。

 一つの郷は50戸から成り立ったとされます。それも、一戸は、現在のような夫婦と子どもという単婚家族と違って、大家族でした。30人から150人の複合家族だったと解説されています。
 こうなると、狭山丘陵周辺では、当時の遺跡を探しても、このような集落の跡は見つかっていません。ただ一つ、東の上遺跡(所沢市)がありますが、ここは東山道武藏路(とうさんどうむさしみち)の「駅」とされています。

 どうも、狭山丘陵周辺には、集落の散在はあっても、一つの郷が成立するような基盤が未成熟であったことが考えられます。郷は、7~8世紀台に人口周密な地域、つまり多摩川流域や入間川流域に成り立ったのだと考えます。
多摩郡の郷位置図
(クリックで大)

 東大和市内では、せいぜい2~3戸の家の跡が発見されているにとどまります。隣接する武蔵村山市では吉祥山、屋敷山、野山第三・第五遺跡など、東村山市では有名な下宅部遺跡があり、人々の定住が進んでいたことがわかります。
 これらの散在する集落を集めて「余戸」(あまるべ)などと呼ばれる郷やどこかの郷に含まれていたのかも知れないと想像します。ただし、下宅部遺跡からは「家成」と記された墨書土器が発見され、8世紀後半とされますが、文字を使用する人が住み始めたことが知られます。

 狭山丘陵周辺には大家族が集中して住むのではなく、小家族が散在して生活を営んでいたことが推測されます。もう少し後(755)にまとめられた万葉集・東歌に

  武蔵野の小岫(おぐき)が雉(きじし)立ち別れ
   去(い)にし宵より 夫(せ)ろに 逢はなふよ(14ー3375)

 が採録されて、狭山丘陵の谷ッと村人の様子を目に浮かび上がらせます。(2014.08.28.記) 



古代、狭山丘陵周辺の人々は何という「郷」(ごう)に住んでいた?

 今回は、古代、狭山丘陵周辺は、どのように地域区分(郷)がされていたのかの問題です。直接には、何という「郷」があったのか、です。
 全く困ったものです。ほとんどわからないのですから。
 続日本紀は大宝元年(701)、地方制度の樹立、いわゆる国郡制の確立を記します。武蔵国は、下図の通り、現在の東京都と埼玉県の大部分、神奈川県川崎市、横浜市の大部分をもって構成されていました。

武藏国の郡
(クリックで大)

 多摩郡には、最初は19郡が置かれました。久良・都筑(つづき)・多磨・橘樹(たちばな)・荏原・豊嶋・足立・入間・比企・横見・埼玉(さきたま)・大里・男衾(おぶすま)・播羅(はら)・榛沢(はんざわ)・那珂(なか)・兒玉(こだま)・賀美(かみ)・秩父です。
 その後、霊亀2年(716)に高麗郡(こまぐん)が、天平宝字2年(758)に新羅郡(しらぎぐん、後の新座郡)がに新しく設置されて、最終的には21の郡が置かれました。

 郡には、それぞれ行政拠点として郡の事務を取り扱う郡衙(ぐんが)が置かれました。その時期は7世紀末と推定されています。現在のところ、次の四箇所で郡衙跡が発掘されています。

・都筑郡衙 横浜市長者原(ちょうじゃばら)遺跡、川崎市千歳年伊勢山台遺跡
・豊島郡衙 東京都北区御殿前遺跡
・榛沢郡衙 埼玉県岡部町中宿(なかじゅく)遺跡
・多摩郡衙 府中市宮町を想定、一部発掘

 発掘された遺跡では、郡庁、正倉、館、厨屋などの建物が整然と並んでいる様子が残されています。
 さて、郡の下の区分です。人々が生活をする区域です。それは、最初、「里」(50戸を単位)と呼ばれ、里長がいました。
 この「里」が霊亀元年(715)に「郷」に改められました。いよいよ問題の「郷」です。多摩郡の郷は、『和名類聚抄』(承平年間931~938成立)によれば、

 小川・川口・小楊(おやぎ)・小野・新田(にうた)・小嶋・海田(あまた)・石津・狛江・勢多

 の10郷がありました。現在に伝わる地名からは、いずれも多摩川流域と想定されます。
・小川郷 あきる野市小川
・川口郷 八王子市川口
・小野郷 日野市一宮周辺
・小嶋郷 調布市小島
・狛江郷 狛江市から調布市
・勢多郷 世田谷区瀬田周辺
 それぞれの地域に古墳や集落の遺跡が発見されています。なお、
・小楊郷について国立市青柳をあげる説もあります。
 小楊・新田・海田・石津は、位置が不明です。そこに、東大和市域は入っているのでしょうか。

