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きつねの恩返し

 大雪の跡がまだ消えません。残雪の整理に、足腰、腕・手首、肩・背中・・・そこら中サロンパスだらけです。
 ようよう、車だけはすれ違えるようにしました。「疲れた、疲れた」とコタツでぼやいていると、「そうだ、あれも、たしか雪の日だった」思い出したのが、この話です。

 「貯水池になってしまった村に宅部という所がありました。今は、下貯水池の第二取水塔のあたりに原さんの家がありました。

 当時はきつねやたぬきなど、この山にはたくさんいたので、きつねとりという商売の人がいました。 山ふところにあった原さんの家に親子のきつねが遊びにくるようになりました。冬の寒い日にはいろり端にきてあたっていくほどになりました。だんだん可愛くなった家の者はきつねとりに撃たれないかと心配していました。

 ある雪の日、いつものように、いろり端に座っているきつねをみたおばあさんは、「きつねとりがくるからいいかげんで身を引いておくれ」と頼みました。きつねはわかったのか雪の中を親子で出ていってしまいました。それきり姿は見せませんでした。

 山里の部落に大火事がありました。上の方から出た火で三光院も焼けてしまったのですが、幸にも原さんの家は焼けずに残りました。おばあさんは「これはきっときつねが守ってくれたのだ。きつねのおかげじゃ」と言って喜びました。

 この話は、原さんが小さい頃おばあさんから伝え聞いた話なのですが、貯水池から清水に移転した時、いろりのあったところにきつねの大きな穴があったそうです。今でも家の裏に稲荷様を祀っておられます。」(『東大和のよもやまばなし』p179)
下貯水池の村跡
湖底の宅部川

 三光院の火事は弘化3年(1846)2月2日でした。湖底の村に家の建つところはそう広くなく、宅部川を中にして、狭山の峰に挟まれるようにありました。日の落ちるのも早く、動物と過ごす時間も長かったことでしょう。この話を思い出す度に、もしかして、貯水池の森にはまだこの狐の子孫が居るかも知れないと、愛しくなります。(2014.02.26.記)

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村ができた

村ができた(テスト中)

1590年(天正18)6月から7月にかけて、秀吉軍の攻撃により、東大和周辺の統治者・北条氏照の居城である八王子城、その本拠の小田原城が相次いで開城し、後北条氏は滅びました。8月、家康が関東に移り、江戸を本拠とすることになりました。
 翌・1591年(天正19)5月のことです。まだ、東北での戦乱が続く中、早々と家康の家臣が狭山丘陵周辺に配属されてきました。東大和市域には酒井実明が来ました。しかも、芋窪村(いもくぼ)350石、高木村70石と知行高が決められていました。

 残念ですが、郷土の歴史を調べていて、中世の段階でこのような村があったとの記録に出会っていません。どのような村があったのかもはっきりしません。狭山丘陵の谷筋に、石川、内堀、後ヶ谷(うしろがや)、上宅部(かみやけべ)などと呼ばれる集落があったことは追うことが出来ます。そこで、これらの集落が一定の区域で集約されて、下記の図のように近世の村がつくられたと考える次第です。
 
村切図
(クリックで大)

 東大和市域には、当初、「芋窪村」「奈良橋村」「高木村」「後ヶ谷村」「清水村」の5つの村が並び、日常的な生活圏は狭山丘陵南麓に限定されて、前面には一面に武蔵野の原野が広がっていたと推定しています。(2014.02.23.記)

 
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東大和市の近世(江戸時代)

東大和市の近世(江戸時代)(テスト中)

東大和市の江戸時代

2014年2月23日 村ができた を追加しました。
東大和市の最初の村です。


  東大和市は狭山丘陵の南麓に広がるまちです。
 旧石器時代から人の住んでいた形跡がありますが、本格的に村としてまとまったのは江戸時代と考えられます。
 その頃からの様子を追ってみます。 

徳川家康の家臣がきた(1591年)    村ができた(1591年)   

青梅橋はいつ架けられた(1655年)  

高木の笠森稲荷(1764)     
青梅橋の移り変わりを見守った庚申塔(1776年)  
江戸時代の旅・武野遊草の世界(1795年)    

地頭の乱行と箱訴(1819年)  
御嶽菅笠の青梅橋(1834)
青梅橋・瘡守稲荷の額と正月(1837)   
狐塚(1868)
(2014.02.22.記)

