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狭山神社1(現在)

 かって、大道と呼ばれた地に狭山神社はあります。中世からの道と思われる2本の道が交差する場です。江戸時代、その名は「天狗明神」でした。古い歴史があります。そこに、明治39年(1906)、明治政府の一村一社方針により、別の地にそれぞれまつられていた神明社、愛宕社、稲荷社、山神社が遷されて、「狭山神社」となりました。その後、村山貯水池の建設により湖底に沈むことになった、内堀地域の御霊神社を大正3年(1914)に、合祀しました。
 
狭山神社全景
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 正面からの狭山神社です。中央に狭山神社、左に山神社(やまのかみしゃ)、右に稲荷社がまつられています。現在の社(画像では本殿とします)は平成6年(1994)に再建されました。本殿(覆殿)・弊殿・拝殿によって構成されています。 社の中には二つの社殿があり

中央に本社殿
・天狗(天空)大明神(伊弉諾神(いざなぎのかみ)、
 伊弉冉神(いざなみのかみ))
・御霊明神(御霊大神 明治12年(1879)書き上げでは
 早良親王(さわらしんのう)他7神)
・愛宕社(阿遇突智神 かぐづちのかみ)

右側に神明社
・神明社(天照大神)
 がまつられています。昭和39年(1964)までは、画像本殿の北側左に愛宕社、本殿右側に神明社が、小さいけれどそれぞれ独立した社をもってまつられていました。昭和40年(1965)9月、愛宕社を本社殿に合祀、神明社の社を本殿の内部に遷して、現在に至っています。このまつられ方に、古い歴史の背景が籠められています。(2013.02.20.記)

 狭山神社2 狭山神社となるまでに続く   ウオーキングマップ多摩湖編に戻る

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狭山神社2(狭山神社となるまで1)

 狭山神社の近くに引っ越してきたのは、昭和19年(1944)、小学校5年生の時でした。天狗が大好きな孫に「天狗の神様だってさ。よかったね。」との祖母の言葉がこびりついて、狭山神社=天狗の神様と思い込んでいました。 やがて、調べると、境内にはたくさんの神々がまつられているのに、天狗様は居られません。本殿の中には、伊弉諾神(いざなぎ)、伊弉冉神(いざなみ)の神が居られます。さて、どうしてなのか不思議でした。その答えは、狭山神社が生まれる過程にありました。

1 江戸時代から明治初年にかけての神まつり

 狭山神社は、かっての村人の「神まつり」と、明治以後の歴史の流れをよく残しています。「狭山」が「後ヶ谷村」(うしろがやむら)と云われた江戸時代、次の図のように、神々は村人達の心の向かうところ諸所にまつられていました。どの神も、いつまつられたのかは、はっきりしません。
 
後ヶ谷村の神社_edited-4
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 図は、江戸時代から明治初年までの神々の地です。村が、明治12年(1879)12月5日に提出した神社明細帳には、狭山地区には①天狗明神、②神明宮、③愛宕大権現、⑥御霊明神、⑧稲荷社、⑨山神宮の6社が書き出されています。この図では、関連する④円乗院、⑤霊性庵、⑦厳島神社を書き加えてあります。

 これらの神社について、地元の地誌記録家・杉本林志(しげゆき)氏は、江戸時代末、明治初年の頃の状況を次のように紹介します。
 
①天狗明神(後に、天狗社或いは天宮社 現在、狭山神社所在地)
「天宮神社
 字上の屋敷に在り。元鎭守神明あまりに霊験嚴かなりしに、遙拝所を建立せしを、終に鎮守とし、天保八年八月祭日を八月一日と改め、初めて幟一門を納めしが、其時、誤りて天狗大明神と染めしにより、現今も然か呼べど誤なり」

②神明宮(後に、神明社 狭山字前野=現・第二消防団詰所 神明宮跡の碑がある)
「神明神社(清水堺に在り) 
 伊弉諾尊を祭り、祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが、現在三畝拾四歩は官有地たり。従来、村里の鎮守にして、旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遥拝所を建て、天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東、清水村に在り。
 当社の神木柊(ヒイラギ)は廻り一丈二尺余ありしが、立ち枯れとなり、啄木鳥(きつつき)などの巣喰ひ居りしが、文政度、大風のため、枝葉も折れ終に朽ち倒れ失ひり。・・・」
 ◎幕末には、このブログ「狭山・神明社の大欅」で紹介した事件が起こります。