 隣接する入間郡については、

 麻羽(坂戸市)、大家(おおやけ 坂戸市)、郡家(狭山市)、高階(たかしな 毛呂山町)、安刀(あと 所沢市西部山口か坂戸市北部)、山田(川越市)、広瀬(笹井、野田、加治周辺)、余戸(あまるべ 越辺川右岸、山口周辺)
 の8郷が記録されています。
 いずれも北の入間川周辺に集中し、狭山丘陵周辺では安刀、余戸が僅かに候補に挙がります。

 どうにかたどれるのは、ここまでのようです。狭山丘陵周辺は丘陵のほぼ中央で入間郡と多摩郡に分かれました。肝心の人が住んでいたと思われる「郷」がどこに、何という名であったのか、明らかでありません。次に続けます。(2014.08.24.記)



多摩の戦跡写真パネル展 東大和市立郷土博物館

 東大和市立郷土博物館で「多摩の戦跡写真パネル展」が開かれています。
 多摩各市に残る戦跡の写真を展示した非常にシンプルな催しです。
多摩の戦跡パネル展会場
パネル展会場全景

 展示されている写真は全部で60枚、その中身に圧倒されます。
 武蔵村山、小平、東村山、清瀬、東久留米、西東京、武蔵野、三鷹、府中、国分寺、立川、昭島、日野、町田、八王子、青梅、東大和市と多くの市の戦跡が紹介されているからです。
防空壕

 戦跡の種類の多さに驚かされます。建物跡、掩体壕(えんたいごう=飛行機を敵の攻撃から守るために設けられた格納庫)、防空壕、記念碑、慰霊碑、門柱、杭、戦車道路、引込線跡、米軍爆弾の残骸、B29のエンジンの一部、破壊された地蔵尊、庚申塔、銃撃の跡の残る樹木・・・などなど。
 
多摩の戦跡ポスター
配布されているリストとマップ
所在地域が一覧できて貴重です
 多摩に、これだけのものが残されているのかを知って驚くと同時に、多摩全域が戦場であり、あと少しでも戦争が続いていたらと、慄然としました。
 展示は31日迄、残りの日が少なくなりました。これからの平和への願いを籠めてご紹介します。 (2014.08.22.記)


狭山丘陵の式内社

 平安時代、狭山丘陵に神まつりが行われました。丘陵全体として、人々がどのように生活をしていたのか不明です。ところが、早くも、現在に継続する古社がまつられました。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう 延長5年(927)編纂終了)に登載された神社です。
 朝廷から奉幣のあった「公的」な神社で、全国で3133座、武蔵国で44座が登載されています。その内、狭山丘陵周辺では次の5座が名を載せています。
式内社位置図
(クリックで大)
①物部天神社(もののべてんじんしゃ 現北野天神社)所沢市北野

 社伝は、景行天皇40年に、櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)の二神を秦斎して創建。その後、欽明天皇12 年(551)に、神託により小手指明神を合祀、さらに長徳元年(995)、京都北野神社より菅原道真の神霊を勤請して、坂東一の天満宮と定められた。と伝えます。所沢市史は
「祭神饒速日命(にぎはやひのみこと)は、物部氏の祖神である。・・・物部広成一族が、この祖神を氏神として奉斎し、物部一族の台頭とともに、社格を上昇させて、入間郡で屈指の社に成長させたのかもしれない。」(上p277)とします。

②国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)所沢市北野北野天神社に合祀
 祭神・八千矛神(=大己貴命)
 当初、どこに祀られたのか不明です。『新編武蔵風土記稿』は「・・・恐らくは後世近郷にありし式社の廃絶せしを、神職のはからひにて合せてここに祀りしならん」と記しています。

