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よちよち歩きの村(明治22年市制・町村制施行時の狭山丘陵周辺)

 狭山丘陵周辺の歴史を尋ねると、今では聞き慣れない「○○村」や「○○ヵ村組合」なんて言葉に出会います。結構ややこしくて、答えが、タブレットでパット出てくるようにしたくて作業をしています。その中間報告です。
 明治21年(1888)、新政府が市制・町村制を公布しました。国の統制下の自治とか云われますが、理屈は抜きます。

 ①町や村は自治体として「法人格」を認める
 ②執行機関として市長や町村長等を置く
 ③議会を置き、その市町村に属す一切の事について議決できる
 ④住民は選挙する権利と立候補する権利を持つ(いろいろな制限あり)
 を決めました。よちよち歩きですが、近代的な村の最初の形が出来てきたことは確かでしょう。

そのままでは小さすぎるとして合併が進んだ

 村になるには、おおよそ300戸~500戸がめどとされました。従来の村ではとても足りません。そこで行われたのが、いくつかの村が集まって新しい村をつくることでした。下に図を作ってみました。白字が江戸時代からの村で、赤く囲った村が一緒になって、新しい名前を付けて出発することになりました。(まだ、現在使われていない名前が残っています。)


明治22年市制町村制施行時村グループ分け
(クリックで大)
狭山丘陵北麓
 
 明治22年(1889)4月1日
・「三ヶ島村」(みかじまむら)は、
 旧三ヶ島村221戸、三ヶ島堀之内村71戸、糀谷村(こうじやむら)117戸、林村108戸の517戸で構成されました。
・「元狭山村」は狭山茶の中心地と云うことでその名が付けられました。
 その時、宮寺村(みやでらむら)は407戸、2497人(明治23年)で、「戸数、資力ともに独立村としてたえうる」(入間市史p731)として合併せず、村名もそのまま宮寺村となりました。
・「小手指村」は北野村(261戸)と上新井村の一部(171戸)が合併して成立しました。
・勝楽寺村は124戸ですが、そのままで、明治35年(1902)に上山口、山口村と合併して「山口村」になりました。

狭山丘陵南麓では東村山村を除いて組合村を構成した

 東村山村は村名について悶着があったようです。箱根ヶ崎地域で「村山村」を主張し、残る三地域で、西から上村山、中村山、下村山の案が出されました。東村山は「上村山」を主張し、調整の結果、明治22年(1889)4月1日、「東村山村」になったと伝えられます(東村山市史通史編下p150)。合併した時の戸数は809戸、人口5,284人でした。

 狭山丘陵南麓の他の地域では「高木他五ヵ村組合」のように組合村を構成しました。構成する各村は独立性を保ち、共通する仕事は組合村で処理する方式です。組合村にも村長と議会を置き、議員は各村から選出されました。
 それぞれに背景がありますが、各村の独立意向が強く、合併の機運が整わなかったところに原因が求められそうです。この時の合併で、明治21年(1888)に、全国で71,314あった市町村が、市39 町村15,820になりました。合併率は平均77,8%でした。(2014.07.30.記)


江戸の村から明治の村へ(明治8年)

  現在の市町村からは想像できませんが、江戸時代の村は小規模な集落が寄り集まって出来ていました。明治になって、名主は戸長と変わり、年貢は税となりましたが、旧来からのしきたりや仕組みは残り、下記のような問題がありました。新しい国づくりに着手した明治新政府はこの整理、解消から手を付けたようです。明治の村つくりです。明治6年(1873)12月、そのお達しが出ました。小規模な村の合併方針です。
 
・一つの村でありながら、旧幕府の支配地と旧旗本の支配地が入り乱れている
・そのため、戸数が5戸や10戸でも、それぞれに村役人が置かれている
・村の運営費用が嵩んでいる
・狭い地域で耕地や民家が入り乱れ、地番が複雑になっている
・租税や戸籍の上で支障がある
 これらを解消するため、一定の地域が集まって、新しい村を作るべきである。
 との理由でした。