③愛宕大権現(後に、愛宕社 円乗院裏山)
「愛宕神社
 狭山南峯の出崎にあり。神体は將軍地藏也。下田七畝廿歩の除地を賜はり円乗院が別当なりしが、維新の際、弟子秀鏡復飾して、後藤兵庫と改称、神官となる。祭典六月廿四日。」

④円乗院(慶長年12年(1607)に、旧地・上の屋敷からうつる。平治元年(1159)始祖の碑がある)
⑤霊性庵(狭山三十三観音十七番札所)

⑥御霊明神(後に、御霊神社 村山貯水池に沈んだ内堀にあった)
「御料神社
 字内堀にあり。鎌倉権五郎景政の霊を祭る。古時は御霊明神と唱へしが、延宝五年、再検地のみぎり、御料所の鎮座なるに依て、県令設楽孫兵衛差図にて改む。維新の際、元の如く、御霊明神と更称、中田六畝廿歩の除地は奉還し、現今社地壱反壱畝廿歩官有地となる。
 別当常覚院は復飾して内堀宅美と改め神官となる。祭典毎年六月十五日。
 末社、弁財天は日杵嶋神社に天王は八坂と改称す。」

⑦厳島神社(二つ池の神)、円乗院旧地
 『狭山之栞』はこの地に、天空社(天狗明神、現在の狭山神社の前身)がまつられたとする。

狭山小字図4_edited-1 
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⑧稲荷社(狭山字前野=現狭山四丁目)
「前野稲荷
 字前野に在り。神木の大杉廻り一丈三尺余ありしが、自然立枯れ、遂には赤味ばかり数十年残り居り、田無、柳澤辺よも望み得る程の高さなりしが、弘化三丙午年二月二日の大風にて、たおれその跡を失ふ。俗に枯杉稲荷と呼び伝ふ。境内に紅葉の大木あり、廻り八尺余なりしが維新の際伐りて神官の復飾料に供す。」

⑨山神宮(後に、山神社 狭山字山神=現在第五小学校付近)
「山神の社
 野中にあり。祭神・茅屋野姫命(かやのひめのみこと)也。祭典二月十七日。寛文九年三月下畑五反壱畝六歩の除地なりしが、現今三畝拾四歩官有地となる。」

◎説明中、「内」は狭山之栞から引用
◎江戸時代、志木街道の南側は「前野」と呼ばれ、江戸街道以南は全て畑で人家はありませんでした。そこに「山の神」の地名(現在の向原1丁目、第5小学校付近)が残されました。「前野」にまつられたのが、稲荷社(狭山4丁目)で、「山の神」にまつられたのが山神宮です。後ヶ谷村では、山の神は山ではなく、野=畑にまつられました。高木村も同じでこの地方の特徴の一つと云えそうです。

2 神々は集まった

 6社の神社と関連する3社を紹介しました。狭山神社はありません。しかし、天狗明神の名があります。天狗の神様でしょうか? ドキドキです。

 明治12年神社明細帳に記載されていない狭山神社は、その後にできました。各地にまつられた神々は、明治政府の方針により、明治初年から明治40年にかけて、それぞれの地から、天狗明神(現在の狭山神社)の地に集まりました。そして構成されたのが狭山神社です。この経緯は長くなるので、次に続けます。  前に戻る (2013.02.26.記)
 

狭山神社3(狭山神社となるまで2)

 現在の狭山神社には
①本殿の中に、小さなやしろが二つあり、次の神々がまつられています。
・本社殿(天狗・天宮大明神、愛宕社(石製額)、御霊神社)
・神明社(神明宮の石祠 石製額)
 本殿はこの二つのやしろの覆い殿となっています。 