③二つの中氷川神社(なかひかわじんじゃ)
 狭山丘陵(所沢市)には二つの中氷川神社があります。どちらを式内社とするか、論争があり決着が付いていません。

・三ヶ島中氷川神社 所沢市三ヶ島
 祭神・素盞鳴命、大己貴命、櫛稲田姫命
・山口中氷川神社 所沢市山口
 祭神・素盞鳴命

 江戸時代でも、はっきりしなかったらしく、『新編武蔵風土記稿』は、次のように記しています。

・山口の中氷川神社
 氷川社 四石の御朱印。土人の伝へに、神名帳にのせし中氷川の神社なりと云。社地のさま、いかにも年ふり、村名をも古くより氷川と唱ふるときは、古社なることは疑ふべくもあらざれば、式内の社なるもしるべからず。されど今三ケ嶋村長宮明神も中氷川の神社なるよし社伝にいひ、現に彼社に正長・天文等の棟札ありて、其文に中氷川神社と記したれば、当社を中氷川と云はいかがあらん。疑を存せり。神体は木像、古色なり。 打越村普賢院持。

・三ケ島の中氷川神社
 長宮明神社 十石の御朱印。祭神は素盞烏尊・稲田姫命・大已貴命・少彦名命の四座を祀れり。相伝ふ当社は神名帳に載たる中氷川神社なりとそ、証とする所は古き棟札ありと云。其文に武州入東郡宮寺郷、中氷川神社殿造、正長元年(一四二八)九月廿三日。また天文二十三甲寅年(一五五四)四月廿一日、社造営のときの棟札あり、ただその写のみを伝ふ。その文体当時のものなるべく覚ゆれど、ただ疑はしきは斯の如き証拠あらば、などか中氷川の神号を用ひずして長宮とは号するや。別にゆへあるか。又中宮と云ふべきを誤り伝へてかく唱ふるにや。

 また、氷川神社は出雲信仰との関わりから、奥多摩・氷川神社―中氷川神社―大宮・氷川神社のルートを辿る議論もあり、興味が尽きません。

④出雲伊波比神社(いずもいわひじんじゃ) 入間市宮寺
 祭神・素盞鳴命 天穂日命(あめのほひのみこと) 寄木明神
 出雲伊波比神社は入間市宮寺と毛呂山町にまつられています。どちらも式内社を主張し決着していません。所沢市は宮寺説(上p274)をとっているようです。
 入間郡司の絡む「正倉神火事件」の対象神社として今後も注目です。

⑤阿豆佐味天神社(あずさみてんじんしゃ) 瑞穂町
 祭神・少彦名命(すくなひこなのみこと すくなびこなのみこと)
 物部天神社と阿豆佐味天神社は、その鎮座の場所に議論がありません。しかし、創建については明らかでなく、新編武蔵風土記稿は次のように記しています。

「神主宮崎和泉と云。本社二間四方拝殿二間二五間、祭神は少彦名命にて、神体はなく画像を掛く。御朱印十二石。往古より此所に鎮座すと云。されど旧記の徴とすべきこともみえず、又正しく土人の口碑にのこりたることもあらざれば、そのたしかなことをしらず。近村奈良橋村など阿豆佐美の里と称す。当所に近き所なればかく唱ふと云。」

 これらの神社が祀られていたことは、それを支える村人がいたことを示します。丁度、武蔵武士の発生する時期と重なり、その面を含め多くの重要な鍵を握っているようです。東大和市にとっては、奈良橋村が「阿豆佐美の里」と呼ばれたなど、なかなかの問題があります。(2014.08.21.記)

村山党の分布

 吾が故郷の武蔵武士、村山党はどのように活動の場を置き、時代をつくっていったのか、興味津々です。ところが、困ったことに、肝心の村山氏の最初の本拠地がどこにあったのかが不明です。群れ山=村山の地として、狭山丘陵全体をあてる考えもあるようですが、定かでなく、これには、本当に困っています。

 しかし、狭山丘陵周辺の地名に、村山党の名前が残されています。伝えられる系図とも一致し、貫首・頼任から、子供らがそれぞれに分散移住していったことが伺えます。表面的で恐縮ですが、地名から追ってみます。
村山党分布図
(クリックすると大)

村山氏
 図では村山氏が狭山丘陵南麓に描かれています。村山の地名が早くから使われたということだけで、あくまで想定です。瑞穂町に「殿ヶ谷」の地名があり、村山一族の墓域がある福正寺付近がその館跡とも伝えられます。しかし、金子族から分派した村山土佐守の館跡とする指摘もあり、確定的ではありません。

