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村山貯水池に沈んだ水田

 村山貯水池に沈んだ地域には水田が多くありました。

  総面積 324町( 3,21 平方キロ 村総面積の約 23%)の内
  水田40町 畑53町 山林216町 その他15町

 水田が 40町、畑が53 町と狭山丘陵南麓地域がほとんど畑で占められていたのに比べて、圧倒的に水田が多い地域でした。そのため、さぞ、豊かなところだったろうと思われます。ところが、生産性は高くありませんでした。かんじんの水田が水びたしの状態で、ドブ田と呼ばれるところが多かったからです。

 この地域の水田には
・苗代で育てた苗を田植えをして育てる植付田と
・田植をしないで、直接、田にモミを蒔く(直播じかまき)蒔付田(まきつけだ)
の二種類がありました。
 
 村山貯水池に沈んだ地域ではドブ田と呼ばれるように、多くが、田植えをしない蒔付田で占められました。
 特に、沢のふちにあるドブ田は、泥が深くて腰までもぐるようでした。そのため、松丸太を約30センチくらいの深さに沈めておいて、足さぐりでその上を歩いて、種蒔きや草取りなどの作業をおこなったそうです。
 「渡り木と呼ばれ、作業はたいへんな苦労だった」と伝えられます。その上、江戸時代には「山口領の悪米」とランクづけられ、苦労して生産された米が年貢に受け取ってもらえませんでした。金納が義務づけられています。
宅部川
石川・宅部川(クリックで大)
村山貯水池に沈んだ地域の中央を流れていた

 田用水は上写真の宅部川に堰をつくり、そこから引きました。谷ッの沢の水も多く使われました。水が冷いので、溜め池をつくったり、「デビツクリ」という迂回の水路をつくって、水温を高める工夫がされました。溜池の水は貴重で、干魃への備えでした。慶性院には、東京都内でも珍しい「水天」が祀られています。水難除け、雨乞の祈願の対象として、村人達から厚い信仰を受けたことが偲ばれます。(2014.06.27.記)



湖底の村の食生活

 馬方勝っあんのお得意だった内堀のみせでは、所沢の問屋から運ばれてきた荒物、雑貨、乾物、食品、武蔵村山からの味噌醤油などを売っていました。
 村人達は日用品をこの店で求め、主食は自給自足でした。足りない場合は、所沢から麦や粟を買ってきました。
 行商人も来ました。魚屋さんが天秤かついで来たり、呉服屋さん、飴うりさん、薬屋さんなどが廻ってきました。

 谷の生活はきわめて質素でした。

 「物日の日は別っこにしてよ、まあ、めえんち(毎日)は、麦めしに、前畑(まえばたけ)でつっくった野菜の煮っころがしだんべ」
 「簡単に云や、「あるものぐい」ちゅうだ。」
 「魚だとか肉・・? そんなの、おめえ、めったにお目にかかれゃしねえよ」

 毎日の献立はおよそ次の通りでした。
  朝 麦めし・味噌汁・おしんこ
  昼 朝食の残りもの
  晩 麦めし・味噌汁・おしんこ・野菜の煮物、たまに塩魚または干物。
内堀の店
(クリックで大)

挽き割り
 「だいたいが「ひきわり飯」だったんべ。石臼でよ、大麦をざーっとひくと皮がとれてな、それを一粒当たり、四つぐれえに割んだよ、「ひきわり」って云ってな、この中に、二~三割米が混ぜられれば、最高だんべ。」
 「ひきわりに、粟(あわ)をまぜて食う事も多かったな。粟だけの時もあったけんど、よかなかった。」

稗(ひえ)
 「稗(ひえ)はよ、まずかったなー。んでも、しょうがねー時は喰わなきゃなんねえからな。先祖から、どうしょうもねえ時のために、必ず何坪かつくっとけ、と言い聞かされて、ずーっとつくってきたあな。買った方が安いこともあったんべ。」

ばくめし
 「ちいっと手間がかかったけんど、「ばくめし」がよかった。」
 「こりゃ、旨かっただ。大麦の皮をむいて、トロトロ長い時間煮込むとよ、お粥のようになって、甘くなんだ。そんで、味噌汁をかけんと、よかたなー。」