 狭山神社側面のコピー

②本殿の前、左右に
・山神社(左側 中に、山神宮の石祠、山神社の石製額)
・稲荷社(右側 中に、稲荷社の石製額)
 がそれぞれ独立してまつられています。
 
狭山神社配置図色2

 この神々は前のページで紹介しましたように、当時の後ヶ谷村の各所にまつられていました。それが、明治政府の方針に基づいて、現在のようになりました。東大和市内の各神社とも同じ経過を辿って、現在に至っていると思われます。明治39年(1906)、40年(1907)の合祀は狭山丘陵南麓に共通する動きであったと思われます。

1最初の合祀=狭山神社の成立

①明治初年、政府は寺社整理、社名改称、神社統合を進めました。その結果、後ヶ谷村では

・明神、大権現を「社」としました。
 天狗明神→天狗社 
 神明宮→神明社 
 愛宕大権現→愛宕社
 御霊明神→御霊神社 
 山神宮→山神社
◎東大和市内では、明治元年(1868)に、蔵敷村で、「熊野権現」を「熊野大社」とした記録が残ります。
◎お寺にまつられていた神社は、寺から切り離されました。
◎別当として神社をお守りしていた僧侶や修験の中には、神官に身分を変えた方々があります。

②明治39年(1906)に、政府は「神社の整理指令」と「合併跡地の譲与」の方針を村々に伝えます。
 後ヶ谷村では、この指令に基づき、明治40年(1907)

・天狗社境内に、各所にあった神明社、愛宕社、稲荷社、山神社を遷しました。

◎その結果、天狗社境内には、
 天狗社(以下本社・本殿)と神明社、愛宕社、稲荷社、山神社が四つの別々の建物=社にまつられました。村人達はこれまで各地域でまつっていた神社の建物を、天狗社の境内に遷して、明治政府の方針に合わせたようです。神々を一緒にしなかった心情が偲ばれます。
◎これらの神々を総称して、「村社 狭山神社」となりました。
◎神明社、愛宕社、稲荷社、山神社は、その陰に、かくれんぼで身を隠すのに丁度良い程の大きさの社でした。

狭山神社配置図40年以前色 

2その後の合祀

 第一の合祀に次いで二番目の合祀がありました。
①明治45年(1912)、村山貯水池の建設が決定し、大正3年(1914)、内堀にあった御霊神社が移転することになり、狭山神社に合祀しました。
②昭和40年(1965)、本殿の外にあった愛宕社を合祀し、神明社の社を本殿内に遷しました。
・現在、狭山神社の建物は、本殿と山神社(左)、稲荷社(右)の三つの社で構成されています。

 村人達の神まつりは姿を変えて現在に至りました。後ヶ谷村=狭山村では
・日常生活圏と原が接する場所に「稲荷社」を
・かって武蔵野の原野で、新田開発をした原・畑に「山神社」を
・そして、それぞれの家に、屋敷神を
まつりました。
 都市化が進む最中、神々の姿がどのようになるのか、市内の各地を巡りたいと思います。(2013.03.02.記)

 天狗大明神と狭山神社に続く
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狭山神社4(天狗大明神と狭山神社)

 狭山神社には、まだまだ謎が残ります。地元の地誌記録家・杉本氏が『狭山之栞』に書き残された「天狗大明神と天宮神社」のことです。
 先に紹介した、『狭山之栞』は次のように説明します。
 
・最初、後ヶ谷村の鎮守は神明社であった。
・神明社を内宮と称し、外宮は二丁(218㍍)程東、清水村に在る
・とても霊験があるので遙拝所を字上の屋敷に建立して「天宮神社」とした
・遙拝所であった天宮神社は、後に村の鎮守となった
・天保8年(1837)に、幟をつくった
・その時に、誤って天宮神社を天狗大明神と染めたので、天狗大明神と呼ぶようになった
・それは誤りで、天宮神社が正しい
 とします。位置関係は次の図のようになります。
 
神明社・天宮社位置図
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問題は
①神明社の外宮の所在地
 杉本氏は「神明社の外宮は二丁程東、清水村に在る」としていますが、その地がどこか不明です。
 神明社は後ヶ谷村(後に狭山村)の鎮守でした。その外宮が清水村にあるとすれば、2村にまたがる広域の鎮守になります。この地の所在状況によって当時の神まつりのあり方が、よりはっきりわかってきそうです。
 たまたまですが、後ヶ谷村と道路一つ越した地先にある、現在の清水神社の地は、神明社跡地から丁度二丁程東に位置します。この辺りから後ヶ谷村(現・狭山四丁目)と清水村(現・清水三丁目)の村境は不思議な姿を示します。