山口氏
 家継は村山小七郎、山口七郎と呼ばれ狭山丘陵の山口に本拠地を構えました。山口城・根古屋城があり、明確です。北野の天神様が山口郷であり、この地域までをおさめていたことが考えられます。

金子氏
 家範は金子六郎と呼ばれ、嫡子・十郎家忠の館跡が入間市の木蓮寺とされます。瑞泉院に、金子一族の墓地があります。

宮寺氏
 家平は宮寺五郎と呼ばれ、狭山丘陵北麓の宮寺の地に館を築きました。入間市宮寺の西勝院の境内にその跡が残されています。

大井氏
 家綱は大井五郎と呼ばれ、川越街道の旧大井宿(埼玉県ふじみ野市大井、かっての大井町)の徳性寺周辺が館跡とされます。

分派した2代目以降は

荒波多(荒幡)、久米氏
 山口家俊から分かれています。荒波多氏の館跡は不明です。久米氏については所沢市北秋津の大堀山館跡をあてる考えがあります。

難波田氏
 金子家範から分かれました。富士見市の下南畑 字馬場・蓮田・天神前・深町一帯からその遺構が発掘されています。

勝呂氏(須黒)
 山口家俊から分かれました。坂戸市石井宿がその館跡とされます。

仙波氏
 山口家継から分かれました。家信は仙波七郎と呼ばれ、川越市の仙波に本拠を構えました。堀の内がその館跡とされます。

 まだまだわからないことばかりですが、一つ一つ館跡を廻ると、最近の発掘や調査結果が発表されていて楽しみです。
 (2014.08.19.記) 
 

村山党の系図

 武藏七党の内、狭山丘陵周辺に定着して、活動したのが村山党とされます。系図はいろいろ伝えられますが、分脈がわかりやすい所沢市史、入間市史を参考にして紹介します。
村山党系図
(クリックで大)
 問題は
・村山党の祖が頼任(よりとう)で貫首(かんしゅ・かんず)と呼ばれ
・2代・頼家までは村山を名乗りますが
・3代目・家継は山口氏を名乗り
・大井、宮寺、金子などに分派する
ことです。家継は一時、「村山小七郎」を名乗り、やがて「山口七郎」に変えたとされます。(東村山市史通史編上p363)
 これからすれば、貫首・頼任が、一番最初に定着したのは、現・所沢市山口と考えられますが、そうは言い切れないとの見解もあります。

 注目は「貫首」で、現在の日野市を中心に勢力を張った「火奉氏」(=日奉氏 ひまつりし)の系図に、貫首の書き込みがあり、武蔵国府に勤務する役人(在庁官人)であることが明らかになってきました。
 とすれば、村山貫首も、国府と何らかの関わりを持っていたことになります。残念ながら、明らかではありません。村山党がどのように狭山丘陵一帯に勢力を伸ばしたのかは、次に譲ります。(2014.08.15.記)

武蔵武士と狭山丘陵(平安末~中世 武藏七党)

 「東大和市に武士団は居たのか?」
 「武藏七党が答えに出されるが、狭山丘陵・東大和市に関係する武士団はどれか?」
 自問自答を繰り返しますが、どうも、パット結論は出そうもありません。
 少しだけ範囲を広げて、「武蔵七党」について紹介します。
 ところが、武藏七党にも様々な意見があって、どの党をもって「七党」とするかについてさえ、諸論が分かれます。

1説

 武蔵七党は武蔵国内に本拠をおいて周辺に血縁をもとに発展していったグループで、中小規模の武士団とみられている。
 『武蔵七党系図』(14世紀南北朝時代の成立)では
 横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹・西の各党
 ただし、野与党の代わりに私市党(きさい)を、また村山党・西党の代わりに綴党(つづき)・私市党を入れる説もある。
 
2説

 実際、七党が具体的に何党と何党とをさしているのかも確定できないのが現状である。
 たとえば、『節用集』(日本古典全集)では、
 丹治・私市・児玉・猪股・西・横山・村山の各党
 ただし、村山党の代わりに綴(都筑)党を入れたり、私市・綴党を除いて野与・村山党を入れるなど、一定していない。

