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玉川上水の春

玉川上水の桜
3月26日~28日、玉川上水に桜が開き始めました。
 
集まる鴨
午後の日差しの映える浅瀬に鴨たちが集まっています。

立ち上がる一羽
一羽がすっくと立ち上がりました。

猛烈なアタック
急に騒然と猛烈なアタック。
(クリックで大)

ヒヨドリ
異常な雰囲気に、鳥たちも甲高い声を上げます。

ぼけの花
ボケも眠っては居られないようです。

推叫び
権利を得た一羽でしょうか、
雄さけび・・・? でも、相手は知らんふり。
さてさて、この後はどうなるのでしょう。
イケメンなのに、なんと冷たい!!

(2014.03.28.記)

ほうそうの話

 江戸時代から大正初めまで、狭山丘陵周辺で、子どもの死亡率の一番高かったのは疱瘡でした。あっという間に地域に蔓延し恐れられました。

 「昔、はやりやまいの一つに「ほうそう」(天然痘)がありました。死亡率の高い伝染病で、種痘が一般に行なわれ始めた明治の初年までは一度流行すると、子供を持つ親はたいそう心配でした。

 高い熱が三日位続き、ついで発疹が出てきます。やがて、くずれてデコボコのあばたが顔に残るという大変困った病気です。
 治療の方法もなく、患者が出ると、神社へお百度まいりをしたり、瘡守稲荷へ祈願をしたり、又ほうそう日待ちを行なったりして快復を願うより仕方がありませんでした。

 大変かゆくて顔をかきむしり肉までむしり取ってしまう程だったそうです。かゆみをやわらげるためか「あわがら」や「あわぬか」を床に敷いて、そこへ寝かせておいたという話です。幸いにも治ると、「ささ湯」を浴びせて身を清めました。
 「あばた」は手や足には出来ず、顔にだけ出来るものですから、治ってもその跡が残って、年頃になった娘さん等は、お嫁入りの話にもさしつかえるようでした。

 大正に入ると種痘をするようになり、ほうそうの流行はほとんど見られなくなりました。
 生後半年位の赤ちゃんに小学校で「ほうそううえ」が行なわれ、この日ばかりは子供の母親は晴れて外出できるので楽しい日でもありました。普段は、機織りや、農作業に追われる若い母親が、家の人たちに気がねをすることもなく出かけることができたからです。こざっぱりした着物に着替えて出かけていったそうです。赤ちゃんには気の毒ですが、種痘がお母さんのほね休めに一役買ったというところでしょうか。」(一部省略、東大和のよもやまばなしp76~77)

 天保6年(1835)、中藤村(武蔵村山市)の指田氏は指田日記に
 12月18日峰吉嫡子、21日忠兵衛末子、23日金蔵、杢左右衛門子疱瘡、26日周平子4才、28日周平子の弟2才、疱瘡で死、
 とその状況を記録しています。連続して病に倒れ、あっという間に兄弟を失うこともありました。
 修験が疱瘡棚をつくって祈祷をし、家族は千垢離(水で身を清める)、千度参りをして祈ります。時には「ささ湯」(酒湯=酒とお米の汁を混ぜる 笹湯=お湯に笹を浸す)をかけて退散を祈り、身を清めました。今では信じられません。

青梅橋瘡守稲荷
青梅橋の瘡守稲荷
近隣の人々から厚く信仰された。
かっては、東大和市駅駅前広場の線路近くにありました。
(2014.03.25.記)

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狭山丘陵の麓でトップ

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ようこそ、おいで下さいました。 (テスト中)
ごゆっくりお過ごし下さい。

枠最新の記事 

ごぜさん
東大和のよもやま話から
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2014.03.23.

機場(はたば)遊び
蚕影神
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2014.03.21

そんなにひっくり返らなくても
桜にヒヨドリ
つぶやき・散歩道
2014.03.19 
・・・・・・
東京都と埼玉県の境に狭山丘陵があります。
その南麓、村山貯水池を背にしているのが
わがまち「東大和市」です。
東京都ですが、天気予報は埼玉県も注意です。

小学校5年生から60余年を暮らしました。
大好きになりました。
その「まちかど」と「歴史」を紹介します。
お気に召すところをクリックしてご覧頂ければ幸いです。


枠東大和のまち

東大和市のまちについて書いています。
図の町名をクリックすると、そのまちに行けるようにしたいのですが
現在のところできません。やむを得ず、
下の文字による地域名をクリック下さるようにお願い致します。 