②天狗大明神の由来
 『狭山之栞』は、天保8年(1837)に幟をつくったとき、誤って「天宮神社を天狗大明神と染めたことから天狗大明神になった」とします。しかし、狭山神社の中には「天狗大明神」と書かれた木製の表札が保存されており、その裏に「寛政十一未年(1799)四月吉祥日 これを建てる」と書かれています。これからすれば、幟の作成より38年前に、すでに「天狗大明神」になっていたことになり、『狭山之栞』の由来が揺らぎそうです。祖母が石鳥居に彫られた天狗のウチワを指さして教えてくれた、「天狗の神様」は相当古くから、いらしたようです。

狭山神社石鳥居
狭山神社石鳥居 最初の階段を上ったところにある
天狗の団扇模様
天狗様のウチワの柏の葉が彫られている
③天空神社の所在地
 『狭山之栞』は、天宮神社・天狗大明神の所在地を「字上の屋敷」とします。現在地は「大道」と呼ばれる地域です。
 上の屋敷は二つ池の近くの地名で、『狭山之栞』から類推すると、
・神社の旧地が二つ池の近くにあって、
・現在の地に遷った
 ことになります。この点は不明です。ただ、
・平治元年(1159)の伝承を持つ円乗院は慶長12年(1607)、二つ池の近くから現在地に移っています。
・現在の狭山神社の北側に、通称「上の屋敷」の屋号を持つ家があり、二つ池近くから移転したとの伝承を持ちます。この時期に天宮神社があったとすれば、共に遷った事も考えられます。
・江戸時代末、南の谷の高札場が天狗大明神の前に設けられて居ました。江戸時代には、現在の狭山神社の前はまさに「大道」の名にふさわしい村人達の交流の場でありました。

 以上から、中世、廻田谷ッの奥に、寺社が共にあったとすれば、二つ池の近くに、円乗院と天宮神社があったことが考えられます。『狭山之栞』の地名の綾か、中世に遡って、二つ池の近くに寺社が存在して、現在地に移ったのか、惹き付けて止まない謎解きが始まります。(2013.03.05.記) 前に戻る ウオーキングマップ多摩湖編に戻る

霊性庵の石造物1

 霊性庵(狭山観音堂)には多くの石造物がまつられています。狭山村(後ヶ谷村)の村人達の祈りの証です。
 正面から見ると、左側に平成9年・観音堂再建供養塔、右に①六角柱浮彫六地蔵尊、階段を上がって正面に②丸彫六地蔵尊、左側に③大日如来他4体が配置されています。
 この他に、画像では見えませんが、堂の北側に馬頭観音他がまつられています。ここでは①と②を書きます。

霊性庵石造物1

①六角柱浮彫六地蔵尊

六角柱塔浮彫六地蔵尊

 塔身75㌢の六面塔柱の各面に六地蔵尊が浮き彫りに彫られています。
 台座正面に町田、右側面に世話人 村中 左側面に明治31年(1898)3月吉日 願主町田権右衛門
と彫られています。願主は丘陵南麓の人ですが、村山貯水池に沈んだ地域にも町田姓は多かったので、両者が一緒に奉納した事も考えられます。但し、貯水池内町田各家の墓地については貯水池建設に伴い、大正7年(1918)に移転して来ています。

②丸彫六地蔵尊

丸彫り六地蔵尊霊性庵

 仏身64㌢の丸彫六地蔵尊です。向かって左から「法印地蔵」、「法性地蔵」、「延命地蔵」、「宝性地蔵」、「陀羅尼地蔵」、「地持地蔵」の順に配置されています。
 一番下の基盤に文久元年(1861)8月吉日
 武州多摩郡後ヶ谷村 総村中 
 世話人 真野、関田、竹内、真野、柚木、西田
 念仏講中 西田平右衛門妻よね 関田安五郎妻くら他8名の妻の名