大まかな位置図

 埼玉県や狭山丘陵周辺各市の市史の記述を見ると、武藏七党は下図のように分布していて
 
 野与=埼玉県埼玉郡一帯
 村山=狭山丘陵の周辺から川越市にかけて
 横山=八王子市の南側
 猪俣=埼玉県大里郡一帯
 西=府中市の西側、立川市にかけて
 児玉=埼玉県児玉郡一帯
 丹=飯能周辺
 とされます。
武蔵七党分布図完
(クリックで大)
 なるほど、これらから見ると、狭山丘陵周辺には村山党が根拠地を築いていて、西党、横山党などと関わりを持ってたと思われます。
 これを手がかりにその姿を追ってみませんか!!(2014.08.14.記)

東大和市第10回平和市民のつどい

 2014年8月8日(金)「東大和市第10回平和市民のつどい」が開かれました。
 都立東大和南公園平和広場、旧日立航空機(株)変電所跡前です。

平和市民のつどいプログラム

 「恒久平和の実現と核兵器の廃絶は、全人類共通の願望である。
  ・・・・
 ここに、平和を愛する全世界の人々と手を携えて、戦争と核兵器のない世界の建設にむけて努力することをあらためて誓い、東大和市が平和都市であることを宣言する。」
 との平和都市宣言(平成2年10月1日)にもとづく集いです。

10回平和市民の集い
 都立東大和南高等学校 演劇部
 「語り継ぎたいこと~戦争・わが町・変電所~」
(クリックで大)

少年少女合唱団
東大和市少年少女合唱団 
 HEIWAの鐘 みんなで歌えば 他

平和市民のつどい配付資料
当日、無料で配布された左から「平和文集 総集編」
「いま、語り継ぎたいこと」「平和憲法」

平和市民のつどいプログラム2
プログラムの進行につれて、会場の雰囲気は高まり
集う人々の熱気が溢れてきました。

夕暮れの変電所跡

 この爆撃音を生で聞いた時の記憶が一度に出てきて
 平和都市宣言を絶対守るとの意気込みを新たにしました。
(2014.08.08.記)

幕末の蔵敷村(ぞうしきむら)独立運動 万延元年(1860)

 明治維新の8年前、日本の国が対外的に激動の最中です。

・1月、勝海舟が咸臨丸(かんりんまる)で品川を出発して米国訪問に向い、
・3月3日には桜田門外の変が起こり、
・3月18日、江戸城本丸が炎上、年号を万延と変え、
・11月1日、皇女・和宮が将軍家茂に嫁すことが発表された
 その年の夏です。

 狭山丘陵南麓の蔵敷村では、「奈良橋村の内、蔵敷分」と付けられた呼び名がどうしても納得できませんでした。
 「奈良橋村の内」を取り払って、きちんと「蔵敷」とする運動が起こりました。
 成功すれば、江戸城の「御本丸御造営御用途金へ百両」を出す。と云っていますので、余ほどのチャンスと見て取ったのでしょう。

 その方法は
・代官所に願い状を出す
・上京したときの定宿の主に側面からの援助を依頼する
 ことでした。

 江戸時代の運動方法に驚かさせられると共に、「蔵敷」の名称の経緯が語られますので、要約して紹介します。
奈良橋村の内蔵敷分
(クリックで大)

 代官所への願い書
 
 武州多摩郡奈良橋村の内蔵敷分の代表が揃ってお願い申し上げます。
 私共の村は、往古は武州滝山の北条家の領地であり、家康様が関東御入国の後、天正年中に、
  奈良橋 高百六拾七石七斗七升、
  蔵敷  高百六拾弐石弐斗三升、
  都合  高三百三拾石が石川太郎右衛門様の御給地になりました。
 その後、享保十八(1733)年に幕府領となり、御代官所の御支配になっております。

 私共の村は、もともと奈良橋村と別村で、幕府領になった時の年貢割付状や目録等で「蔵鋪村」と認められております。その関係書類などは今も所持しております。

 ところが、いつの間にか、奈良橋村之内蔵鋪分と唱へられています。しかし、蔵敷村が正しく、その根拠は次の通りです。石川地頭様が御在住の節、奈良橋・蔵敷の境目に地頭所の土蔵がありました。年貢などの取扱を決めたとき、
・奈良橋村の分は御勝手向諸賄
・土蔵より西の方、つまり、蔵敷村分は御修覆料
 と定められ、申し継がれております。元来、別村である印は
・検地帳、高札場が別になっている
・村内の地名、字名に至るまで奈良橋村と混在は一切ない
・集落も別々に立分れ、同性のものはない
・鎮守・氏神・祭日連も奈良橋村とは日取りがことなる
・殊に、菩提所についても、蔵敷分民家の者共で奈良橋雲性寺に属する者は一人も居ない
・尾州様御鷹場内で村々へ渡される御焼印・御鑑札も、奈良橋村の外、当村分として別段に蔵鋪村と認められている