地域案内図
地域名をクリック下さい
 
多摩湖地域 芋窪地域 蔵敷地域 奈良橋地域 湖畔地域

高木地域 狭山地域 清水地域 上北台地域 桜が丘地域

 立野地域 中央地域 南街地域 仲原地域 向原地域 清原地域


枠歴史   

 古代 中世 近世(江戸時代

枠東大和のよもやま話 

東大和地域 他の地域

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枠玉川野火止 
 
 玉川上水 野火止用水 

枠散歩道  


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(2014.02.24.記)

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ごぜさん

 桜のつぼみが膨らみ、野草がそれぞれの花芽をのぞかせて暖かい季節の到来を告げています。もう百年も経ちますが、狭山丘陵周辺の小径に三味線の音が流れました。

 「春風に乗って独特な三味線の音色が聞えてきました。毎年、春になるときまってやってくる「ごぜさん」です。
 軒先に立って三味線をひきながら唄をうたい、なにがしかの金品をもらう遊芸をなりわいとした女の人達です。
 丸まげや銀杏返しに髪を結い、ちょっとしゃれた木綿のきものを着ていました。きちんと帯をしめ手拭を姉さんかぶりにして駒下駄をはいた人、裾をはしょって、けだし、脚絆(きゃはん)をつけてぞうりをはき笠をかぶった人など、身なりはさまざまですが、申し合わせたように身のまわりの品を入れた「ずだ袋」を肩からぶらさげたり、大きな風呂敷を背中に斜めにしょったりしていました。

 目の不自由な人は少く、ほとんどが目明きの人達で、二、三人連立ってやってきました。三味線を抱えてひきながら歩くので、子供達はおもしろがって後からついていきます。
 門口に立って「唄わせてください」と一言ことわってから、義太夫のような節まわしでほんのひとふし唄って聞かせました。声もよくとても上手だったそうです。唄い終ると赤い銭(ぜに 一銭銅貨)を一つか二つ、時にはお米をもらうなどして隣から隣へと一軒一軒流して歩きました。中には、ひいきのこぜさんを座敷に上げて、悲しい物語唄などたっぷり聞いてお金をはずむ人もあったようです。

 芸人としてのプライドもあり礼儀正しく振舞っていましたから、応対する側もそれなりに接して、もらい人(こじき)とは違った扱いでさげすんだ気持はありませんでした。一日中門付けをして歩き、夕方には常宿にしている家に落つきます。当時は「ごぜを泊めると養蚕がよく出来る」といわれていましたから、大きな養蚕農家では喜んで泊めていました。夜になると近所の女衆達が大勢集ってきて、それぞれにお金をあげては、段物やなっちょらん節、さのさ節などを聞いて楽しみました。話題が豊富で話術もうまく、夜遅くまで四方山話に花を咲かせてなごやかにだんらんの時を過しました。
 しかし、中には泊めてくれる家もなく墓地のお堂で一夜を明かす気の毒なごぜもいました。
 大正時代には、よく姿を見かけたものでしたが、昭和のはじめ頃から次第に見られなくなったということです。(『東大和のよもやまばなし』p121~122)原文は長いので、一部省略して紹介しました。

 墓地のお堂に、大きめのおにぎりと味噌汁、めざしを届けて、風呂に誘ったおばあさんから、「最後の余り湯で・・・といって、どうしても遠慮するので、泊まってもらった」と聞いたときには、思わず肩をもみました。

ごぜさんの通った道
ごぜさんの通った道
 
(2014.03.23.記)
 

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機場(はたば)遊び

 来るか 来るかと ハタ音やめて
 ケン縄 詰めたり ゆるめたり

 東大和市内で歌われた機織りうたの一節です。

 「若い娘たちが、一日中「はたし」に腰かけて、村山がすりを織っていたころのことです。
 村山地方では、ほとんどが農業をしていましたから、青年たちは、日中は野良仕事に精出していました。夕方帰宅して夕飯をすますと、あとはなんの楽しみもありません。一風呂あびると、下駄をつっかけてブラリと街道へ出ました。街灯のないころで、真暗なのですが、歩きなれた道です。あちらこちらの家から一人、また一人と仲間の青年が集まってきます。青年たちは何人か連れだって、機織をしている家の庭先へ出かけて行きました。

 早朝から織物をしていた娘たちは、いい加減くたびれて、眠気のさすころです。青年たちが入ってくると眼はパッチリ開き、機織る手の動きもはずみました。話は天気のこと、作物のこと、近所のうわさ話などですが、ときには流行歌の一つも歌ったりして、若い男女が大っぴらに話しあえる楽しい交流の場になりました。

 家の人も心得ていて、庭先へ入って話しやすいように雨戸はすっかりあけておきました。織子の手がはずむのですから、歓迎とまではいかなくても喜んでいたのでしょう。なじみになるとお茶をだしてくれる家もありました。青年たちも管巻(くだまき)や絣(かすり)ほどきを手伝ってくれたりして、大助かりなこともありました。語らいのなかから、ロマンスが生まれ、結婚にこぎつけた人もあったとか。