 と彫られていることから丘陵南麓の人々が構成していた念仏講の村人達が奉納したことがわかります。(2013.02.11.記)

 霊性庵の石造物2に続

霊性庵の石造物2

 霊性庵(観音堂)は観音信仰と共に墓地があることから、仏事の度に村人達のお参りする場になっています。そのためか、かっては、村の辻々に建てられていたであろう石造物が一群となってまつられています。 今回は、観音堂の正面から階段を上がると左側にまつられている5体の石造物について書きます。
 
大日他4体霊性庵


①金剛界大日如来

 
大日如来霊性庵

 石碑高86㌢ 上部の窓型の枠の中に大日如来像が彫られ、下部に大日如来、台石正面に惣邑中(総村中)の文字が彫られています。
 右側面に弘化5年(1848)2月吉祥日
 左側面に願主 二見八郎右ェ門
 とあります。大日如来は真言密教の最高位の仏様とされます。にもかかわらず、東大和市内に大日如来像は意外に少なく、蔵敷地域を除いて、狭山に1、清水、高木、奈良橋、芋窪に各2、合計9体あります。最古は芋窪の観音堂・林堂の寛文4年(1664)、最新は奈良橋雲性寺の元治元年(1865)です。清水地域の「原の大日堂」にまつられる胎蔵界の仏様以外は皆、金剛界の仏です。

②六十六部供養塔(天明5年・1785)
③六十六部供養塔(享保12年・1727)
 
六十六部享保12

 塔身96㌢ 正面
 享保十二丁未年(1727) 武州多摩郡後谷村
奉納 大乗妙典六十六部日本廻国供養塔
 八月吉辰 願主柚木茂左衛門
 左側面 石塔代 寒念仏講中十二人

 六十六部日本廻国は日本全国66カ国を巡礼して、その霊場に法華経を納める仏事とされます。後ヶ谷村でもその信仰があり、寒念仏講の村人達が、願いの成就を記念してこの供養塔をまつったものと思われます。講中の代表が巡礼したのかどうかは記録が残りません。
 東大和市域では享保元年(1716)年を最古とし、天保9年(1838)まで続いて、市内に9基あります。清水観音堂、狭山霊性庵に各2、芋窪林堂に1基まつられています。道の辻に建立されていたものが移されたとも考えられます。

 なお、②の六十六部供養塔は間野門十郎により天明5年(1785)に建立されています。
 「国土安穏」の文字が刻まれています。

④丸彫地蔵尊(嘉永4年・1851)
 
丸彫地蔵尊嘉永4年

 仏身55㌢ 台石正面に
   嘉永四年
  地蔵尊
   亥正月二十四日
 左側面に 二見□□
 と彫られています。引き込まれるようなお顔と姿に、現在も手を合わせる方が多いようです。 

⑤角丸石碑 地蔵尊(嘉永7年・1854)

角丸石碑地蔵尊嘉永7年

 2体の地蔵尊が浮彫りになっています。

正面に
   嘉永七年甲寅年
 地蔵大菩薩
   四月十六日
左側面に 施主 町田庄左ェ門

 と彫られています。この年1月9日、ペーリーが蒸気船を率いて浦賀に再来航し、羽田沖まで乗り込んで、通商開港要求をしました。江戸中、大騒ぎになって、3月3日には和親条約が締結されています。6月には、江戸湾への台場建設のため、御林山から松材の伐り出しに村人達は駆り出されています。おそらく施主の町田さんもその先頭に立っていたことと思われます。その中間にまつられた地蔵尊です。もとより前年からの準備が実ったのでしょうが、宝生地蔵尊の優しさに、何ともいえぬ思いがします。(2013.02.12.記)

霊性庵の石造物3(馬頭観音1)

 霊性庵(狭山観音堂)の正面から右側を歩いて奥に回ると、馬頭観音を始め全部で7体の石造物がまつられています。元禄11年(1698)から明治29年(1896)に至る約200年間の石造物です。時代の特徴を良く残しています。