 以上から、古来に回復して、奈良橋村之内と云う肩書を取り除き、多摩郡蔵鋪村とのみ唱えるようにお願いします。

   万延元(1860)申年七月廿六日
       武州多摩郡奈良橋村之内
            蔵鋪分
             百姓代 平五郎
             組頭  重蔵
             名主  杢左衛門

    江川太郎左衛門様
              御役所


 この願い書を添えて、村役人は、江川家に上京したとき定宿とする和泉屋の主(健蔵)に次の添え文を付けています。 

 定宿の主・和泉屋健蔵宛

 一 当村は 是迄 奈良橋村の内 蔵敷分と唱えてきましたが、元来、別村である事は相違ありません。それぞれ証拠、古書物等も所持しております。
ついては、奈良橋村の内と申す肩書を御取除き、蔵鋪村とのみ唱へるように替へて頂きたく、御支配御役所へ御歎願書を差し出しました。

 願の通り御許可されれば、御国恩冥加のためと御本丸御造営御用途金の内へ金百両を相違なく御上納致します。右の趣をよろしくお含みの上、御役所表へ御取つぎ、村方の志願が相い立ますように取り計いくださるように、お願い致します。念のため、一札差出します。

   万延元申年(1860)七月廿六日

      武州多摩郡蔵敷分
            百姓代   平五郎
            組頭    重蔵
            名主    杢左衛門
  和泉屋健蔵殿

 運動のすさまじさに、また、定宿の主の持つ独特な役割と実力に、唯々、驚くばかりです。
 新編武藏風土記稿では、蔵敷村は、正徳年間(1711~15)に、奈良橋村から分村したとします。その後の鷹場図などでも「蔵敷村」「蔵鋪村」と独立で表示されています。それが、なぜ万延の時代に「奈良橋村の内 蔵敷分」に戻ったのか不思議です。

 安政5年(1858)2月から6年3月まで、蔵敷村は江戸湾防備の関係から熊本藩細川家の預り所となっています。その関係かとも感じられますが、願書を出した当事者・杢左衛門は細川家から重用され、名字帯刀を許された人物でした。それが、これほどまでにして取り除こうとした不利益を課せられるとは考えられません。この点、謎だらけです。
 この願いは達せられたらしく、その後は「蔵敷村」として、近隣をリードする村となっています。(2014.08.08.記)




文化4年(1807)の浪人取締組合

  1700年代後半になると狭山丘陵周辺の村々も富をなす者、没落する者が出てきます。その状況を武蔵村山市史は次のように記します。
 「家や土地を失い村を離れた農民たちは、遊民となって江戸や周辺の都市部へ流入したため、農村人口は減少し、荒廃地は増大するばかりであった。こうした遊民のなかには無宿や渡世人となって長脇差や刀を帯びて横行したり博奕に耽るなど治安が乱れていくようになった」(下p1115~16)

 文化2年(1805)6月、幕府は、江戸近郊の農村が荒廃し治安が悪化したとして、関東取締出役(=八州廻り)を設置しました。幕府領(天領・御料)、大名領、旗本領などの私領、寺社領の区別なく、横行する無宿・悪党の取り締まり、捕縛に当たり、勘定奉行に直属しました。

 その2年後の文化4年(1807)です。狭山丘陵南麓に「浪人取締組合」が結成されました。浪人の徘徊、合力銭の要求、宿泊禁止対策が主な目的です。 21か村で結成されたとしますが、次の15か村の名が残されています。
廻り田村、後ヶ谷村、宅部村、清水村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋久保村、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村、殿ヶ谷村、石畑村、箱根ヶ崎村(東大和市史p195)

文化4年浪人取締組合の村々位置図
(クリックで大)

 狭山丘陵南麓の村がほとんど占められていることに注目です。これらの組合村の積み重ねが、やがて文政 12 年(1829 ) 3月の「文政の改革組合村」の形成へと広がって行くものと思われます。( 2014.08.06. 記)

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野火止用水

Author:野火止用水
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