  村人は面食らったでしょうし、不安もあったと思われます。恐らく、政府、県の強力な誘導、奨励があったのでしょう。明治8年(1875)、狭山丘陵に三つの新しい村が生み出されました。丁度、埼玉県と東京の境界に位置しているので、並べてみるとこの時期の総体的な動きがよくわかります。 

江戸時代末狭山丘陵周辺村の村

 狭山丘陵周辺の江戸時代の村はおおむね図のように位置していました。これが、次第に合併して行きます。

(クリックで大)
 明治8年、埼玉県側の合併

  多くの問題があったと思いますが、明治8年(1875)4月、山口の谷で広域な村づくりが始まりました。山口村と上山口村の成立です。所沢市史にデータが記されて居ますので、一部を引用して紹介します。(下p49)

 山口村 
  町谷 26戸 186人 菩提木 31戸 152 人 氷川 10 戸 67 人 
     打越 18戸 96人
  山口堀之内 21戸 107人 岩崎 71戸 385人 合計 177戸 993人

 上山口村
  堀口 56戸 336人 大鐘 17戸 110人 川辺 19戸 114人 
      新堀 27戸 151人 合計 119戸 711人

 明治8年、東京側の合併

  明治8年(1875)3月、宅部村と後ヶ谷村が合併して「狭山村」となりました。宅部は村山貯水池に沈んだ地域、後ヶ谷村は南麓の地域にありました。(狭山之栞では6月4日とします)

 狭山村
  宅部 42戸  後ヶ谷 49戸  合計 91戸

  合併の理由は、形式的には2つの村に分かれていましたが、「田、畑、山林、民戸、みな、ことごとく混錯」と云われるように、入り交じっていました。一族や同族者の新規開墾や分家の積み重なりによるものでした。そこへ、新政府から、地租改正の必要から、地番を振る地図をつくるべし、との達しが来ました。あまりにも、宅部と後ヶ谷の入り混みが激しく、整然とするには困難でした。そこで、両村を一ヶ村として、新規に整理された地番を設定することが浮上しました。 

  これを契機に、合併問題が急速に論議の対象になったと伝えられます。明治8年2月25日、関係者が連印をもって、両村を廃止し、新しく「狭山村」を設ける、改称合併願が提出されました。
 
(クリックで大)

  江戸時代の12の村が、3つの村になりました。その後も新しい村づくりは進められ、明治21年(1888)市制・町村制が公布されました。全国で7万1000余あった市町村が1万5000余に整理されます。狭山丘陵周辺ではまた、新しい動きをしました。別に紹介します。
  宅部村は、村山貯水池問題で紹介した内堀地域に江戸時代初期に設定された村です。(2014.07.28.記)
 



米騒動と廉売と借金(大正7年・1918)

 大正時代の象徴的とも云える米騒動に、村が借金して、米を安く村人に売った話です。
 大正5年(1916)、村山貯水池の下貯水池堰堤工事が開始されました。この頃から、米価が上昇を始めます。東京百年史は
「明治33年10月の指数を100とすると、大正5年4月=109 大正6年7月=186、大正7年7月=258 8月=329と急上昇した」(四p969)とします。

 ここで起こったのが、大正7年(1918)7月23日、富山県で発生した米騒動でした。
 稼ぎがチットモ上がらないのに米の値段ばかりがうなぎ登り、これはおかしい、と漁村の婦人達が憤慨。米を県外へ出すな、安売りをせよ、と、資産家、米商人、役場などに要求しました。待ってましたと、全国的に暴動が広がりました。8月13日には東京にも波及しました。

 日比谷公園に人々が集まりました。1500名に達し、暴徒となって、日本橋や深川方面に向かい離合集散を繰り返しました。15日迄続き、遂に近衛師団の出動となっています(東京百年史四p970~980)。19日には、立川で「工夫及砂利人足数十人」が集まり「不穏」の状態となりました。