霊性庵奥案内
右奥に馬頭観音が見える

霊性庵北側石造物
次の7体の石造物が残されている
①馬頭観音②庚申塔③庚申塔④馬頭観音⑤馬頭観音
⑥馬頭観音⑦馬頭観音
 
 馬頭観音5基、庚申塔2基と馬頭観音が圧倒的に多いのですが、実にバラエティに富んでいて、石造物について勉強するには最適です。馬頭観音と庚申塔に分けて書きます。

①天保5年(1834)2月、馬頭観音像

馬頭観音霊性庵

 正面 馬頭観世音 右側面 天下太平 国土安穏 左側面 天保5年 武州多摩郡後ヶ谷村
 方柱塔身高さ96㌢、幅45㌢、奥行き48㌢、二段の台石、上の段に総村中 
 と彫られています。残念ですが、もとの所在地が不明です。

 馬頭観音は馬に対する信仰で、馬力を強力な救いとする仏教的なものから、道中安全、馬の安全など広範囲に信仰されたようです。主要な道路の辻にまつられていました。馬を飼う農民が多かったようです。文久3年(1863)の記録ですが、後ヶ谷村では33%、高木村では45%の農家が馬持ちでした。その理由は

 「耕作の暇には薪を伐りて江戸へおくり、傍ら養蚕のこともなせり、村内尾張殿の鷹場にして、村民 其役を勤めり」
(新編武蔵風土記稿 後ヶ谷村)と、農業専一のはずの農民が、耕作の合間に「薪をとり」「養蚕」「木綿縞」などの仕事をしています。山口領の悪米と位置づけられて、年貢の現物納付が出来なかった村人に対し幕府もこれを認めざるを得なかったのでした。

 しかし、この稼ぎは厳しいものがありました。文久3年(1863)、後ヶ谷村の村明細帳は次のように残します。
 「馬持ち百姓は柴山に出て薪や炭をつくり、あるいは青梅・飯能・五日市・八王子などで炭薪を買い入れ、馬附けに致し、夜四つ頃から江戸に出かけ、朝方、お屋敷様へ納めて、その日の内に立ち戻って、夜五つ前後に帰ってくる」

・その日か前日 青梅・飯能・五日市・八王子などで炭薪を買い入れ
・夜四つ(午後11時)に出発し、江戸街道(現青梅街道)を夜通し歩いて新宿を経て
・朝方江戸(外桜田にある曽我又兵衛宅)に着き、炭薪を納める
・同じ道を引き返し、夜五つ(午後八時)に帰宅

 「お江戸日本橋七つ立ち」の旅立ちは午前4時に当たります。東大和市域の村人達の稼ぎは夜中に出発しています。この実態が馬を大事にする信仰の表れとして馬頭観音をまつったようです。(2013.02.13.記)

 次に続く

霊性庵の石造物4(馬頭観音2)

 天保5年(1834)の大型馬頭観音の横に、二つ庚申塔があり、続いて4体の小さな馬頭観音が並びます。いずれも、他の場所から移されています。小さいけれど特徴があります。

④明治4年(1871)9月末日、馬頭観音
 
明治4年馬頭観音

 角柱塔身、ほとんど摩滅していますが、 正面中央「馬頭観世音」、左側面「明治四未九月吉日」、右側面「施主 竹ノ内徳左ヱ門」 と刻まれています。
 高さ38㌢、幅18㌢、奥行き11㌢。原所在地不明。

⑤文政5年(1822)10月25日、馬頭観音
 
文政5年馬頭観音

 角柱、幅3㌢の四周縁取り、中央に「馬頭観世音」を陰刻、左右に「文政五壬午十月廿五日」、「後 ヶ谷村 由木茂兵衛」  高さ44㌢、幅24㌢、厚さ12㌢ 原所在地不明。

⑥文化10年(1813)2月吉日、馬頭観音
 
文化10年馬頭観音

 摩滅が進んでいますが、正面に二本の腕を持った(二臂)馬頭観音の坐像を浮き彫りにしています。さらに古い写真では頭に馬頭をいだいていることがはっきりしています。東大和市内では、馬頭観音の坐像は角柱の上の方に浮き彫りにされます(庚申塚にまつられた馬頭観音・雲性寺など)。このように台座の上に直接に座像が組まれるものはありません。他に見られない特徴です。
 正面左右に「文化十戊寅年二月吉 日」、「竹ノ内清右ヱ門」の銘が彫られています。
 高さ49㌢、幅23㌢、厚さ12㌢の角柱石塔 原所在地不明。