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徳川家康の家臣が来た

 東大和市周辺の中世・江戸初期の状況

 この時代のことを調べると、ビックリすることばかりです。
 1590年(天正18)、豊臣秀吉は石垣山で小田原城を眼下に見ながら、徳川家康に三河から関東への転封を告げます。
 同年6月、秀吉指揮下の前田利家軍他が八王子城を開城します。ついに、7月、後北条氏は小田原城を開城しました。

 そこからが凄いです。
 徳川家康は三河に帰ることなく、武蔵や相模の支配の準備に入ったようで、
 早くも、幕府を開く前、1591年5月には、狭山丘陵周辺に直属の家臣を配置してきました。
狭山丘陵中世の郷 
(クリックで大)

 当時、東大和市域では、狭山丘陵の谷筋(谷ッ)に、人々は小規模の集落をつくって散在していたと思われます。豊鹿島神社本殿の棟札に「奈良橋郷」(ならはしごう)、正福寺地蔵堂(東村山市)の棟札に「宅部郷」(やけべごう)と書かれており、広域の地域名でくくられていたと考えられます。

 そこへ、派遣された家臣には、なんと「芋窪村」(いもくぼむら)と「高木村」が与えられました。大急ぎで村をつくったようです。高校時代に学んだ「村切」(むらぎり)です。(2014.02.22.記)

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三本足のきつね

 大雪が続いて、孤立集落の報道がされています。東大和市にも、まだまだ、野生の動物が身の回りに見られて、生活圏をともにしていた時がありました。意外に、そう遠くなく、大正(1912~1925)の初めとされます。

 「大正の頃、まだこのあたりには猟師がいて狐や雉をうっていました。
 芋窪の山に猟師が仕掛けた爆弾で、前足をやられた三本足のきつねがおりました。ほとんど人前に姿を見せないきつねも、三本足では神通力も思うようにきかないのか、化かすこともなく村人は時々その姿を見かけることがありましたが「三本足のきつね」といって気味悪がっていました。けれどとても利口なきつねでした。

 ある大雪の時、青梅橋の鉄砲うちの名人がこの三本足のきつねを見つけて追っかけました。その逃げ足の早いこと、そして逃げながら、大きなしっぽで雪の上の足跡を消して行ったのです。でも必死に原山まで逃げたのですが、とうとううたれてしまったそうです。」 (『東大和のよもやまばなし』p181)
雪の桜街道
雪の桜街道
三本足のきつねはこのあたりを
原山(武蔵村山市)まで逃げたのでしょうか?
(2013.02.19.記)


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おしゃぶき様

 村にお医者様が居なかったか一般的ではなかった頃と思われます。お願い事をして、それが叶うとお返しをする、お願いと祈りの対象がありました。権威ある神社から辻のおやしろまで、沢山ある中で、東大和市蔵敷に伝わる「おしゃぶき様」を紹介します。
おしゃぶき様村山橋
(クリックで大)
 青梅街道・村山橋のたもとに道路から
石の渡り橋を付けてまつられています。
 『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。
 
 「昔、医療施設の乏しかった頃、どこの村にも疫病に効くと言う地蔵菩薩などが祀られていました。 蔵敷の村山橋のたもと、青梅街道沿いに「おしゃぶき様」と呼ばれているお社(ご神体は分らない)があり、かぜや百日咳、口むき(ジフテリァ)に霊験があるとして、病気平癒を祈願する子供連れの主婦やお年寄り達の参詣が多かったといいます。

 祈願して病気が治ると、お礼におしゃもじを供えます。願かけをする人はこのおしゃもじを借りてきて、これでご飯をすくって食べさせるとたちどころに病気が治るといいます。

 すっかり良くなると、お礼に、借りたおしゃもじの他に新しいものとお賽銭を添えて供えます。
 昔、くちなしで作ったふくべ(腰下げ)が下って居たのを見た人もいます。

 九月には祭礼も行われ、露店が並び、十軒位の組合で寄付を集めて神楽を招き、テクレンテクレンと賑やかでしたが、もう五十数年やっていないそうです。

 青梅街道が整備されたとき、お社は取りこわされ、街道の南側に現在のような小さなお宮になりました。
 最近は、伝染病も少なく、お医者にかかるので参詣する人もいないのでは、と思いましたがまだ新しいものも含めて、五、六本のおしゃもじが供えてありました。」(『東大和のよもやまばなし』p37)

おしゃぶき様

 2010年12月6日、お参りしたときには、左側に稲荷、右側におしゃぶき様がまつられ、横にしゃもじが一つ奉納されていました。
 お稲荷様には油揚げ、おしゃぶき様には水とお米が供えられていました。青梅街道から小さな石橋がかけられ、村人達の気持ちを今に伝えます。(2014.02.16.記)

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弘法大師の井戸

  狭山丘陵周辺の井戸伝承に、デエダラボッチとは違った、弘法大師による恵みの井戸があります。
デイダラボッチ井戸位置図
(クリックすると大)

1所沢市 弘法の三ツ井戸(西所沢一丁目)

 「所沢は昔から水が不便な場所として知られ、近隣の村では「所沢へは娘を嫁にやるな」といわれるほどでした。
 真夏のある日、ひとりの僧が百姓家を訪ね、水を一杯所望しました。水を汲みに行ったその家の娘はなかなか戻らず、訳をたずねる僧に、娘は、このあたりが昔から水に不便なこと、井戸まで遠くて苦労していることを語りました。

 それを聞いた僧は、立ち去る前に娘に三つの場所を指し示し、そこに井戸を掘るようにと言い残していきました。
 半信半疑ながら村人がその場所を掘ると、深く掘ることもなく清らかな水がこんこんと湧き出したのです。夏でも洞れることのないその井戸を、村人たちは「三つ井戸」と呼び、そして誰言うともなくあの僧は弘法大師だという話が広まったのでした。」(ところざわ歴史物語p162)

2青梅市 男井戸女井戸(大柳町)

 「むかし、弘法大師は諸国を巡行されていた。ある日、大柳にさしかかられた時、大師はひどくのどがかわいた。見ると、そばに一軒の農家があった。庭では、百姓の夫婦がせっせとムシロに粟を干している。

「もし、旅の者だがひどくのどがかわいてこまっております。水をいっぱいくださらんか」
「へえ、そりゃきのどくだ。ちょっくらまっててくだせえまし」

 百姓の夫婦は、家の裏にあった手桶をひとつ持つと、ふたりそろって下の畑の方へおりていった。
 だが、ふたりはなかなか帰ってこなかった。かなりたって、ふたりでひとつの手桶をさげ、ひたいに玉の汗をうかべながらもどってきた。
「さあさあ、くみたての水だ。たくさん飲んでくだせえ」

 おかみさんは、ハアハア肩で息をしながらヒシャクをさし出した。
「もし、お前さん方、ずいぶんひまがかかったようだが、どこから水をくんできなされた」
「へえ、このへんにゃ井戸がないから、崖を下りて川までいってきましただ。なにしろ坂がきついもんで、おっ母(かあ)ひとりにやらせるのは、かわいそうでな」
 おやじは、やさしくおかみさんを見ている。

「そうだったのか。わざわざわしのために……」
 大師は、やさしい夫婦の心に感動した。そして、畑のすみへいくと、もっていた杖をスポリと土につき立てた。
 すると、ホコホコと澄んだ水が湧き出した。そのそばにもう1か所スポリと杖をつき立てると、そこからもホコホコと……。

「男の井戸と女の井戸じゃ。これからも仲よく暮らしなされ」
 大師は、そういうと、どこへともなく立ち去っていったという。」 (青梅を歩く本p109)
 
男井戸女井戸
中央石垣の前に男井戸女井戸がある
男井戸女井戸2

3武蔵村山市 丸山の井戸(中藤)

◎『東大和のよもやまばなし』は先に紹介したデエダラボッチの井戸に加えて、次のように伝えます。

 「むかしこの辺りに住む娘さんが、空腹のため疲労しきった一人の僧形の旅人を見つけました。娘は気の毒に思って、お腹の足しにと芋の煮物を差し出しました。坊さんは大変喜んで、おいしそうに食べました。そして、

 「ぜひお礼をしたいから困っている事があったら言ってごらん」
 といいました。娘は
 「村には井戸がなく人々は水不足に悩んでいます。」
 と訴えました。

 坊さんは娘の真剣な願いを汲んで、持っていた錫杖を地中にさし、ここを掘るようにと言い置いて立ち去りました。後姿に手を合わせ、急いで掘ってみるとそこからは、きれいな水が渾々と湧き出てきたのでした。
 娘のやさしい心根に、願いを叶えてくれた坊さんこそ、弘法大師だったのです。」
(東大和のよもやま話 p186~188)