 政府は天皇の「特別恩賜」30万円の支給をもとに、米の安売りを当面の対策としました。狭山丘陵周辺でも一斉に対応しています。一番早かったのは東村山でした。最初は民間人が安売りに踏み出しました。

東村山

 「東村山では○○が、8月11日~13日迄3日間、午前10時より午後5時まで、内地白米20石、外地白米30石の大安売りを行なった。近隣町村から大勢が集まり、13日正午頃には50石を完売したが、午後になってもまだ購入希望者が訪れるため、予定外の追加廉売をして同日午後6時まで米を販売した。14日以降は近隣の小売店に安値で米を卸し、1000円以上の「犠牲」を払ったという。それは人々の救恤(きゅうじゅつ)という意味合いを持ちつつ、各地で起っている名望家への批判・暴動をかわす対策でもあったであろう。

 続く8月から12月までの間、化成小学校において計8回の米廉売が行われた。販売対象は村税3円未満の村内居住者に限定された模様で、一戸ずつの量が決められ、買占めできないようにされていた。
 12月には、年越しの準備用にという配慮であろうか、儒米(もちこめ)の安売りも行われた。こうした廉売の実質的な運営を取り仕切ったのは、在郷軍人分会と青年会役員であった。(東村山市史2通史編下p270~271)

高木村外五ヵ村組合(現・東大和市)

 高木村外五ヵ村組合でも米の安売り(廉売)と実費販売をしました。村が直接行い、大正7年の村会議事録は次のように記します。読みにくいのですが雰囲気を失わないため原文を引用します。

 「大正七年ハ恰カモ米価暴騰ノ気先ニシテ 一般細民ノ窮困一方ナラス 東西各地米暴動ノ不詳事ヲ惹起セルアリ 為メニ 畏クモ細民救済ノ資金トシテ全国皆恩賜金ノ御下付ヲ拝スニ至レリ 当組亦三百七十八円七十八銭ノ分与ヲ恭フセリ 之レニ以テ本府ヨリノ分与金四十五円五十銭 隣郡篤志家ヨリ寄附金五円ノ交付アリタリ 勿テ之レヲ資金トシテ更ニ資金五千円ヲ部内有志ヨリ借入シ 外米其他ノ廉売並ニ実費販売等ヲ執行セリ 而シテ 廉売ハ 三百五十名 実費販売ハ 四百八十名 ニ販売スルコトトナセリ」

 廉  売  8月21日、10月1日、11月1日、11月11日、12月22日
 実費販売 10月6、25、11月1、11、21、12月1、16日
 財  源  御下賜金378円78銭  東京府45円50銭 篤志家からの寄付5円
 組合村の借入 金5000円
 廉売対象  廉売 350名  実費販売 480名
 
残された問題

 財源のところで気づかれたことと思いますが、村は5000円の借金をしてこの事業を行っています。借入先は「部内有志ヨリ」とありますので、村の有力者達と思われます。
 大正7年の財政状況の資料が手元にないため、大正6年(1917)、9年、10年の支出の状況を見ると下表の通りです。
大正年代支出6910
大和町史研究9 p27

 役場費と小学校費でほとんどが占められています。この状況で、借入金をどのようにして返還したのかその労苦を知りたいです。返済のための特別会計を設けたことも考えられます。
 翌、大正8年(1919)、高木村外五ヵ村組合は合併して「大和村」(やまとむら)となります。恐らく、経費の削減が背景の一つにあったのではと推測します。(2014.07.26.記)



東村山軽便軌條(村山貯水池建設資材運搬トロッコ)

 大正7年(1918)になると、村山貯水池の建設工事が本格的に始められました。資材を運ぶのに馬でトロッコを曳くのでは間に合わなくなりました。東京市は蒸気機関車による輸送方法を取り入れることにしました。その背景には、地元の有力者が発起人になって敷設しようとした「村山軽便鉄道」が頓挫したことがあります。そのことは、東京市上水道拡張事業報告書に、経過が詳しく記されています。