 七十歳すぎのおじいさんが、
 「機場あそびは楽しかったよなあ。雨さえ降らなきゃ毎晩のように、よく出歩いたもんだよ。瑞穂のほうまでも行ってよなあ。いろんな話してよ。今よりずんと楽しかったわなあ。」
 と、その当時を思い出して、笑顔で話してくれました。」(東大和のよもやまばなしp66~67)

 いざり機の辛い時期を乗り越えて、一時は、一家の稼ぎ頭だったかも知れない機織り娘、おおらかな空気がありました。でも、心配で心配で土間をうろうろした親の嘆きも聞きました。一方、瑞穂や村山まで行くのに自転車を買った若者も居たそうです。テレビもゲームもまして自動車なんてなかったのですから!!

蚕影神
今も静かにまつられる母娘が揃ってお参りした
養蚕と機織りの神(奈良橋・八幡神社)
(2014.03.21.記)

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そんなにひっくり返らなくても

久しぶりに玉川上水縁に出ようと
西武拝島線・玉川上水駅の南口、階段を降りると

「もう咲いてたんだ!」

と、思わず目をこらしたのが早咲きの桜です。
玉川上水駅前の桜 
陽気の暖かさと共に予期せぬ出会いにウキウキ。
近づくと、なにやら、花を動かせています。
さては、メジロか!
レンズを向けると高い鳴き声
ヒヨドリでした。
落っこちないのかとの心配をよそに、蜜吸いに余念がありません。

桜にヒヨドリ 
     (クリックで大)

それにしても、まあ、良くもこんなに首が回るもの。
呆れていると
撮り終わるのを待ってくれた人が

「なんて器用なんでしょう・・・」

思わず顔を見合わせて、幸せでした。

(2014.03.16.17.撮影 19.記)

ほっぽきの話

 養蚕が盛りだった頃です。正月の14日は繭玉(まゆだま)の「女日待」(おんなひまち)の日でした。まゆ団子を作って豊作を願い、朝から晩まで働き通しの女衆にとって、この日だけは晴れて遊べる楽しい一日でした。

 寄り合いの宿には部落中の女衆が集まって、御馳走を食べ、おしゃべりをしました。そこで、楽しみを増したのが「ほっぽき」でした。宝引きと書くように、ごく単純な賭事です。『東大和のよもやまばなし』はこんな話を伝えます。

 「まず「ドウヤ」(胴親)を決め、その人が長さ一メートル位の麻紐を人数分ほど束ねて片方の端を握り、もう一端を車座の中央にパッと投げます。他の人達はその麻紐を一本ずつ拾います。ドウヤが握っている側には一本だけ巾着(きんちゃく)とか、穴明き銭(文久銭)などを二枚位をつけた目印があってその紐を引いた人が当りで、皆の賭けたお金を貰えるという仕組みです。賭金は明治の中頃で五厘か一銭位だったということです。

 ある年、賑やかにほっぽきに打ち興じていました。途中からは若い男衆も仲間に加わって来て、座は明るくはなやいでいたのです。その時、いきなり警察官がどっと踏み込んで来たのです。

 男衆は慌てふためいて、一目散に逃げてしまいました。しかし腰の重い女達は大勢つかまって、しょぴかれてしまいました。近くで本物のバクチがあると田無の警察が取締りに出動してきたのです。しかしバクチの現場は押えることができなかったもので、賑やかに笑い声のしていたお日待ちの宿に踏み込んだのでした。

 女衆ははだしのまま、縛られて田無の署まで歩いて連れて行かれてしまいました。翌日男たちは着替えや下駄を持って警察まで貰いさげに行きました。この事件には女衆もすっかりこりて、次のお正月からは、ほっぽきは勿論、お日待そのものも止めてしまったということです。」(東大和のよもやまばなしp52~54)

椀倉
椀倉(わんぐら 蔵敷 現在はない)
人寄せの時の座布団、食器、膳などを
身内や集落で共同して使うためにそこここに建てられていました。
 
 狭山丘陵の麓の青梅街道は甲州裏街道とも呼ばれました。江戸末期から明治のはじめの頃、伊達衆や侠客の行き交いもあり、機織り景気も手伝って、貧しい中のちょっとした華やかな一面が思わぬ出来事を引き起こしたようです。(2014.03.17.記)