◎武蔵村山市では、さらに地理的関係が明確になって、次のように伝えています。

 「旅の僧(弘法様)が民家を訪ねて水を所望した。するとその家では僧に水をあげることを断わった。別の家で水をもらった弘法様は「道(青梅街道より南は、水出るな」といったという。それ以来、青梅街道の南側ではどんなに、井戸を掘っても水の出がよくないという。」(武蔵村山市史民族編p688)

◎淡々と3つの伝承を並べてみました。デエダラボッチが丘陵のハケの井戸に集中するのに対して、弘法大師の井戸は少し丘陵を離れた地域に語られています。様々な要因を網羅して、昔ばなし、よもやま話などを産みだし、伝えてきた先人の采配ぶりに感じ入ります。
◎弘法大師様は狭山丘陵周辺までおいでになったの?との子どもさんの質問には窮します。
◎それにつけても、なぜ、丸山の井戸では、デエダラボッチと弘法大師が重なるのでしょうか? (2014.02.13.記)

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デンドロの井戸(だいだらぼっち)

だいだらぼっち
 「これって、誰?」
 「ヤー、お久しぶり・・・」
 
 思わずビックリする像ですが、「大多羅法師」(だいだらほうし)の巨大な頭部です。このユーモラスな巨人法師「だいだらぼっち」が狭山丘陵の丸山・向山をつくり、また、わが内堀(村山下貯水池に沈んだ)の「デンドロの井戸」を掘った主人公です。村山上貯水池の北側、所沢市に接する慶性門の裏山に置かれています。
だいだらぼっち2

 案内板には次のように記されています。

 「大多羅法師は関東を中心として東日本一円に伝えられる大巨人のことです。
 湧き水出現にまつわる水神信仰と深い関係があります。
 藤ヅルでこしらえた籠で土を運んでいた時、ツルが切れて落ちて出来たのが富士山で足を滑らせたときはねあげた土が伊豆七島になったとかスケールの大きな話が多くあります。

 多摩湖周辺にも大多羅法師の話は多く、武蔵村山市の丸山にある井戸は足跡と云われ、向山は富士山と同様藤ヅルの籠からこぼれ落ちて出来た山といわれています。また、湖底の村・内堀にも伝わっており、「デンドロの井戸」と呼ばれ、水が涸れたことがなかったと云われています。(後略)」

◎「デンドロの井戸」の周囲には大欅が立ち並び、通称「源氏」・「縄大尽」と云われる家であったとします。
 これは、武蔵村山市に伝わるダイダラボッチの井戸の伝承の一環と思われます。本拠である武蔵村山市内では、神明ヶ谷戸~入り~赤堀~岸と狭山丘陵南麓の谷を縫うようにダイダラボッチの伝承が語られ、「地下水脈などと関係があるのかもしれない」とされています。内堀もまさにそのライン上にあり、一体をなすものと考えます。
入りのだいだらの井戸
武蔵村山市「入り」のダイダラボッチ井戸

 ダイダラボッチは東大和市内では次のように伝わります。

 「大昔、狭山の山に「大平法師(だいだらぼっち)」という大力無双の大男が棲んでいました。
 ある時、だいだらぼっち、藤つるで山をしょって、のっしのっしと歩いてきました。ところが藤つるがプッツリと切れて、背中の山を落してしまいました。切れた藤つるは北の方角に投げ出され、それ以後、北には藤が生えても、南には一本も生えなくなったということです。

 不意をつかれただいだらぼっちが、ぐっとふんばった両足の跡が大きな穴になり、水が湧き出て井戸になりました。かんばつの時も涸れることなく、人々は感謝して「でいだらの井戸」と名づけました。もう一つのでいだらの井戸は中藤の赤堀にあります。

 平らだった原に突然出来上った山を、丸山、或は向山とよんでいました。丸山は何年か前に削り取られて姿を消し、今では幻の山となりました。水道が敷かれる前までは、ひでりの時など芋窪の人々も二斗樽を天坪で担いだり、リヤカーに四斗樽を積んだりして水を汲みに行ったそうです。そんな時は水を求める人達で長蛇の列ができたということです。」