手打ちうどん
 「手打うどんは、あんたって、ごちそうさ。」
 「物日にはつきものだったけんど、普段はめったに作らねえ。やっぱし、煮込みうどんが良かった。」
 「材料の小麦は、ちっとんべえ(少し)つくった。生活が良くなってからは小麦も増えたけんど、やっぱり、大麦が多かったな。」

その他
 「ソバも少しはつくった。ていげいが、じぶんち(自家用)だった。」
 「煮だんご(=すいとん)や、うでまんじゅう(=茹でまんじゅう)も腹の足しになった。」
 「サツマ(芋)がよくとれてよ、う(茹)でたり焼いたりして、子供達は腰にぶら下げて、学校の弁当に持って行った。」
 「サツマダンゴはよく作った。切干しにしたサツマを粉にして、せいろで蒸したもんだ。手で握った形が残った団子で、真っ黒だった。でも、他になかったからうまかった。」


 湖底の村には魚屋は一軒もありませんでした。普段は、時々廻ってくる行商人から買っていました。
 「魚はよ、歳の暮に、手車引っ張って所沢へ行ってな、鮭とかますを買って来んだ。
  なるべく、日持ちすんようにな、うんと塩のきいたやつをな、こう、叺(かます)に入れてよ、こんだけ買うだから、ちったあ考えろと、交渉してよ、それを六月ぐらいまでもたせたかな。物日が来ると切って食っただ。」

 質素で素朴な生活が送られていました。昭和50年(1975)、導水管工事の関係で湖底が現れたとき、関係者からの聞き取りノートから抜粋しました。(2014.06.20.記)



鹿島台遺跡テスト

東大和の歴史 縄文時代 鹿島台遺跡のテスト

東大和の歴史 縄文時代テスト

東大和の歴史 縄文時代テスト

東大和の歴史テスト

東大和の歴史テスト 先史時代

馬方勝っあん

 村山貯水池が建設される前、狭山丘陵の南麓と北麓とは生活圏を共にしていました。特に所沢で六の日毎に開かれる「市」は村人達にとって大きな関心事でした。そればかりでなく、村の商店にとっては、仕入れ先でもありました。大正の初め頃(1915年代)まで、ここを往復した実直な馬方「勝っあん」のお話です。
馬方勝っつあんルート
(クリックで大)
 「今はもう湖底に沈んでしまった内堀部落に、レンゲ、タンポポが、春がすみの中に咲いていたころのお話しです。
 この村に中藤村(武蔵村山市)から、お酒の好きな五十歳前後の体格のよい馬方さんが、配達の仕事で来ていました。

 当時村の人々は、「馬方勝っあん」と呼んでいました。
 勝っあんの家は、芋窪村と中藤村境の東の「とっつき」旧青梅街道の北側にあり、通称「中藤の大橋」にありました。
 朝早く家から、馬車を引き出し、得意先々の店により、注文の品物を聞き、所沢の問屋まで仕入れに行き、配達して賃金をもらう毎日でした。

 勝っあんはよく働く人で所沢まで往復八里(十六キロメートル)もあるのに、夕方までに注文の品を届けるので、商店の主人達に重宝がられておりました。

 勝っあんは、「内堀の店で好きな酒をゆっくり飲む。これが何よりの楽しみで働くのだ」とよく言っていたそうです。
 「内堀の店」と言うのは、内堀村、西隣り、荒ヶ谷戸、東隣り、杉本、林、中田、の数十軒の民家を相手に、関下○○さんという人が経営していました。雑貨、荒物、酒、タバコ、米、麦等生活に必要な品を揃えていた大きな商店でした。
 いつものように勝っあんが、「一杯飲んでいくべい」というと馬の足は自然と「内堀の店」の前で止りました。
 勝っあんが、中で陽気に飲んでいても、馬はおとなしく外で待っていました。お酒の好きな勝っあんは、ついつい飲みすぎてしまい、酔っぱらってしまうこともありました。そんな時、店の主人は馬に、「お前、勝っあんを家まで送っておくれ」とたのむと、馬はわかった様子で、勝っあんが落ちないようにゆっくり歩き出しました。
馬方勝っつあん
「勝っあん」・モニュメント
東大和市奈良橋市民センター
 いい機嫌に酔った勝っあんが、たずなを手に持ち、「かわいいばあさん乗せて、東京へ行ってみてえ」と歌いながら馬車にゆられて、庚申坂を登って行く姿を見たものだ。と内堀村の長老、内堀小十郎さんは当時を思い出しながら、なつかしそうに話してくれました。