 名前は「東村山軽便軌條」とよばれました。小さい煙突のある小型の蒸気機関車によって、最大20両のトロッコをひいたとされます。ルートには下の図の通り、東大和市内では清戸街道、東村山市内では鷹の道と呼ばれる道路の一部が使われました。

 東村山駅西側→鷹の道・清戸街道→現・東村山浄水所前→現・東村山消防署→現・西武多摩湖線踏切→現・武蔵大和駅西側→現・やまと苑→宮鍋隧道→村山下貯水池建設現場
東村山軽便軌條概念図(クリックで大)

・大正7年(1918)10月10日~大正8 年(1919) 3月10日、測量
・大正8年(1919)4月29日、東村山駅~清水村間の免許を鉄道院に申請 5月31日、許可
・大正8年(1919)7月17日起工、大正9 年(1920) 6月20 日竣工、

 開通式の日には、「当麻東村山村長・宮川大和村長等の玉串の捧献ありて、送神の儀終れば中野所長は挨拶に兼ね詳細なる事業報告を為して式を閉ぢ饗宴に移り、・・・余興の煙火・太神楽・相撲等も一斉に始められ、・・・余興見物の人出多く雑沓を呈したり、」(東京日日新聞)
 車両費約5万8000円、軌道費約6万8000円、建築費約8000円とします。(東大和市史資料編2p162)

 宮鍋隧道は東大和市高木の宮鍋氏が工事を請け負ってつくられました。宮鍋隧道は後に境浄水場への導水路として使われました。
東村山軽便軌條やまと苑
軽便軌條は、現・やまと苑の角を通り
桜木の中を宮鍋隧道へと進んだ

東大和の人々の思い出


「機関車は1台に12台のトロッコを連結して、東村山駅から砂利やセメントを運んできた。・・・武蔵大和西信号機の所に踏切があって、汽車が来ると踏切番が白旗を持ち、鎖をひいて通行を止めた。」(多摩湖の歴史p305)

「軽便鉄道のトロッコから荷をおろす仕事をオロシといった。オロシは屈強な若者でないとつとまらない重労働で、専門にやった。12台のトロッコに6人のオロシがつくので1人が2台の割り当てという計算になる。といっても仕事は共同作業で、セメント樽(50貫)をおろして倉庫に四段に立てて積み上げる。次の車の交換までにおろすのは大変だった。・・・病気などで休むと積み込みの人をまわしてきたが、一日でこりてしまったというくらいであった。そのかわり賃金は高く、普通の倍になった。

 食事は十代の育ち盛りだったので人に笑われるほど食べた。二食分入る弁当箱と別に小づけに一食分つめて、その他に現場でひまを見て「油さし」の人がゆでてくれた干しうどんを食べた。油さしというのはトロの車輪の検査手で、定夫の副のような役をしていた。」(多摩湖の歴史p306)
 この軽便鉄道も、昭和2年3月、村山貯水池の完成と共に撤去され、山口貯水池の建設に転用されました。(21014.07.25.記)

馬ドロ(馬力軌道)

 村山貯水池建設工事の資材運搬は、最初、村山軽便鉄道を予定していました。しかし、別に紹介したように敷設されなかったことから、馬力によるトロッコ輸送が行われました。道路に軌道を敷いて、その上を馬でトロッコを曳くものでした。

 ルートは当時の川越鉄道東村山駅から村山貯水池下堰堤の工事現場を結ぶもので、志木街道(村山道)に沿って設けられました。現在では、その跡はたどれませんが、資材をはじめ馬やトロッコの重さから、地盤の軟弱さを避け、志木街道の一部が使われたことも考えられます。
馬力軌道 馬ドロ概念図(クリックで大)

