あじ味噌の友情

 12月1日、妻が入院して間もなくの日

「奥様が入院されたそうで・・・?」
 あれこれ容態の報告がすむと
「なんと言っても、頼りになるのがご主人。
 何もかも大変でしょうが、まず、健康に気をつけて」

 と云って、お菓子の袋を置いて行かれた。
 重いのでお菓子を取り出してみると
 その下に入っていたのが、手作りのあじ味噌

味味噌の友情 
かねて評判の様々な素材が溶け込んだ独特の風味と深い味

にわか独居老人はご飯だけは炊けるようになっても
さて、おかずとなるとバンザイ。まして野菜は!!

スライサーなるものを買ってきて
手当たり次第の野菜を薄切りにして、生のまま、この味噌で堪能。
約一ヶ月、食欲の減退もなく
脚気にならずに収まっているのは
この味噌のおかげ。

友の情のありがたさが、日々、胸に迫ります。
 

入院中のクリスマス

「主治医さんと看護師さんがサンタになって、
まわってくださったの・・・」
 入院中の妻は感極まっている。
 
 ともすれば、落ち込みがちな入院患者にとって
 医師と看護師は何を置いてもの存在
 謹厳な医師の微笑みに、人のぬくもりをじかに感じたようです。

クリスマスカード 
そして、もう一面のメッセージ欄には

クリスマスカードメッセージ 
「この病院で良かったわ」
病院は変わろうとしています。(2013.12.25.)

取説

取説

妻が交通事故に遭って、入院騒ぎ。急遽、独居老人になりました。
否応なしにやってくるのが、炊事・洗濯。
丁度良い機会だから、一通りマスターしようと、
負けん気で、取りかかりましたが、
先ずは、電気釜、電気洗濯機の取説に首っ引き。
その解りにくいこと。

メーカさんにお願いです。
どんどん進む高齢化社会、ますます増える独居老人
トリセツはイラスト漫画と矢印で
数字の所はルーペで拡大して
ホイ・ホイと、いつの間にか解るようにして下さい。

道路標識 
道案内だってこんなに解りやすくなっています。

狐 塚

 
 東大和市に、狐塚(きつねづか)がありました。調べてみると、なんと、多摩都市モノレール・桜街道駅のところです。ここで、今では信じられない騒動が起こりました。明治維新寸前の慶応 4年(1868)4月16日のことです。少し長くなりますが、お付き合い下さい。
 
桜街道駅
狐塚があったところ
多摩都市モノレール桜街道駅・芋窪街道と桜街道の交差部
             
 当日は晴れ、午前10時頃です。芋久保村の弥五兵衛と儀兵衛が田無村へと出かけました。青梅橋を渡って小川村へ入ります。人家はなく、野中の往来でした。そこで、二人の男に出会いました。ひとりは大小・袴を着用、もうひとりは脇差を帯びています。呼び止められて、いきなり

 「金子を差出せ」
 ことによったら、斬り殺されるかも知れない気配です。仕方なく、所持金10両余を差し出しました。
 しかし、大金です。このままでは済まされません。芋窪村の二人は様子を見ながら、青梅橋の茶店まで戻ります。

 店の中を見ると、さっきの二人が休んでいます。弥五兵衛は、これこれしかじかと、いきさつを茶屋の主へ話し、すぐさま、芋窪村へとって返して、身内や村役に知らせました。

 芋窪村の村人達は、直ちに、早鐘・竹洞を吹き立てました。それを聞いた隣村、最寄の村々から多くの村人達が青梅橋の茶店へと押出しました。
 店の主に聞くと、
 「往還 西ノ方へで向いた」
 とのことです。

 大勢のもの共はよしとばかり、追いかけます。三ッ木村の残堀裏で追いつきました。
 両人へ掛け合ったところ、申し訳ないとのことで、奪い取られた金子を取りもどしました。そして、大小・脇差を共に取上げて、芋窪村と蔵敷村の地境である、狐塚へ引き据えたのです。