 勝っあんの通った道は、現在の奈良橋八幡神社東側の道を登ると、村山貯水池周囲道路につき当ります。その真向いの道です。進行防止の鉄線がはられていますが、その道をしばらく行くと、急坂になりその辺から水辺になります。昔はこの坂を下った所に、庚申様が祀ってあって、内堀村の人々は「庚申坂」といっておりました。」
(『東大和のよもやまばなし』p118~120)
勝っつあんの馬
「勝っあん」の馬
 勝っあんが「かわいいばあさん乗せて、東京へ行ってみてえ」と遙か遠かった東京はグン―と近くなりました。
 そして、馬はおとなしく外で待っていられなくなりました。勝っあんの仕事はとっくになくなりました。
 村山貯水池周辺の貴重な緑が、放射能に曝されないように馬の背に手を置いて祈ります。
 (2014.06.12.記)

石神の話

 村山貯水池(下)に沈んだ上宅部に伝わる話です。下の堤防から二つの取水塔が見えますが奥の方に近いところでした。
石塔前2 
(クリックで大)
 そこは、石塔前という特別の名前で呼ばれていました。村人達にとって、大事な大事な「石神」様があるところでした。『東大和のよもやまばなし』はこう語ります。

 「ご先祖様がやっていたとおりだいじにしてるんだが……」
 清水の原六郎さんの裏庭に一枚の板碑が祀られています。貯水池が出来るまでは、原家は湖底となった上宅部の石塔前という所にありました。
 この板碑は昔、原家の北を走る道の端から掘出され、その時、鍛治でも住んでいたように大量のカナクソが一緒に掘出されたといいます。移転前には山下の池から水が流れ込む田圃のそばの林の中にありました。

 「狭山の栞」によると、原五郎右ヱ門の地所である山下の柜(きょ=欅)の木の根元に虫歯等の病に霊現(れいげん)のある「石神」があって、近隣の人達の信仰を受けたことが記されています。

 おまいりする時、「お石殿」と唱え、病が治ると鉄の鳥居をお礼に上げたのだそうです。
 五郎右ヱ門さんの子孫の原さんは、「そういうことは聞いていないが、今まで幣束を上げていた。最近になって「仏」だと聞いたので神様に上げる幣束はやめた。」
と、話されていました。この話の中からや、辛うじて読める「観応」の年銘、その他の状況から、所在不明とされていた「石神」であろうと推測されます。(東大和のよもやまばなしp204~205)
観応3年板碑原家
 『狭山之栞』には「折れたり 長二尺二寸 巾八寸」とあります。紛れもなく中世の板碑です。拓本から阿弥陀三尊像、観応三年(1352)六月と読めます。北朝(新田義貞派)の年号で、この年号の板碑は東大和市では唯一のものです。

 この年、武藏国では武藏野合戦と呼ばれる戦いが起こり、武蔵武士は新田義貞方と足利尊氏方に分かれて戦い、足利派の勝利に終わりました。当時の狭山丘陵周辺では金子氏が足利方に、村山党が新田方に付きました。この板碑を祀った上宅部の主は新田方について討ち死にをしたと考えられます。時代が足利氏に移ろうとするとき、なおも、新田方の年号を使う律儀さに打たれます。そして、カナクソや鉄の鳥居の奉納がされていることから、中世の上宅部に、野鍛冶が存在したことを伺わせます。
 
 それから長い年月が過ぎ、村人達は、虫歯等の病に霊現のある「石神」として主を祀りました。歯茎を噛み締めた言い伝えが残ったのでしょうか?
 板碑は、村山貯水池建設と共に、南麓の原(現・東大和市清水)にうつり、原家に大事に祀られています。(2014.06.05.記)

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木樹燦讃

同級生の仲間・沢田要一さんが個展を開きます。
油絵を長くやって居ましたが、水彩画に切り替えました。
是非お立ち寄り下さるようにお願い致します。
 
木樹燦讃
木樹燦讃2
(2014.06.02.記)


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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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