 工事用資材(玉石、砂利、砂)は多摩川で採取されました。小作置場に集められ、小作駅~立川駅~国分寺駅を経て、川越鉄道・東村山駅まで運ばれ、東村山駅西側の資材置場に置かれました。そこから、志木街道を西へ、現在の武蔵大和駅西側信号機の所を曲がり、工事現場に達しました。

 馬方が追分を歌いながらトロッコ1~2台を引いたと伝えられます。(多摩湖の記録p305) 
馬ドロの道
馬ドロはこの交差点を曲がって工事現場に進んだ

 下堰堤工事は大正5年(1916)5月に開始されていることから、馬ドロはそれに合わせて作られたと思われます。しかし、工事の進捗と共に機能が不足し、東京市は自前の蒸気機関による軽便鉄道を設けることになりました。大正9年((1920)に役割を果たし、大正10年に撤去されました。(2014.07.23.記)

村山貯水池建設と幻の村山軽便鉄道1

 もし出来ていれば、狭山丘陵南麓はどのようになっていたかと興味津々です。
 甲武鉄道(現・中央線)と川越線(現・国分寺線)が唯一の鉄道でした。そこへ、狭山丘陵南麓に鉄道をひこうと云うのです。
 まだ八高線もない時代、箱根ヶ崎から豊多摩郡戸塚村(現・新宿区)までの路線です。

 話は、村山貯水池の建設に併せて、出てきました。それにしても、驚くべき素早さです!!
 大正2年(1913)9月7日、村山貯水池の建設について内閣の認可がなされ、11月、建設事務所が設けられて、測量が始められようとしました。
 なんと、早くもその12月14日、村山地方に軽便鉄道を敷設したいとの申請が総理大臣(山本権兵衛)に行われました。

 発起人は
 北多摩郡 中藤、岸、三ッ木村、田無町、東村山、小平、芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、狭山、郷地
 西多摩郡 殿ヶ谷、石畑、箱根ヶ崎
 南多摩郡 八王子町、
 東京市  日本橋、麹町、四谷
 の各地域の豪農、有力者達の総勢42人の面々です。
 
  申請の内容は
・村山軽便鉄道株式会社を創設する
・東京府西多摩郡箱根ヶ崎村を起点として、北多摩郡東村山村、田無町を経由、豊多摩郡戸塚村に至る区間35.4㌔に蒸気鉄道を敷設する
・沿線には、八国山、久米川古戦場、狭山および狭山池の風光等、風光明媚な名勝旧蹟が多い
・ちかく東京市が貯水池を築造する計画がある
・この地勢を利用して貯水池を囲む一大遊園地を設置する
・東京より人びとがやってきて、一日遊覧する好適所となる
・村山貯水池築造に要する材料運搬の利便をはかる
・交通空白地帯の解消をはかり、沿線の乗客、および貨物運輸に資する
 というものでした。

 目論見書には
・資本金120万円、本社を東村山におく
・路線は西多摩郡箱根ヶ崎-石畑村-殿ヶ谷村-北多摩郡岸村-三ッ木村-中藤村-芋窪村-蔵敷村-奈良橋村-高木村-狭山村-清水村-東村山村-久留米村-田無町-保谷村-北豊島郡石神井村-井荻村-杉並村-落合村-戸塚村とする
 となっていました。村山貯水池建設用の資材運搬が背景にあることに要注意です。
村山軽便鉄道概念図
村山軽便鉄道概念図(クリックで大)

