村山貯水池と山口貯水池

 貯水池は狭山丘陵に形成された大きな谷を堰き止めて造られました。一口に、村山・山口貯水池と呼びますが、村山貯水池(上・下)と山口貯水池の二つに分けられます。建設年次も取水堰も違います。しかし、調べて行くと、深い関係があることがわかります。

建設時期
           着  工      完  成    
 村山上貯水池  大正6年(1917)10月  大正13年(1924)3月 
 村山下貯水池  大正5年(1916)  5月  昭和 2年(1927)3月 
 山口貯水池    昭和2年(1927)11月  昭和 9年(1934)3月  

原水のルート

 多摩川から取水された原水は、現在、次のルートで流れます。村山貯水池上堰堤の下の広場に、「水源地を大切に」との東京都水道局が作成した原水や貯水池の全体がわかりやすく描かれた案内板があります。そこから、概略図を書きました。今回紹介する村山貯水池は羽村取水堰からのルートです。ただし、大正・昭和にかけて建設された当時は東村山浄水所はなく、水は村山貯水池から直接、境浄水場に運ばれていました。
原水の流れ模式図2
(クリックで大)

 村山貯水池の計画段階の内容

 前回紹介した明治44年の報告書の詳細です。
 ・取水口を羽村に置き、開渠と暗渠で、福生、熊川、中藤をへて
  貯水池に至る導水線(羽村・村山線)を設置する
 ・芋窪村・清水村(現・東大和市)に土の堰堤を築く
 ・多摩川と、名栗川(入間川、飯能市)の原市場より水を引く
 ・現地の状況から、上貯水池と下貯水池の二つとする
 ・貯水池から東京市の浄水場まで導水渠(村山境線)を引く

工事の概要

 実際の工事は次の内容で行われることになりました。大別3つに区分されます。今回は②の村山貯水池を中心に書きます。
村貯水池工事の概要
(クリックで大)
 (2014.04.27.記)

村山貯水池の建設

貯水池建設の決定

 東大和市の近代に大きな影響をもたらせた出来事の一つが村山貯水池の建設でした。山口貯水池の建設と併せると、狭山丘陵周辺の村々に共通する画期とも言えそうです。
 
 明治に入り、江戸が東京になり、西洋文明に接して問題になったのが「飲み水」でした。武蔵野の原野に掘られた素掘りの玉川上水や神田上水などに依存し、浄化施設は不十分でした。市中の井戸も水質検査が行われ、明治10年代には不適の結果が示されます。上水改良の空気が叫ばれてきました。

 明治19年(1886)コレラが流行しました。15区、郡部を併せると患者12,171人、死者9,879人、一日に300人以上の死亡が伝えられます。その最中、玉川上水の水源付近でコレラ患者の汚物を多摩川に流したとの新聞報道がなされました。開渠の玉川上水では、汚物が入りやすく、また、浄水装置もありませんでした。これらの解消のため、明治21年(1888)、水道改良工事が始まりました。淀橋への浄水場、本郷、芝への給水場、濾過と配水装置の設置です。

 明治38年(1905)、水不足問題が生じ、人口増への対応もあり、抜本的な解決が求められました。深井戸を掘る計画も議論されましたが、より、恒久的な策として貯水池建設が提案されました。
 明治 44年(1911 )、①奥多摩地方への大久野案、②狭山丘陵への村山貯水池案の2案が浮上しました。
村山貯水池の建設
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 東京市区改正委員会は明治45年(1912 )4月5日と5月5日に集中審議を行いました。審議は伯仲し、工事の難易、工費などから、結果として②狭山丘陵案が採用されました。
 大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬は村山貯水池案の認可を出しました。
 大正2年度(1913)から大正8年度(1919 )にいたる7カ年の継続事業が決定されました。
 大正3年(1914 )1月10日には、早くも芋窪村・蓮華寺に村山詰所が設けられています。その手早さには、驚くばかりです。

(2014.04.24.記)

驚きました 

・・・しながら、の掛け持ちが出来なくなったとは!!

