FC2ブログ

大正七年の狭山めぐり2

元弘の板碑

 大正7年(1918)9月、狭山丘陵の史跡を廻って旅する高山氏は、早朝に所沢宿を出立して、長久寺~勢揃橋~八国山と歩を進めてきました。いずれも元弘の乱に関わる史跡です。そして、おそらく、今回の旅のテーマの主要な一つであろう「元弘の板碑」をめざして、所蔵する徳蔵寺(東村山市)を訪れます。
87年将軍塚周辺
1987年の八国山・将軍塚遠望

 高山氏は八国山から直接、画像の裾野の小径を歩かれたと思われますが、徳蔵寺へは、府中街道の久米川辻から入っても、旧鎌倉街道を詰めても、公事道(くうじみち)から来ても、達します。悲田処跡の候補地の一つに接し、古代から中世にかけて中核となる場であったことがうかがえます。
久米川辻
府中街道の久米川辻
旧鎌倉街道立川家から徳蔵寺
旧鎌倉街道立川家門前から徳蔵寺方向
板碑保存館
最初に目に入る徳蔵寺板碑保存館
徳蔵寺本堂
徳蔵寺本堂 

 この本堂左脇に、かって板碑をまつっていた永春庵が移されています。板碑は江戸時代には「境内の奥竹藪の内」(新編武藏風土記稿)、高山氏の訪ねたときには、庭に建てられていたようです。高山氏は次のように記します。

「東村山字野口の徳蔵寺は臨濟派門の禅寺である。本堂と向き合つて庭の隅に、六百年の風露に咽せんで、しかも無造作に元弘の碑は立てられて居る。青楓の枝が大正七年九月十二日午前十時頃の照り付し光りを遮つて、安らかに眠れよと差しかかつて居る。一面の青苔に夢のように文字が浮いて居る。飽間齋藤三郎、藤原盛貞生年廿六、於武州府中五月十五日打死外に二人の名があつて相州村岡で討死の事が記してある。

長さ五尺、碑面三尺五寸、横幅一尺五寸、厚さ三寸程のこの古碑が、ゆくりなくも時の流れを押し戻して、小手指、久米、分陪と瞬時に転回して稲村ヶ崎の汐干潟をも、夢見るように頭に浮ぶ。
 捷戦(がちいくさ)と知つてであらうか? 否、知らないでも!。
 御大將と頼む義貞でさへ、短い夢にやがては自匁の屍を野邊に晒したではないか。古来の一句

万里雲尽きて、長江水清しである。喝!」
元弘板碑風土記稿 
元弘の板碑(新編武藏風土記稿)
 執筆・勧進した二人の僧が長久寺の僧とされます。

元弘の変図
 (クリックで大)

 元弘の変は掘兼~久米川~分倍河原周辺で一進一退の複雑な戦いを示し、5月16日以降、一挙に幕府軍は鎌倉へと撤退します。板碑はこの間に行われた合戦と戦死者を明確に刻み、国の重要文化財に指定されています。高山氏の心の高ぶりが、そのまま伝わりますが、お昼近くになり、心せいたのでしょうか

  「七百年の夢路を辿る旅人を見付た住僧は
  「まあ、お茶など」

  と勧めるのを、狭山めぐりの道順を聞いて、すぐそこだと云ふ千体地蔵の正福寺迄、寺男を案内として呉れた。・・・」

  として、お茶も飲まずに、国宝の地蔵堂を持つ正福寺へと向かいました。
正福寺山門と地蔵堂

 「正福寺の門前で別れて、箒目清々しい境内に入る、杉の大木を右に、茅茸古めかしい地藏堂は秋天一碧を劃して楼層構えに聳えて居る。円覚寺の舎利殿と同じ様式である。時宗の建立だと伝えられるのも無理はない、など感心しながら、カメラに撮る、

 庫裡に住僧を訪ふて腰掛け乍ら語る、本堂の焼失は一切の記録を灰燼して、一木一石の由諸の語るべきを有せない、只僅かに千体地蔵堂のみが千古に語るべき尊き御姿を扉深く、座すのみである。・・・
正福寺地蔵堂

 赤錆(あかさび)た錠をガチャリと開けて住僧は、先ず、と清ずる、蝙蝠(こうもり)飛ぶ堂内に慈顔金色の尊像は夥しい小仏左右に待らして御堂の内の扉張の尊く拝まれた、格子窓洩るる光は御來光の様に古柱に反射して自然の力の浸染を見せで居る。