  経過
・大正3年(1914)1月28日、東京府は、北多摩、西多摩、北豊島、豊多摩郡の郡長に意見を求めました。
 西多摩関係は、公益上有用、産業発展の重要な機関など、おおむね賛成意見
 豊多摩郡関係は、慎重にすべき、との回答が寄せられました。
・大正3年5月頃、発起人に申請は「却下」、「廃案」の空気が伝わりました。
・大正3年6月29日、発起人は、「村山軽便鉄道ヲ川越線以西ニ短縮」することについて検討します。
・大正3年7月13日、関係する村長などが連名で内閣総理大臣(大隈重信)に促進のための上申書を提出しました。
 煩雑ですが、当時の村名がわかりますので、記しておきます。
 北多摩郡中藤村外二か村組合村長、東村山村長、高木村外五か村組合村長、小平村長、田無町長、西多摩郡箱根ヶ崎村他三か村組合村長、北豊島郡石神井村長、豊多摩郡井荻村長、野方村長でした。
・大正4年2月8日、敷設案が一部変更され、資本金が155万円、終点が豊多摩郡戸塚村から北多摩郡武蔵野村吉祥寺、総延長23.1㌔になりました。
 ルートは、現在の青梅街道と新青梅街道の中間地点を東西に走る予定で、停車場は、箱根ヶ崎(瑞穂町)―中藤(武蔵村山市)―奈良橋(東大和市)―大岱(東村山市)となっていました。
・大正4年3月25日、総理大臣から免許状が下付されました。東京市水道拡張事業(村山貯水池建設等)に支障を及ぼさないことなどの条件が記されていました。次に続く。(2014.07.22.記)



計画は幻に、川越鉄道への譲渡 (幻の村山軽便鉄道2)

 さて、いつ出来るのか、村人達、村山貯水池建設関係者は最大の関心事として見守ったことでしょう。調べている者だって気をもみます。
 ところが、ところがです。どうしたことか、計画は突然頓挫してしまいました。しかも、権利が他の鉄道事業者に売り渡されます。

・大正4年3月25日、総理大臣から村山軽便鉄道に免許状が下付されました。
・大正4年12月28日、発起人総代より首相に対して、村山軽便鉄道敷設の権利を、一切、川越鉄道に譲渡する旨が申請されました。
 肝心の経緯は不明です。
 第一次世界大戦の影響による経済的事情、政治的背景、他の鉄道事業との関連などの指摘があります。
・大正5年5月20日、譲渡はサッサと許可されています。
 何があったのか、知りたいです。

免許は新しい路線に生まれ変わった

・大正11年(1922)、川越鉄道は西武鉄道と改称し、新しい会社になりました。ややこしいのですが現・西武鉄道と区別して、旧・西武鉄道と呼ばれます。
・昭和2年(1927)、西武鉄道は旧村山軽便鉄道の免許を流用する形で、東村山~高田馬場(仮駅)間を開業しました。村山線と呼ばれました。
・昭和5年(1930)、西武鉄道は村山線を延長して、東村山~村山貯水池前間を開業しました。
 旧村山軽便鉄道の免許の一部で、現在の西武園線の原型となりました。
 村山貯水池前から箱根ヶ崎までについては、工事施工認可申請の延期を繰り返しましたが、着工はしませんでした。
・昭和6年(1931)、工事施工認可申請の延期は認められず、村山貯水池前から箱根ヶ崎間は実現しないまま、免許取消となりました。

その形跡が残されている

 さても、残念な話ですが、西武新宿線が生まれたことはメデタシ・メデタシでしょうか。

 東大和市史資料編2は、「免許は現在の西武鉄道新宿線、西武園線へと、形を変えて継承されている」(p161)とします。
 武蔵大和駅付近の高架橋に「箱根ヶ崎架道橋」と不思議な名前が付けられています。由来を遡ると、幻の村山軽便鉄道にたどり着けそうです。
箱根ヶ崎架道橋2
志木街道に架かる高架橋
 
箱根ヶ崎架道橋
橋梁名は「箱根ヶ崎架道橋」となっている
 貯水池建設の資材運搬に使用を目論んだ東京市は、軽便鉄道が利用できず、直営で東村山軽便軌條を敷設することになりました。(2014.07.22.記)



綿入れ着ても無理だった(村山貯水池建設工事)