 新田義貞の鎌倉攻めと狭山丘陵周辺について書くつもりで
データを揃え始めました。
 そこへ、気になっていた空爆の史料のまとめの期限が迫ってきて
 午前中は義貞、午後は空爆、そしてウオーキング
と決めました。
なんと、どっちかが頭を占領して、それを許しません。
年をとると融通が効かないようです。
困ったものです。
 暫く、新田義貞様の資料を閉じ、空爆に励まざるを得ません。
お許し下さるようにお願い致します。
桜の奥の変電所跡
桜の背景は日立航空機工業株式会社の変電所跡です。
昭和20年(1945)2月から4月にかけて、アメリカ軍に爆撃されて
廃墟となりました。
その背景をまとめています。

(2014.04.20.記)

こさ池とかゆ塚

 太平記をひときわ彩る話に、元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めがあります。その時の伝承が東大和市に残っています。と云っても、ほとんどの人が信じません。

 「それは、東村山市の久米川古戦場の間違い」
 「将軍塚や元弘の板碑なら信ずるけど・・・」
 「勝楽寺が燃えた話」
 「山口観音の誓の桜」
 「・・・」
 と一挙に並べられて、立つ瀬もありません。でも、先ず聞いて下さい。『東大和のよもやまばなし』です。

 「今は多摩湖の底になってしまった内堀に、こさ池という池がありました。古歌に残る「狭山の池」とも言われている池で、この辺では最も大きく、水に沈むまで田用水として使われていました。
 このこさ池にまつわる伝説があります。

 昔、新田義貞が鎌倉を攻めた時、この附近に陣を布(し)き、こさ池の水を汲んで粥をつくって軍勢に食べさせたということです。食べた場所が「かゆ塚」と言って東村山の廻り田にある金山神社の南に残っていました。その辺には四ツ塚と言って当時の伝説がある塚が最近まで並んでいたそうです。又、こさ池に近い山の上に、「ごはん塚」といわれた所もありました。」(『東大和のよもやまばなし』p195)

 「こさ池」は、「古沢池」の訛りで、蓴菜(じゅんさい)の生える大きな溜め池でした。現在の二つ池、湖畔二丁目の北方、貯水池内で大きく南側に食い込んで谷をつくるところにありました。
 
こさ池など位置図
(クリックで大)

 東大和市では唯一の貴重な元弘時代の伝承です。ところが、「こさ池の水で粥を作った。食べたところが金山神社の南側(東村山市内)」となると

「エ・・・? ほれごらん・・・」
「お粥をどうやって運んだんだ!!」
「ごはん塚で食べたんだ」
「じゃ、なぜ、金山神社が出てくるんだ」

と、ケンケン・ガクガク。最後は笑い話になってしまいます。

 ですが、お隣の武蔵村山市にも「おびきやま」の伝承があり、入間、所沢市はもちろんのこと、狭山丘陵には新田義貞関連の話題が沢山あります。少しずつ書きます。気長にお付き合い下さい。

モニュメントごはん塚
二つ池には、「ごはん塚」のモニュメントが浮かんでいます。

 この解説には、「食べさせた場所はこさ池に近い山の上で、ごはん塚と云われ、当時の伝説にまつわる塚があったそうです」となっています。武蔵村山市の「おびきやま」の伝承にも「ごはんたき」が出てきます。
(2014.04.14.記)

 東大和のよもやま話へ

桜街道の桜

 東大和市の桜の名所の二番目と云えば桜街道の桜でしょう。ここは市道で、街路樹として植えられています。桜は成長期にあります。
 
桜街道の桜
モニュメント「桜」が見守る桜街道

 この桜も幾多の変遷を経ています。まず、『東大和のよもやまばなし』から見て行きましょう。

 「もとは旧青梅街道で、ここでは江戸街道ともいいました。小平から東大和市駅を通って火災保険会社の寮の前から村山団地の方へ行く道のことですが、ここに美しい桜並木がありました。小鳥が多くひばりが鳴いて、桜の下にはかげろうがゆれていました。小学校一、二年生の遠足の場所でしたし、運動会をしたということも聞きました。花の頃は鹿島さまの裏山へ上ると見事な眺めでしたし、遠くからは白い幕をひいたように見えたそうです。