⑦文化元年(1804)2月27日、馬頭観音
 
文化元年馬頭観音

 正面「馬頭観世音」「文化元子年」、「三月廿七日後固谷村」
 左側面に「右町谷 所沢」、右側面に「左山口くハんおん 願主 竹内吉右ヱ門」
 高さ59㌢、幅25㌢、厚さ16㌢ 原所在地不明。

 後ヶ谷村・宅部村=狭山地区で最も古い馬頭観音は貯水池に沈んだ内堀=宅部村にあった寛政3年(1791)のもので、東大和市最古(奈良橋庚申墓地内)です。この馬頭観音はそれに次ぐもので、道標を兼ねています。「右町谷 所沢」「左山口観音」を案内できる場所は、貯水池に沈んだ内堀・宅部地域です。この地が馬頭観音をまつる発祥地と云えそうです。

 紹介したように、後ヶ谷村ではいずれも小ぶりな文字馬頭塔が多いのが特徴です。路傍に、働いて貰った貴重な馬の供養を願ってまつられたものと思われます。それが、突如、最初に紹介した天保5年(1834)の格大な馬頭観音がまつられます。しかも、天下太平 国土安穏を願いとします。
 天保3年には、隣接する清水村で百姓一揆が起こり、天保4年には、全国が生産不良で、天保の大飢饉がはじまります。そのような時に、この大きな馬頭観音を総村中でまつっています。背景を知りたいものです。(2013.02.14.記)

 霊性庵庚申塔に続




霊性庵の石造物5(庚申塔)

 霊性庵正面から堂の裏側に回ると7つの石造物があります。一番手前(右)の馬頭観音の次に②元禄11年(1698)11月、③明治29年(1896)9月の庚申塔があります。 
「人間の体内には、三尸(さんし)の虫がいて、庚申(こうしん)の日には、寝ている間に天帝にその人の諸悪を報告する。だから、三尸が出て行かないように、夜通し眠らないで勤行をする」と聞いてきました。疑問だらけですが、現に、その願いが叶ってお礼のために造ったとされる庚申塔があるので困ってしまいます。

②元禄11年(1698)11月庚申塔
 
元禄11年庚申塔
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 これが全体像です。400年以上前の石造物ですから摩耗が激しくはっきりしない部分が多いです。

元禄11年庚申塔2
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 正面に神の像が浮き彫りになっています。よく見ると6本の腕があります。「六臂青面金剛像」(ろっぴしょうめんこんごうぞう)と云われます。病魔や悪魔を除き三尸(さんし)を抑える神として信仰されたようです。足の下に邪鬼(じゃき)を踏み、その下に3匹の猿が居ます。左から、悪業を「云わざる、聞かざる、見ざる」とされます。
 さらに、一番上の部分に日と月、両足の近くに鶏が1羽づつ彫られていました。日月は庚申の日待ちや月を意味し、鶏は夜明けを告げたとされます。

元禄11年庚申塔3猿
邪鬼と三猿
塔身には次のことが彫られています。

 金剛神の右側に奉造立庚申尊像一躯 村中安全 男女 □処本願□
 左側に元禄十一戌寅年十一月善日 武州多摩郡内堀村
 右側面 庚申供養導師 宅部山十五世法印 寂如

 庚申供養に村中安全が祈願されています。村山貯水池に沈んだ内堀地域を「内堀村」と主張し、三光院の住職が導師になっています。内堀地域は一時「宅部村」となりました。内堀地域の人々は何らかの理由で、その名を使わず、自らの主張をこの像に込めたのでしょう。そして、三光院が「宅部山」を冠していることもこの時代の表れのようです。なを、像が建立された元禄11年(1698)は、この地域の村人達が野火止用水まで狭山丘陵南麓の原野を苦労して新田開発した時期に当たります。