 村山貯水池建設工事の時のお話しです。工事の作業員は
 上堰堤 芋窪の「多摩組」
 下堰堤 東村山の「入山組」「小島組」
 を通じて雇い入れられました。ほとんどが臨時的な日雇いでした。組には印ばんてんが用意されていました。大正8年(1919)以後のものには腰の部分に横書きのローマ字で大きく「YAMATOMURA」と染め上げられれて、目を引きました。その当時の実態が『東大和のよもやまはなし』では次のように語られます。

 「高木の○○弥次郎さんが、大正十一年の尋常小学校の高等科二年生のころのお話です。貯水池工事の作業がしたくて、現場に行ったのですが、背が低いために、小さい子供と間違えられ、「子供は駄目だよ」と言われ、ことわられてしまいました。

 そこで今度は大きく見せるために、父親の綿入ればん天を着て、頭に手拭いで鉢巻きをし、下駄をはき、腰に手を当て、胸をはって出かけて行ってがんばったのですが、やっぱり駄目でした。高等科を卒業してから、やっと採用してもらえました。

 農家の人達は、農閑期の冬場だけの作業でしたので、ばいき(仕事がもらえず戻されること)の事もありましたが、渡辺さんはよく精勤したので、子供でも優先的に仕事をさせてもらう事ができました。 監督さんも、渡辺さんの顔をよくおぼえていてくれて、列の後ろの方にいても、大きな声で、「弥次郎」と呼んでくれて、とてもうれしかったそうです。

 出ずら(出勤表)に印をもらい、日当は一円~一円二十銭位でした。仕事につけなかった人の中には、「今日もばいき」と歌いながら、帰って行った人もいました。(『東大和のよもやまはなし』 p128~129)
苦労が籠もる工事の成果
苦労が籠もる工事の成果
上貯水池から下貯水池への導水路
 このような一面、他では相当に厳しかったことを大正7年(1918)12月27日の東京朝日新聞が記します。

 「飢寒に泣く土工の群 雪に阻まれた貯水池工事

 「地鎮祭を執行して以来数百名をつぎ込んで堰堤工事をやってきた。この工事開始と同時に東京市工務課は引き続いて人夫の募集をしてきたが、予算其の他の関係上労銀が安いため応募する者が極めて少く、やむなく細民並に小作階級の農民を狩立って使用してきた。

 一方、作業状態は労働工程の進捗と共に益々危険さを増し、犠牲者を出すようになり安心して仕事に従事しにくくなった。したがって多少ゆとりのある人夫は去る者が多くなり、市当局も当惑していた。

 そこへもってきて十二日夜から降雪があり、工事全く不能になってしまい、残留せる百余名の人夫達は以来十数日間空しく坐食することになり、生活益々窮乏。
 その様子を工務課書記は「彼等の生活状態は実に憐れなもので一日休めば、一日食べられない、彼等一日の労銀は、五〇銭から一円五、六〇銭であるが、天気続きばかりないから一か月で正味二十日か十五日ぐらいしか働けない。間の悪いことに歳末の最も金の要る月にこの大雪なのでとてもやり切れまい、併しこの際市としては適当な救済方法を講ずる方針であるらしい」云々、と述べている」

 村人たちは、地元の有利さから就労の日を選んで稼ぎの場としましたが、それができない一般の就労者にとっては厳しい現実がありました。(2014.07.21.記)


村山貯水池建設の工事ブーム

 村山貯水池の建設工事が着工されると、村は活気づきました。丁度、不況が続いたときで、働く場、現金収入の場に乏しかった村人たちにとって格好の働き場でした。現在のダム工事とは違い、当時の工法から人力による工事が多く、「女衆」もタコつきに出ました。
 前回紹介した作業員の就業システムで、組に登録して働きに出ました。
仕事は
・「タコつき」 石を中央において、綱で結んで、 5~6 人で引っ張り上げては下ろす
・「ムシロ敷」 堰堤工事にトロッコで運んだ土をならすのに、むしろを敷く
・「オロシ」  軽便鉄道から荷を下ろす
・「トロッコ運搬」駅から現場まで運ばれてきた資材を、工事箇所まで運搬する
・「粘土採り」 上・下堰堤とも基礎は粘土に砂利を混ぜて突き固めた。その粘土を採集する仕事
  上堰堤 武蔵村山市神明地区(丸山)~東大和市芋窪
  下堰堤 東村山市野口
  これらの地から工事現場まで馬や人力でトロッコにより運んだ