◎大多羅法師は、ヒョウキンで、大きな下駄をはいて歩いたようです。立川市に次の伝承があります。

 富士塚と弁天池

 むかし。
 でえだらぼうが、でっけえ下駄をはいて、あるいてきた。
 富士見町のあたりまできたとき、下駄のはに、土がつまってしまった。
 でえだらぼうは、足をふるって、土をおっこどした。その落ちた土が、
 一丁目の富士塚だということだ。
 土を持っていかれたほうは、池になった。それが、三丁目のがけの下の、弁天池だそうだ。(立川のむかし話p57)

◎だいだら法師は多摩川の縁から立川市内を通って、狭山丘陵へと歩いて来たようです。さて、それからどこへ行ったのでしょう? 
 時に、丸山の井戸には、もう一つの伝承である弘法大師の井戸が重なります。次に続けます。

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2014年初雪 東大和市

2014年2月4日午後、東大和市に初雪が降りました。
道に積もるほどではありませんでしたが、一時的に、大雪でした。
記録のために撮影に出かけました。

雪のヤオコー
立野三丁目 ヤオコー前
いつもより早い照明が寄り道の気分を誘います。

雪の東大和南公園2
(クリックで大)
桜が丘二丁目 東京都立東大和南公園
さすがに散歩の姿はなく、帰途を急ぐ傘に綿のように積もります。

雪中のトレーニング
都立東大和南公園トラック 若者には、ビッグプレゼント。
トレーニングはいつもより賑やかに続けられていました。

雪のロウバイ
都立東大和南公園のロウバイ 
狭山丘陵北麓では開花と聞きましたが、ここでは、まだ蕾です。

雪のモノレール
桜が丘四丁目 多摩都市モノレール玉川上水駅付近
速度を落とした窓からの明かりが、帰宅の時間を告げました。
(2014.02.05.記)


「鹿島様の要石(かなめいし)」

 
 東大和市がまだ海の底だったと云う頃のお話しです。
 芋窪に「豊鹿島神社」(とよかしまじんじゃ)があります。江戸時代までは鹿島大明神と呼ばれました。慶雲4年(707)鎮座と伝えられます。現在の本殿は文正元年(1466)の棟札をもつ、都内最古の室町建築物です。東京都有形文化財(建築物)として指定されています。徳川家光による十三石の朱印状を有しています。この神社に伝わるのが「要石」の伝承です。


要石位置図

 大むかし、鹿島大明神の社地は丘陵から南に1万3千坪(4万3千平方メートル)あまりの広大なものでした。その頃は、武蔵野の原が渺々と広がって、その中に塚となって要石はありました。現在は、村山貯水池の建設に伴って移転した蓮華寺に隣接して、こんもりと木立にかこまれた一隅をなしています。鳥居の奥に小さな祠が祀られてて、その祠の前に、表面には高さ20センチ、根まわり2メートルほどの山型の自然石が頭をのぞかせています。これが「鹿島さまの要石」です。『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。
 
要石 
(クリックで大)

 「大きな石であったため、耕作のさまたげになっていました。ある時、村人たちが大勢集って相談をし、この石をとりのぞくことになりました。ところが掘っても掘っても根深く、地下にいくほど大きくてどうしても掘り出すことができませんでした。それ以来、誰言うとなくこの石のことを「要石」というようになったということです。

 この要石には虫占いのいいつたえがあります。石のかたわらを掘って、出てきた虫の数によって、授かる子供の有無や数を占いました。一ぴき出たら一人、二ひきなら二人というように、虫の数と同じだけ子宝に恵まれるというのです。死んだ虫が出ると大凶で、子供の死を暗示するというので、人々は真剣な気持で占ったといいます。

 要石のそばに、昭和のはじめまで、大きなもみそ(もみの木)が高くそびえて枝をひろげ、かなり遠くからもよく見えました。五十年ほど前に、このもみそを伐り倒したところ、その年、大変な雹(ひょう)の被害に見舞われました。人々は恐しがって「これはきっと要石のたたりにちがいない」と口々にうわさをし合ったそうです。

 また、大古の昔このあたりが海だったころ、建御雷命(たけみかずちのみこと)が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという伝説もあります。」(『東大和のよもやまばなし』 p200 2014.02.02.)
 
 2に続く
 
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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