 像が摩滅しているため、参考のため、比較的全体像が残されている奈良橋庚申塚にまつられていた庚申塔の塔身部分を紹介します。

雲性寺庚申塔
庚申塚の庚申塔(現在雲性寺前庭にあり)

③明治29年(1896)9月庚申塔

明治29年文字庚申

 正面 庚申 右側面天保七年申年生
  願主 杉本勘左ェ門
 左側面 明治二十九年丙申九月庚申日
  文化九丙申生八十五年 森田法蛙 敬書
 と彫られています。天保7年(1836)申年(さるどし)に生まれた杉本氏が願主で、文化9年(1812)年申年生まれの85歳の森田氏が文字を書いたと造立の経過が示されています。願主名から湖底に沈んだ杉本地域に建立されていたと思います。
 東大和市内で最初の庚申塔は延宝8年(1680)に、村山貯水池に沈んだ石川(芋窪)にまつられました。今回最初に紹介した塔は2番目の古さです。
 東大和市域内では、庚申塔の造立は寛政2年(1790)に一度途絶えます。この間11基が造立されています。その後、馬頭観音が引き継ぐように盛行します。
 そして、最後にこの明治29年(1896)の庚申塔がまつられました。地域の歴史と信仰の厚さをしみじみと感じます。(2013.02.15.記)

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霊性庵・狭山三十三観音17番札所

 志木街道から、旧道、神明宮跡の角、円乗院参道のどこから入っても、狭山南分と呼ばれた峰の中程に、観音堂があります。霊性庵、狭山三十三観音の17番札所です。地元では嶺松庵とも云います。ご詠歌が
 「ききしける 嶺の庵(いおり)を たずね来て 嬉しくも聞く 法のまつ風」

 とうたうように、姿の良い松が庵にかかるように枝振りを広げていた姿からとされます。阿弥陀堂だよりと云う映画がありましたが、まさにあの景観によく似て居ました。本尊は如意輪観音です。
 
霊性庵全景 
霊性庵全景

 指で持つ小さな鐘を手に、地元の方々が三々五々集まって、観音経を声を合わせてうたうように読んで、チン、チンと振るように鳴らす音が聞こえてくる堂でした。観音堂に掲げられた、様々な講中の奉納額をみても、この地域に観音信仰がさかんであったことがわかります。

 円乗院の境外仏堂で創建は明らかではありません。観音堂の前にある平成9年再建記念供養塔に、本尊の台座に、元禄5年(1692)、円乘院二十二世法印泓誉(おうよ)が係わったことが彫られていて、それ以前であるとしています。

 狭山三十三観音札所は東大和市域に入ると、清水の橋場の堂(15番)から三光院の堂(16番)を経て、霊性庵に来て奈良橋の雲性寺の堂へと巡りました。貯水池の出来る前は谷から峰を超え、丘陵の裾野を伝ういかにも狭山らしい巡礼道であったことが偲ばれます。
 その設定については諸論がありますが、埼玉県所沢市三ヶ島の妙善院に天明8年(1788)の標石があり、この時期と考えられています。

観音道の一つ

16番から17番への観音道の一つ


 霊性庵は墓地を併設しています。墓地が先なのか、観音堂と一緒なのか時期を巡っては明確ではありません。新編武蔵風土記稿の後ヶ谷村の項に「民戸天正(1573~1591)の頃は十二軒ありしが、後稍く(ようやく)増加して今は四十五軒(1820年代)となれり、いずれも山に傍て散住せり・・・」とあります。天正年代には貯水池に沈んだ杉本、宅部、内堀を含めてこの地域に人々が居住していたことがわかります。当然に、墓地は必要な施設でした。

 併せて、二つ池近くにあった延寿院が台風の風禍により、円乗院として現在の場に移ったのが慶長12年(1607)とされますので、その時に墓地も移転したのか、それ以前からあったのかも検討する必要があります。この墓地も両墓制をとっていました。上の段の一隅に碑が設けられて居ます。

 堂は当初は草葺き屋根でした。昭和38年(1963)建て替えられていますが、平成9年(1997)全面建て替えが行われ、現在の姿になりました。石造物が多く集まっています。別に書きます。 


 霊性庵の石造物に進む
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野火止用水

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