労賃
 何よりも関心が深かったのが労賃でした。東大和市史資料編 2では次のように記します。

 「一九一五年(大正四)なかばごろから貯水池用地内の民家の移転がはじまるのであるが、その当時の一般的な日雇い労賃は一三銭ぐらいだったようである。(中略)
 大正四年から七年ごろまでの測量調査員の日当が五〇銭、堰堤工事、掘削工事などの一般土木工事は、はじめ五〇銭ぐらいだったのが大正六年ごろは約六〇銭、七年ごろは約七〇銭、あるいは約八〇銭と、その工事内容により多少の差はみられる。(中略)

 その当時の一般のいわゆる日傭取(ひようとり 日雇)の日当も一三銭だったのが、貯水池工事にかかる前の移転の仕事の手間賃が二五銭になり、貯水池工事が始まるとその賃金に合わせて五〇銭になり一円になったと伝えられている。」( p46~47 )
村山貯水池工事説明
村山下貯水池堰堤の広場に掲げられている東京都水道局の説明版
工事の様子がよくわかります。
 こうして、工事場の周辺には屋台の酒場やそば屋ができ、村には小料理屋ができました。小学生には「ムシロ敷き」のアルバイトに出るものもいて、話す人によって違いますが、1日20銭から30銭~40銭になったといいます。この話に、

 「山、一坪と子どもの日当が同じだなんぞ、どこか狂ってるべえ・・・」
 と、つぶやく古老には、言葉も継げませんでした。(2014.07.20.記)


村山貯水池工事の請負運動

 貯水池建設工事は、地元に様々な動きをもたらせました。その動きの素早さには目を見張るばかりです。用地買収反対が叫ばれる最中に、鉄道の敷設要望(村山軽便鉄道=別に記します)、工事の請負運動が起こっています。

 明治44年(1911)建設計画決定
 大正 3年(1914)用地買収開始
 大正 3年(1914)1月22日、移転地住民大会
 大正 4年(1915)2月28日、土地売渡調印拒絶

このような経過の最中、大正3年1月、地元の三ツ木村、中藤村、岸村、芋窪村、蔵敷村の「村民有志」が工事請負の請願を提出しました。

 「・・・高木村組合は・・・村総面積の約三分の一の人家並びに有租地を失うの結果収入並びに村民の生産力に多大の減損を来すべきは疑いを入れる余地なき・・・」として、高木組合村の工事は高木組合村に、中藤組合村の工事は中藤組合村に「村請負」として発注する方針を立てよと訴えています。

 結果的には、技術や資本の問題があり 「村請負」は成立しませんでした。
 しかし、人夫の供給を請け負う「組」がつくられました。上貯水池には「多摩組」(芋窪村)、下貯水池には入山組と小島組(いずれも東村山)が組織されて、それぞれ事務所を設けました。仕事をしたい人は組に登録して、割り当てられた仕事に就く仕組みが出来上がっています。

 また、水路工事には地元の有力者が参加して、一部分を請負うこともありました。例えば、西武多摩湖線武蔵大和駅近くに、通称「宮鍋隧道」と呼ばれるところがありますが、東大和市高木の宮鍋氏が請け負った箇所です。現在は暗渠になっていますが、近くに水門が2分の1に縮小されて復元されています。
宮鍋隧道模型
  左下 かっての余水吐跡(屋根は無関係)
  右  宮鍋隧道の模型
(西武多摩湖線武蔵大和駅西側の信号機近くにあります)
   (2014.07.19.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
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