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火をふところに入れた法印さん

 「清水に持宝院(じほういん)という修験の法印さんが居りました。代々学問のある家の人でした。
 江戸末期のことです。その頃は副業に炭焼をしていた家が多く、馬に炭を付けて淀橋まで運んだものです。正月の初荷で持宝院も馬をひいて出かけました。当時、淀橋を渡って少し先の成子坂の下に馬宿があったそうです。」

 江戸時代、東大和市周辺では水田が少なく、米質も悪かった事から、年貢は金納でした。そのため、農業の合間に、薪や炭を馬で江戸市中に運び「駄賃稼ぎ」をしました。運び賃という事で、商業とは見なされず、「農間稼」と黙認されています。組頭や村の有力者が主導したようですが、清水村では修験が同行しています。

 「持宝院は、ほっとしてそこでひと休みすることにしました。荷付け馬を表につないで中に入り、居合せた人達と気軽に言葉を交しているうち、ひとりの馬方が急にからんで来ました。

 「酒の肴にどうぞ……」

 と言って、真赤におこった炭火を火箸に挾んで差出しました。持宝院は少しも騒がず懐から半紙を取出してその炭火を包むと、そのままゆうゆうと懐に入れてしまいました。そしてやおらもう一枚の半紙を出して、

 「私ばかりいただいては済まないから、お前さんもどうぞ……」

 と、同じように炭火を差出しました。こればかりは普通の人には受けられるものではありません。相手は目を白黒させてあやまってしまいました。持宝院は修業を積んだ法印さんでしたから火伏せの印を結んで火を消すことができたのだということです。」(『東大和のよもやまばなし』p111~112)

火をふところに入れた法印

 持宝院の先祖は江戸聖坂に住み、「祈願檀家には旗本衆多く」と学問所を開いていたと伝えられます。末裔の大久保境南は武野八景や小金井桜樹碑の碑文を著しています。清水の老人集会所入り口にモニュメントが設けられています。(2014.03.15.記)

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キョウチクトウの種

 「夾竹桃の咲く頃に」
 「馬鹿な男に夾竹桃の・・・」
と、なじみの花です。さて、種となるといかがですか?

 「なかなか咲かない」
 「滅多に見られない」
で、生まれてこれまで○○年(余り突っ込まない)お目にかかれませんでした。
 それが、ヒョッコリ、2014年3月11日、東京都薬用植物園(小平市)で対面できました。
 一株の一枝だけ。几帳面な愛好家が確か2年~3年目と教えてくれました。

 花の後の実は? その実からどのようにして種が?
 疑問だらけ・・・。今年のテーマになりそうです。

 さて、冠毛つけて、どこへ飛んで行くのでしょう!!
 「友情」「恵まれた人」と「用心」「危険」が同居する花。
 どっかで、自生してくれる事を祈るばかり。

キョウチクトウの種
(クリックで大)

(2014.03.13.記)

比翼塚(ひよくづか)

 暫く動物の話が続きました。話題を変えて、明治初年のお話です。高木神社の東側、少し小高くなった丘の上(松こごれ地蔵の奥)に、枯れ草に埋もれるように大小の碑が並んで立っています。宮嶋巌之塚、宮嶋喜与と彫られています。『東大和のよもやまばなし』はこう語ります。

「徳川幕府の終りのころ、宮嶋さんは江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でしたが、新政府となった明治二年宮嶋さんは喜与さんを連れ、奉公人の里、高木村の明楽寺の庫裡に留守番として住みこみました。

 そして、武士の名「鉄右衛門」から巌に改め、かたわら寺子屋を開いて村人に読み書きを教えていました。しかし、この明楽寺に戸長役場が置かれた夏の明治六年八月十五日、病により帰らぬ人となりました。

 たよる夫に先立たれ、なじみの浅い土地で喜与さんは一人とり残されてしまったのです。その後、しばらく戸長役場の用を手伝っていた喜与さんは、宮嶋さんの百ヵ日が過ぎた十一月二十六日、ひっそりと夫のもとに旅立っていきました。

 その最後はさすがに元武士の妻、乱れぬようにひざをひもで縛り、短刀で命を絶ったということです。」(p211~212)

比翼塚

 塚は、ゆかりの人々によって造られました。御一新により、江戸詰をしていた大名はそれぞれの本拠である「藩」に戻りました。所領が激減した徳川家に仕えていた幕臣の身の振り方は大変でした。駿府に戻れた人はともかく、戻れなかった人は、生活の基盤を失い、江戸の町で苦労を重ねたことが伝えられます。

 そのような中、宮嶋さんは、つてを頼って明楽寺に居を構えたのでしょう。別の資料では、遠山左衛門尉家口鉄右衛門、復飾の上神官となるとしています。つつましく寄りそうようにある碑は、一つの時代の象徴のように思えます。

(2014.03.11.記)

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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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