 開基は時頼か時宗か、開山塔を謁すれば石渓心月禅師とある。」

 短文の中にリアルに雰囲気が描かれます。地蔵堂が国宝に指定されたのは、昭和4年(1929)7月1日でした。高山氏が訪れた当時は、屋根も茅葺きで、現在のようにそりはなく、明治44年から無住の時代が続いていました。「庫裡に住僧を訪ふ・・・」とありますから、新しく赴任された僧と面談したことになります。
正福寺地蔵堂内部

 地像堂は、現在、年に一度、秋、堂内が公開されています。木組みもさりながら、願いを込めて小仏を借りだし、願いが叶うと2体3体と納めた、という千体に及ぶ小さな仏の群像は庶民の心がそのまま籠められて、手を合わせます。
正福寺千体地蔵

 地蔵堂の建立は、解体修理(昭和8年・1933~9年・1934)を行った時に発見された棟札から、応永14年(1407)が一つの指標とされます。寺の縁起では、

 「弘安元年(1278)北条時宗が武蔵野で鷹狩りをした。その際、急病になり命が危ぶまれたので、地蔵と観音に祈念した。すると、丸薬を持った僧が現れ、それを服すると時宗は平癒した。近隣を訪ねると小さな堂に千体の延命地蔵がまつられており、時宗は霊感を感じ、地蔵堂を建立した・・・・」

 とします。また、江戸時代の地誌・新編武藏風土記稿は正福寺の開基を時頼、地蔵堂の建立を時宗或いは時頼とします。一方で、武藏名称図絵は寺・地蔵堂共に時頼とします。高山氏は寺の伝承をふまえ、更に、諸誌の記述の違いを吟味して、開山塔の「石渓心月禅師」を確認したのでしょう。

 創建伝承と棟札とには開きがあり、開山塔の石渓心月禅師(仏海禅師)は1253年に亡くなっており、来日していないとされます。謎解きの倍増です。

 高山氏は棟札発見前に訪問しています。おそらく、頭の中で、堂の姿を円覚寺の舎利殿と比べ、創建・開基に関する諸誌の記述の違いを分析しつつ「石渓心月禅師」?と呟きながら、次の目的地、芋窪(東大和市)・豊鹿島神社へと向かったことと思われます。恐るべきデーター整理の達人よと、ただただ、平伏です。

  次へ続く

大正七年の狭山めぐり 1

驚くべき逞しさ

 大正7年(1918)秋のことです。高山湖山氏は「尻からげに洋傘を片手にして、駒下駄」、つまり、靴ではなく、下駄履きで着物か袴(はかま)の裾をまくり、片手にコウモリ傘、片手にカメラを持って、狭山丘陵を旅します。

 その恐るべき足の早さと逞しさは呆れかえるほどで、自分だけにしまって置けず、様子をご紹介する次第です。原文は、大正7年10月20日発行の『武蔵野』第2号に掲載されています。

 9月11日、八王子駅から、中央線(明治39年甲武鉄道→中央線)に乗り、午後6時30分、国分寺駅で川越線(現在の西武線)に乗り換えます。東村山駅で降りたかったらしいのですが、途中下車が許されないので、所沢駅まで来て、「赤切符を見せて埒外(らちがい)に出る」として、所沢の宿に一泊したようです。
大正7年狭山めぐり図

クリックで大
 翌朝早く、まず、「所沢の空、狭しとばかり、うたり吼るプロペラーの響き」「家屋を掠め、森を飛び越え」低空飛行する飛行機にカメラを向けます。しかし、「方三寸のカメラ」で「遂に機を逸し」「空を見上げて立ち尽くし」ます。そのスピードにカメラが応じきれなかったのでしょう。
航空公園
 所沢航空記念公園
 どのようなカメラだったのか興味津々です。現在は所沢航空記念公園としてその存在を知りますが、いかにも大正初期らしい所沢の飛行場の様子が目に浮かびます。狭山めぐりの最初は、久米(所沢市)の長久寺でした。所沢の宿を出て一路南下したと思われます。

 「狭山の東端は赤松美しく群つて、連丘の裾を桑田に課して、桑摘(くわつむ)女の赤い襷(たすき)に、朗らかな里唄(さとうた)」を耳にしながら、長久寺へと向かいます。狭山丘陵周辺が養蚕の最盛期であったことを伝えます。