 この桜は明治十五、六年頃に植えたといわれます。道の両側は畑で、さつまいもや桑の木が植えられ中央が少し小高くなって桜はそこにありました。こさ(木陰)をひくといって切りたおしたこともありました。

 戦前外国人が花見に来て、最初は近づくのがこわくて、おそるおそる見ていたこともあります。
 桜街道という名は比較的新しい呼び名のようで、昭和二十年四月二十四日の空襲で日立が殆ど壊滅状態になりましたがその時に大部分の桜もなくなり、今残るのは名前だけです。」(東大和のよもやまばなしp153)

 歴史は古く、天保4年(1833)の『御嶽菅笠』の青梅橋の図には「千本桜」の書き込みがあります。街道沿いと云うよりは野火止用水の周辺に植えられていたように見受けられます。
 
御嶽菅笠青梅橋模式図_edited-1
御嶽菅笠の青梅橋周辺と桜街道
(クリックで大)
 
 その後、この付近の姿を伝えるのはアーネスト・サトウ(英国の通訳・書記官)です。明治6年(1873)、10年(1877)、14年(1881)に、小川から青梅橋を通過して箱根ヶ崎に向かっています。その明治14年の記録に

 「小川〔小平市〕の村はずれの右手に小川屋というよい旅宿がある。欅は若葉をつけた繊細な枝を伸ばし始めたところだ。その薄緑色の葉は詩的な楓の緋色によく映える。堀之内への入り口に見事な八重桜があった。道に沿って山桜が多く見られ、あるものはまだ満開だが、あるものはすでに茶色の葉が花を侵食し始めていた。白と赤の八重咲きの桃が混じり合って美しい枝に花をつけていた。スモモの白い花は枝という枝の最先端までびっしりと群れ咲いていた。赤い木瓜は深緑色の葉の間に点々と咲いていた。」

 とあります。青梅橋に達する間の小川村の集落は花に満ちていました。ところが、青梅橋に達すると一変します。道がぬかるんで人力車が使えず、憤懣やるかたありません。そして、
 「道は幅の広い平地を過ぎていくのだが、桑に囲まれた畑以外に何も見えないところもときどきあった。あちこちでアブラナが群生し、芳香を漂わせていた。」(東洋文庫版 日本旅行記1p174)
 としています。一面の桑畑と菜の花が群生している様子が伝えられます。

 『よもやまばなし』の伝承は、この時期に、村々の青年が何らかの動機に触れて、青梅橋から武蔵村山市に至る間、桜を植えた事が推察されます。この桜も、米軍の爆撃で壊滅しました。それが、現在、復活して来つつあり、桜街道の名にふさわしい景観をつくって行こうとする姿に未来を託します。(2014.04.06.記)

 東大和のよもやま話へ戻 



『東大和のよもやま話』

よもやま話トップのコピー 
ようこそ!!
 お訪ね下さり、有り難うございます。

 東大和市には、2014年現在、100を超すよもやま話が『東大和のよもやまばなし』に収録されています。
 まだまだ、眠っているものがあろうかと思われます。それらを含め、背景を探りながら紹介します。 

鹿島様の要石  デンドロの井戸(でいだらの井戸 だいだらぼっち)

弘法大師の井戸 こさ池とかゆ塚
  

火をふところに入れた法印さん 

おしゃぶき様  行人塚   比翼塚  清水の伝兵衛地蔵さん

きつねの嫁どり    三本足のきつね     きつねの恩返し   歯をとぎに来たむじな

欅のめざまし  ほっぽきの話  機場(はたば)遊び  ごぜさん

ほうそうの話 多摩湖の桜 桜街道の桜 

よもやま話
『東大和のよもやまばなし』表紙
編集 郷土史みちの会 
昭和57年10月1日発行 東大和市教育委員会
(2014.02.22.記)

心づくし

 シャッター押して下さいますか!!
全国的には6番目、東京都では最新というプラネタリウムが
東大和市に設けられて、その紹介のあった日(3月19日)です。
懇切で、手際よく
何よりも嬉しくて嬉しくてたまらない余韻を残して
説明された女性学芸員Nさんと
わが東大和市民ネット唯一人の女性会員Sさんが並んでいます。

「手慣れたカメラで失礼します」
少し大きめに焼いてお渡しした数日後
「奥様へのリハビリ応援メッセージです」
と届けられました。

心づくし
(クリックで大)
 
 足を病む連れ合いは
「まあ、心の籠もった・・・」
と絶句
 お茶をする度に拝見しています。
(2014.04.03.記)

多摩湖の桜

 桜が満開となりました。
東大和市の桜の名所の一つに村山貯水池・多摩湖の桜があります。

多摩湖の桜2

 今では、桜の数は減りましたが、多くの人々が楽しんでいます。この誕生を『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。

 「お花見の季節になると多摩湖はいつもの静かさとは見違えるように活気にあふれてきます。花のトンネルの下を車が連り、この時ばかりは夜桜まで人通りがたえません。

 この桜は昭和二年に村山貯水池(多摩湖)が出来た時に植えましたが、その時の木はほとんど枯れてありません。昭和九年に時計王といわれた服部金太郎氏が亡くなられ、翌十年に遺族の方から一万本の桜の寄付があり、主に人の多勢来る下貯水池のまわりに植えました。

 人の集る所には吉野桜、北側の堤防からよく見える所や、南側の周囲道路に五間間隔で山桜を植えました。五間という間隔は木の盛んな時に広げた枝が、ちょっとつく位だそうです。直径五・六センチの若木を植えたのですが、今ある古木はその時のものです。八重桜は折られたり、早く枯れるのでほとんどないようです。

 戦時中に出来た高射砲の陣地のため、その廻りの桜は切られてしまいました。戦後は薪(たきぎ)がなくて貯水池の山から木を切り出されたこともありました。最近は広い所だけに手入れも思うようにまかせません。台風の被害も多く、昭和四十一年には貯水池の木も随分倒れ、五十四年には松が二百本近く折れました。

 それでも春になれば桜はつぼみをふくらませます。空一ぱいにひろがる花の盛りは、日本の国花を思出させる季節です。近頃は周囲道路はマラソンのコースになり、走り抜けていく若い人の姿や、遠足の子供のにぎわいが湖水にひびき渡ります。」(東大和のよもやまばなしp151~152)

多摩湖の桜3
でも、花のトンネルはなくなりました。
多摩湖の桜4
 周囲道路に残されているのは民地側

 さて、貯水池に桜を植える構想は壮大なものでした。

一、白山桜 村山上、下貯水池並に山口貯水池周囲林地に配植す
一、紅山桜 山口貯水池に混植す
一、紅彼岸桜 山口貯水池南岸広場に散植す
一、染井吉野桜 村山、下堰堤、下公園供用区域並に村山ホテル付近その他広場
一、里桜 前項公園内の一部及三ヵ所の水道事務所付近
  右配置は大体方針にして風致並に誘道の為多少の混植を為し分界を立てず順次推移せんとするものなり
一、植栽 総数壱万本の成木を目途とし壱万弐千本の幼樹を植栽し、尚補植更新用として別に拾万本の稚樹を養成する計画の元に紅山桜壱斗六升、小金井産山桜壱斗七升の種子を播下し猶里桜、彼岸桜繁殖用の砧木(だいぎ 接ぎ木の台)の購入を為すものとす(紅山桜、小金井産山桜の種子は既に播下済)
(武蔵野 昭和44年4月20日発行 第48巻1号 世界に誇れる桜の新名所に育てたい 村山、山口両貯水池周辺の桜 山田 菊雄)

多摩湖の桜5 

多摩湖の桜1

 もう一度、復活させる強力なリーダーシップの出現を夢見ます。せめて、少ない額でも基金のためのボランティア活動が始められないでしょうか。(2014.04.01.記)

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野火止用水

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