 「打首にする、覚悟をせい」
 と申し聞かせると   
 「是悲なき次第につき、あい任せる。ついては、酒を頂戴したい」
 と申します。そこで、青梅橋から酒1升を取寄せ、差し出しました。両人で、呑み終ると、袴着用の方が謡をうたい、
 「最早、覚語よろしい」
 と云いましたので、彼が差していた刀で、砂川村の材右衛門が首を打落し、脇差を帯びた壱人は芋久保村の銀蔵が首を切りました。そして、上着を剥ぎ取り、その場へ埋めました。

 周囲を砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷の5ヶ村、人数、およそ5~6百人もが相い集り、取り巻いて居りました。
 [目覚敷い事]です。
狐塚のコピー 
(クリックで大)
 芋窪村の名主が代官の江川太郎左衛門に報告した文書を意訳しました。原文の趣旨を逸しないようにしたため、読みにくいところはお許し下さい。何気なく利用していた駅の前に立って、この出来事を思うと、居たたまれなくなります。慶応4年という特殊な時代の特殊な光景なのでしょうが、時代の重さを感じます。最後の「めざましいことです」 の言葉も気に懸かります。

 この文書、次のような結びになっています。
 
 「右の始末に候えども、御支配、御役所へは引違ひ、芋久保役人より訴出る
  右は五ヶ村役人立会 決評の上 取り計い候也」
  一部始終を書き上げて、砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷村の村役人が揃って合意した上で、提出したようです。その背景に何かが眠っているようです。
 次回に続けます。(出所 明治元年里正日誌 三冊上)

狐 塚 その2

狐 塚 その2 

 前回は、
・江戸と明治が入れ替わる直前の慶応 4年(1868)閏4月16日、
・青梅橋を過ぎて間もなくの小川村で、
・芋窪村の村人二人が強盗に遭遇して、金品を奪われた。
・二人は村に引き返し、事の次第を告げると
・村人達が出動し、早鐘・竹洞を吹き立てて追いかけた。
・加えて、隣村、最寄の村々から多くの村人達が加勢に駆けつけ、
・三ツ木村(現・武蔵村山市)残堀裏で追いついて、とらえた。
・強盗は覚悟し、最後の酒を所望して謡を謡った。
・砂川村と芋窪村の村人が二人を打ち首にして、狐塚に埋めた。

 との一部始終を芋窪村の名主が代官所に書き出した文書を紹介しました。
 その際、「周囲を砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷の5ヶ村、人数、およそ5~6百人もが相い集り、取り巻いて居りました。 めざましい事です。」 と、付記されていました。

独特の背景

 時代の変わり目とはこんなもの、と云ってしまえば、
 それまでですが、妙に引っかかるものがあります。
 慶応4年と云えば
 4月
・13日、彰義隊の一部が八王子に入る
・21日、東征軍が江戸城へ入る
・22日、江戸市中取り締まりを江戸町奉行に委託
・25日、近藤勇板橋で処刑される

 そして、閏4月に入ります。
・1日、江藤新平などが、徳川慶喜の処分を終了して江戸に入ります、
・16日、新政府が旧幕府代官に対して、関東取締役出役を通じて治安維持を指示
・27日、政体書が交付されて、全国が府、藩、県に分けられ、地方支配機構が定まった月です。9月8日、明治改元の5ヶ月前です。
 その最中に、多摩の一角でこの事件が起こっています。
 相当の混乱が続く時期ですが、村人達の自主防衛で、強盗を打ち首にすることが出来たのだろうかと疑問が生まれてきます。
 その謎解きに役立ちそうな文書がありました。
 
実は農兵が絡んで居た

 四月十八日盗賊打殺之儀ニ付 芋久保村より届書
「強盗斬首」
 恐れながら、書付をもって御訴申上奉ります。

 芋久保村の役人総代の名主・五郎左衛門が申し上げます。
 近頃、物騒なので、かねてから、御触が出されており、御出役様が御廻村もなされるほどです。
 そこで、十六日朝十時頃、村方の農兵が人足を引き連れ御出役様がお泊まりになっている田無村の御旅宿へ向かいました。
 その途中、小川村の少々久保原で強盗二人に遭遇しました。
 内壱人は24~5才、他の一人は20才ぐらいに見えました。
 農兵並びに人足に対して、懐中のものを渡すように、刀を抜いて襲ってきました。
 驚いておりますと、追々、(村人達が)駆けつけ、盗賊両人を打ち倒し盗賊の抜いた刀は大勢で踏み折りました。
 このことを御訴え申し上げようとしている内に、両人は果てました。

 名前、住所など穿鑿(せんさく)しましたが、手がかりが無く、知ることが出来ません。
 そのことを御出役様へ御訴え申し上げようとしましたが、すでに、江戸へお帰りのことでしたので、
 死骸並びに踏み折った刀はそのまま仮埋をしました。
 とりあえずこのことを御訴え申し上げます。
 
            武州多摩郡芋久保村
                     役人惣代名主

     江川太郎左衛門様
               御役所

 この文書に対し、
 「賊二人ハ斬首致シ候得共 御代官ノ差図モ受ケサレハ、如何ヤト存シ、賊相果タル旨ニ届書ヲ草案シテ差出サシム」
 との付記が残されています。
 
青梅橋庚申塔2
現在の青梅橋
この庚申塔は事件の経過を実際に見たはずです

代官と農兵と名主

今回紹介する文書からは、農兵が職務で田無村に赴いたことがわかります。しかも、関東取締出役の宿泊先です。どうも単なる村人が強盗に遭遇した事件ではなさそうです。農兵の職務は何だったのか? 農兵の統括もとである代官・江川家とどのような関わりを持っていたのか? 
 その上、名主は斬首に対して「御代官ノ差図モ受ケサレハ、如何ヤト存シ」と、代官との関係を危惧しています。疑問がつきません。
 そして、何より奇妙なのは、最初に紹介した文書と今回の文書の内容の違いです。
 そこには「農兵」の言葉は一切なく、強盗の酒の要望や謡、近隣五村の「5~6百人もが相い集り」「五ヶ村役人立会 決評の上 取り計い候也」などが加えられています。

 隣村・中藤村の指田氏は、その閏4月の日記に「17日、青梅橋と小川の間にて、芋久保村の縞買い、追剥に出会い、この日、この辺の農兵の者、仕度(したく)いたし、出たる所なれば、追いかけ、絡め捕りて、蔵敷前の神送塚にて、砂川村と芋久保村の人、首を切りそこに埋む」
 と記しています。これが、真相であったように思えます。

 今回紹介した文書は事件の原文で、芋久保村の縞買い=農兵の関係にあったとも考えられます。そこから、農兵の出動があり、数百人の村人が集まる事態になったのではないでしょうか。また、人生の最後に謡を謡う強盗の正体は何だったのでしょうか?
 それを含め、何らかの理由で、「農兵の行動」を「一般の農民」に置き換えて、新たに文書を作ったものと推察します。なぜ、そのようにしたのか、知りたいですが、残念ながら不明です。明治4年4月から閏4月にかけての多摩の独特の空気を感じます。

 明治新体制を目前に、村には物騒な状況があり、一方で、自衛力が高まり、緊急対応をした。その処理について、村役人はこれまでの代官役所と新政府への対応に様々に思慮を廻らし、巧みな技で切り抜けた、一種の自立の知恵であったと思う次第です。
 東大和市周辺の農兵については、ブロ友の「幕末多摩・ひがしやまと」
 http://mikemiketenko.blog.fc2.com/が詳しく紹介しています。
 (参考 里正日誌第十巻p77~78 )(2013年12月16日記)
 


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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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