 「松の一群に前庭苔青き一宇の信院がある。時宗・長久寺である。昔、新田義貞が鎌倉勢と府中分陪河原の合戦に敗れて陣を久米川村にひき、狭山に屯した時、分陪の戦場にで惜しくも討ち死にした一方の大將、飽間齋藤氏の爲めに野草一束に熱き涙を濺(そそ)いて供養した時に頼んだのが此寺の住持であると云うふ事で。何にさま古へを、語る銀杏の大樹もある。苔蒸した憤墓もある、七百年の風霜を昔を今に偲ぶ旅人は、暫しと庫裏を訪へば若き住僧は只一人寂然として机に向つて居た。」
長久寺

 鎌倉街道に沿って、長久寺は、建て替えが進みましたが、全体として素朴に往年の姿をとどめています。元弘年間(1331~34)鎌倉・遊行寺二代・眞教上人の弟子・久阿彌陀佛が住職になったとされます。
一遍上人像
本堂右前に一遍上人像がまつられています

 中世から戦国にかけて、時宗の僧は戦場におもむき、武将達の話し相手となり、戦没者を弔い、同時に、各種の情報提供者として機能したことが伝えられます。高山氏は元弘3年(1333)5月12日に行われ、5月22日には鎌倉幕府が滅びるという大きく戦況が変化した久米川の陣や分倍河原の陣に思いを馳せ、寺を訪れたのでしょう。そのときの戦没者を供養する元弘の碑は国宝となり、その供養はこの寺の関係者によることが銘からわかります。そして、高山氏は

 「近頃の住持で何事もまだ・・・」
 ということで、住持から紹介された近所の物知りに案内を乞うて、元弘の碑のあった八国山に向かいます。麓が久米川合戦の古戦場跡です。
勢揃い橋

 新田義貞が鎌倉攻めに際し軍を勢揃いさせたと伝えられる橋も、バス停でかすかに所在がわかります。付近で鎌倉街道が様々に交差するところでもあります。
背後に八国山が望めます。 

 「そこぞと教へられた痕跡(あとあと)うすき鎌倉古道を、そこか、ここかと辿りつつ、鍬形光る勢揃橋(せいぞろいばし)の板踏み鳴らして、名も嚴めしい八國山(はちこくやま)の裾に着いた。武藏野なればこそ、八國山の名も許されよう。青海原の孤島のやうな狭山は、たとへ北の方遙かに秩父連山が聳えて居ても、丘と名け、山と呼び得るのはこの可憐な狭山である。

 狭山あればこそ八国に帰ゆる富士(駿河)、丹波山(甲斐)、箱根山(伊豆)、大山(相模)、筑波山(常陸)、吾妻山(上野)、日光山(下野)、浅間山(信濃)も一望に眺め得らるるのである。」

 さりげなく、八国を紹介し、丘の頂上へと向かいます。高山氏が訪れた当時は、久米川古戦場の碑はなかったようです。あれば、何らかの所感が述べられたであろうものをと残念です。
久米川古戦場跡 
八国山中腹

 「雑木林に赤松の五六本を配した熊笹のこの山は、小径僅かに行人の辿るのを許して居る。午に近い九月中旬の蒸し返る暑さも、樹陰(こかげ)涼しい高丘に登つてホット一息する心地よさもも、・・・古塚を見つけ出しては、廿六歳を一期として分陪の敗に殿將(しんがり)して雄々しくも討死した緋威の鎧が、チラリと頭に閃いて暗然とした。

     ともしする 狭山の峰の狩衣
          秋にもまさる袖のつゆけさ(新古今)

     ともすれば なびく狭山の蔦かつら
          恨みよとのみ秋風ぞ吹く(新後捨遺)

 恨みよとこそ。と口ずさみ乍ら、がさこそと熊笹分けて裾に下る。汗ふき乍ら桑摘む女に徳蔵寺を尋ねる。」
元弘の碑所在地跡碑

 現在は八国山山頂に将軍塚と呼ばれる小高い塚があり、その傍らに「元弘青石塔婆所在跡」の石碑があります。かっては、この地に永春庵(狭山三十三観音十二番札所)があり、元弘の碑をお守りしていました。その後、庵とともに碑も徳蔵寺(東村山市)境内に移されています。高山氏は徳蔵寺へと向かいます。

 徳蔵寺へと続く

sidetitleプロフィールsidetitle

野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleLc.ツリーカテゴリーsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR