円乗院(狭山)

 志木街道から参道を進み、坂を登り切ると山門が迎えて下さるように建っています。

円乗院参道
(クリックで大)

 真言宗智山派の古寺です。狭山薬師第三十四番、多摩四国八十八か所第三十八番、武蔵野三十三観音第八番の札所になっています。

 東大和市の他の寺院の多くが武蔵村山市の真福寺の末としますが、円乗院は田無の石神井三宝寺末です。愛宕山医王寺円乗院東円坊と号します。名がよくこの寺の歴史を伝えます。
 
円乗院全景

 寺の起こりは、二つ池の近くの上の屋敷に、始祖・賢誉法印が創建したと伝えます。古記録は焼失して存在しませんが、山門の前の当山歴代塔に賢誉法印 平治元年(1159)2 月8日入寂と彫られています。平治の乱で源義朝と平清盛が戦い、義朝が敗れ、頼朝が伊豆に流された年にあたります。かって、周辺を発掘したとき、中世遺跡かと想定される柱穴らしきものが発見されましたが、ほんの一部分で、何であるかは確認されませんでした。薬師如来を御本尊として安置し、医王寺(延寿院)と呼ばれたようです。

円乗院歴代塔
右端に始祖・法印賢誉の名が刻まれている

 慶長12年(1607)8月18 日、風災によって坊舎が悉く吹き潰されたので、現在の場所、狭山南峰の愛宕山に移して堂宇を再建したと伝えられます。寺伝は「その場所に古くより鎮座する愛宕大権現を寺の地主神として、山号を愛宕山 院号を円乗院とし、愛宕権現所縁の東円坊の坊号に由って愛宕山医王寺円乗院東円坊と号したのであります」と由来を伝えます。新編武蔵風土記稿、狭山之栞など江戸時代から明治にかけての地誌などにも、その旨が記されています。
 
円乗院旧地関係図
円乗院と延寿院の位置関係図

 寺の入り口に錐鑚不動尊の石柱がありますが、寺伝は「第二十世慶範法印(元禄 17年(1704)3月 1日示寂)の代に帰依によって新義派大本山紀州(現在の和歌山県)の根来山大伝法院に安置の錐鑚不動尊像を写して当山の本尊としました」としています。

 山門(鐘楼門)は第二十五世乗誉法印が寛延2年(1749)10月に建立しました。この時、清水村の本山修験・持宝院が大檀越となって鐘を鋳造し懸けています。寺と修験の関係が注目されます。この鐘は残念ながら第二次世界戦争の時、軍の命令により供出しています。昭和42年(1967)、現在の梵鐘が篤信者によって寄進されました。昭和58年、弘法大師1150年御遠忌にあたり、あらたに仁王像が造立されています。

円乗院鐘楼門
除夜の鐘は狭山の峯に反響する
 山門からお参りすると様々な貴重な石仏や石造物に拝します。ブログという媒体から一度に書けないので、それぞれについては個別に紹介します。



 円乗院の石造物
 円乗院と自由民権運動
 円乗院の殉国産業戦士供養塔
 円乗院周辺の板碑群
 東やまと20景・円乗院
 ウオーキングマップ多摩湖編

高木・薬師堂墓地

 高木・狭山の境界を登ると円乗院の前に出ます。山門に向かって左側に、墓地があります。昭和 31 年近くまでは堂があり、蟹峰堂と呼ばれました。現在は薬師堂墓地と云います。

高木薬師堂墓地 
左薬師堂墓地 右円乗院

 ここは、今は幻となった「狭山三十七薬師」の第三十五番札所でした。まつられていた薬師像は円乗院に現存します。また、墓地は両墓制をとっていました。参り墓と埋め墓を区別する墓制です。

 墓地の中に、話を聞かなければ解らなくなった、狭山三十七薬師と両墓制について刻んだ石碑が建立されています。貴重な資料ですので、少し長くなりますが引用します。

 「高木・薬師堂墓地「墓地改修記念碑」

 「私達の先祖は源平争乱期に円乘院が開創された頃、すでに狭山丘陵の山懐に抱かれてこの地に生活を営んでおりました。
 江戸幕府の初期、慶長年間、寺が後が谷戸上の屋敷から現在の愛宕山に移った以後、尾崎 関田 小野 渡辺氏の一族十七戸に依り境外墓地をこの地に設け、爾来四百年の星霜が移り変わりました。

 敬仏崇祖の念極めて篤く、一堂を建立し、薬師如来(身丈五寸程)を本尊とし、日光仏、月光仏、共に十二神将を安置して、狭山薬師第三十五番の札所としての信仰が極めて深く、祖先の祀りをたやさず、両墓形式に依って、墳墓地を東面して上段に、その前に埋葬場所を設けました。

 永い人生が終わるとこの地に葬られ、土に帰りみ仏となって私共を見守って下さったのです。墓地の中央に大きな柘植の木があり、その形が蟹の姿によく似て仕立てられていたので、人呼んで蟹峰堂と呼ばれておりました。

 この薬師堂墓地を中心に、隣保共助の精神の下、栄枯盛衰を世のならいとしながら、ひたすら生業に励んでまいりました。

 明治の初期、土地の登録をする制度に際し、この墓地は尾崎甚右衛門他十六名の共有地として登録され、現在に至っております。その後、一族の家運大いに振って、人口が次第に多くなったので、昭和三十一年、地主の協力を仰ぎ、西側に約百六十坪の墓地を拡張致しました。

 この度、施主一同が相集まって協議の結果、従来、埋葬地に使用していた土地を改修墓地として活用し、併せて環境整備を行って、永く先祖を偲び、一族の繁栄を願うことになりました。九月十八日一同の手に依り、先祖のお遺骨を収集して浄め、多摩火葬場において荼毘に付して供養を行いました。

 茲に浄財をもって五輪供養塔を建立し、先祖のみ霊をお祀りして、これから後、私ども子孫を温く見守って御加護を頂くことになりました。
 ここに、これまでの経過を記し、私達一同祖先の遺徳を継承して、各々その分を守り、業務に精励して世のため人の為精進を積み重ねたいと思います。

    昭和五十二年十二月八日
             薬師堂墓地施主一同」

 両墓制の名残を現在の制度へ移行した姿が丁寧に記されています。そして、ほとんど忘れられようとしている狭山丘陵を巡る薬師信仰について、記録を集めて、その姿をとどめたいと五輪塔に手を合わせます。

高木薬師堂墓地五輪塔 
五輪塔と墓地改修記念碑

 参考までに、東大和市内の狭山三十七薬師の札所は次の通りです。
 三十三番西楽庵(上宅部 村山貯水池に沈む)三十四番円乗院 三十五番高木薬師堂
 三十六番慶性院 三十七番蓮華寺

高木と狭山の境界

高木・狭山境界

 志木街道を奈良橋、武蔵大和駅どちらから来ても、高木の大曲(おおまがり)の東側に、江戸時代から現在も続く村境・町境があります。高木と狭山(後ヶ谷村)の境界です。
 村境の決め方は様々で、道路、河川や丘陵の峰が多いようです。この境界は狭山丘陵から東南に張り出す低い尾根の中心に定められています。現在の境界は高木と狭山になりますが、江戸時代に境界の定まった頃は高木村と後ヶ谷村(うしろがやむら)でした。村人達が互いに話し合って決めたのでしょう、昭和 33年の大和町地図によっても正確に尾根の中心を通っています。東大和市内で江戸時代の村の境界を目にするところはめったにできません。それが、この場所では歩いて体験できます。

 志木街道から境界を登るように進むと円乗院の脇を通って狭山丘陵に入ります。現在は都立東大和公園になっていますが、境界線は峰と尾根と峰を結んでいて、かって使われていた小字の地名が地形と一致している事がわかります。

 狭 山 大道 谷ッ入 廻田谷ッ 大筋端 
 高 木 本村
 清 水 後谷
 奈良橋 日月前川北 諏訪前

 村境の両脇には浅い谷戸が形成され、集落が営まれました。境界を挟んで集落には、それぞれに名主の館があり、典型的な江戸の村の姿が偲ばれます。
天保11年道路・高木狭山境界

志木街道旧道(狭山)

 奈良橋から武蔵大和駅のガード下を通る道を地元では志木街道(しきかいどう)と云います。東村山市、清瀬市を経て埼玉県の志木市に達します。もとは狭山丘陵の西端の瑞穂町から東村山市の間、丘陵の麓を縫うように通じていた、村人達の日常生活道で、「村山道」(むらやまどう)と呼ばれました。
 それが、江戸時代の中頃、清瀬(東京都)に「宿」がたち、志木(埼玉県)の引又河岸(ひきまたかし)から江戸への新河岸川 (しんかしがわ)舟運が盛んになった頃、物資を運ぶ道として広域化し、目的地が街道名になったようです。

志木街道旧道_edited-1

 明治時代の図を見ると道幅は二間二尺(4㍍)で、馬ばかりでなく、荷車の交差も可能でした。ただ、日常の生活道らしく屈曲が激しく、物流にはさぞ、難儀の道だったろうと推測されます。
 正徳3年(1713)、清瀬市に、青梅から石灰を運んだ記録が残ります。中継ぎ場であった当時の淸瀨は、上・中・下清戸村(しもきよとむら)と分かれていました。村でありながら、それぞれ「町」と呼ばれるほど賑わったとされます。江戸街道、青梅街道を通って江戸へ運ぶよりも新河岸川から一気に船で運んだ方が大量に運べ、運送賃が安価になるからでした。 

 志木街道は、東大和市内を丹念にたどると、所々に旧道が残されています。清水の伝兵衛地蔵尊の近くから、狭山の神明社がまつられていた前を通る道がその一部です。少し広げられていますが、曲がり具合がよく残されています。旅する人は神明社の大欅のもとで一休みしたことと思われます。大正の初めに現在の志木街道が整備されます。それまではこの道が使われていました。 
 
この図は書き換え中です。暫くお待ち下さい。

 しかし、東大和市内には、淸瀨~志木に向かう道は、図のように
①奈良橋から高木神社~清水消防団詰所の前を通る「清戸街道」
②清水5丁目先で江戸街道から分岐して清水子供広場の前を通る「河岸街道」
があり、いずれも東村山市域を経て引又河岸に合流します。
 坂や曲がりが少なく物流には適しています。正徳3年の石灰輸送は、むしろ、これらの道が使われたのではないでしょうか?
 とすると、今回の志木街道は、中世(15~16世紀)に遡り、「滝の城」が所沢市に、柳瀬川の対岸の淸瀨に「清戸番所」が設けられたときの交通路であった事も考えられます。その頃は淸瀨は柳瀬川沿いに淸瀨下宿村を形成して居ました。志木街道はその村に直結しています。
 僅かに残る旧道ですが、様々に思いを馳せる道です。

志木街道旧道武蔵大和方面
武蔵大和駅方面からの旧道分岐点

狭山 神明社の大欅

神明宮旧跡全景
神明社跡全景 周囲の道路は旧志木街道

 神明社は鬱蒼とした森に包まれていました。幹周り4㍍ほどの大きなヒイラギと欅が神木でした。近くに「森下」(もりした)の屋号の家がありますから、遠くからも目印になる位、立派だったことが偲ばれます。この神木について、不思議な伝承があります。

 幕末の嘉永7年(1854)のことです。何と、この神木の欅が伐られる事になりました。幕府の御用船の船材に使うというのです。丁度、前年の嘉永6年(1853)、ペリーが黒船を連ねて羽田沖に来ます。幕府に開国・通商を求めて大騒動、NHK大河ドラマ「八重の桜」綾瀬はるかの兄様が大興奮する時です。

 幕府は蒸気船を造って対抗することになりました。その用材にと南八丁堀の御用商人・角兵衛が神木の欅を買いに来ました。村人達は断りました。と云うのは、40年ほど前に、近くの円乗院(神明社の別当)が本堂を建て替えることになり、その用材に欅を切ることにしました。住職が「読経して神慮を慰め、無心無垢の小児に籤を引かせて、吉凶を判断した」時、凶と出たため、伐る事を止めた経過があったからです。

 村人達は、時の代官・江川太郎左衛門に伐らないように「赦免」を申し出ました。ところが、江川代官は幕府の海防に携わって、東京湾に台場を造って備えようとしています。「幕府の用材」だから、相当の代価で売り渡すようにとの指令が来ました。やむなく、村人達は角兵衛の手代・久米川村の升五郎に25両で売り渡しました。それからが大変です。

「村内○○は根の切屑を貰ひ焚物に用ひしところ、隠宅焼失す。其後、盗賊、質藏を切り破り財物を奪ひ且つ火を掛けたり。久米川村升五郎は大熱病を煩ひしが神罰なるを悟り日参して神慮を慰ると云へども、ついに妻を失ふに至る。当時の村用掛○○外役人一同はじめ氏子一同も大に驚き、右売却金廿五両をもつて廿五座の神樂を奏して神に詫びしが、かなはず、疫病流行し村内交々と煩ひ、五ケ年目に漸く退散す。あまりの不思議の恐しさに、境内の落葉、下草、枯枝など堆かくなるも更にとる人なし。まして他の大木は立ち枯れのまま残れど手を着くる者なし。」(狭山之栞)

 と云う状況になりました。最近出版された杉本家(当時の名主)文書は

 安政二卯年三月四日、南谷神明宮石坂並びに
 石の鳥居供養、右は去年中欅代金にて立てる
 欅三尺六寸角、長さ四間、根迄掘り出し俣木は
 御用船に用いる由、深川栖原屋角兵衛へ売り渡す
 代金二十五両也 (杉本文書上巻 p21)

 と、村(後ヶ谷村)が翌年の安政2年(1855)に、神明社の石坂を整備し、石の鳥居を奉納して供養した事を記録しています。淡々とした書き方だけに、胸中が思いやられます。幕末、東大和市の村々にも、刻々と次の時代への歩みが迫って来ていました。

狭山 神明社跡  志木街道旧道(狭山)

狭山 神明社跡

狭山神明社跡地
神明社跡 左上に進むと狭山神社がある

 狭山二丁目の志木街道が新道と旧道の交差する角、現在、東大和市消防団第二分団詰め所のあるところに、神明社がありました。石碑が建てられていて
 「狭山の栞(地誌)によればこの土地は村里の鎮守して親しまれた神明社の跡地といわれ御神体は現在狭山神社に合祀され守護神として祀られています。
 この跡地の由来を後世に伝えるためこの碑を建立いたしました。」

 と刻んでいます。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は
・神明社
 字南分と云所にあり、これもわづかなる祠なり、傍にヒイラギの古木あり、囲み七尺許、其外にも古木多く見えたれば、古社なるべし、もとより鎮座の初め年代は失へり、
・天狗社
 これも同じ辺にあり、纔(わずか)なる祠にて、上屋は六尺四方、前に鳥居を立り、これも鎮座の初めを伝へず、
 
 と距離にして300㍍ほどのところに神明社と天狗社(現在の狭山神社の位置)があったことを記録しています。そして、地元の地誌『狭山之栞』は

 「神明神社(清水堺に在り)は伊弉諾命を祭り祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが現在三畝拾四歩は官有地たり。從来村里の鎭守にして旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遙拝所を建て天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東清水村に在り。」

 と、神明社(神明神社)と天狗社(天宮大明神)の関係を記しています。明治39年(1906)、当時の国の方針である一村に一つの神社政策により、神明社は天狗社の場所に他の神社と共に合祀されて、狭山神社としてまつられました。

 二つの神社の創建は不明ですが、明治12年(1879)の書き上げによれば
・神明社 祭神 天照大神
・天狗社 祭神 伊弉諾尊(いざなぎ) 伊弉冉尊(いざなみ)
 となっています。江戸時代の集落に置き直してみると、神明社は武蔵野の原野に接する村の入り口、天狗社は少し奥まった谷ッの入り口に位置していて、村人達がそれぞれに崇拝していた事がわかります。

狭山神明社跡地碑

神明社跡地の碑
 
 この地域は典型的な狭山の里山地域で、この碑によって当時の村人達の神まつりのありかたが偲べます。貴重な神明碑として紹介します。

志木街道旧道 狭山

清水の伝兵衛地蔵さん

伝べえ地蔵位置図

 年を重ねて、石仏が身近になりました。道路が広げられたりして、多くが元の場所から遠ざかってまつられていますが、今も道端に居られる姿に接すると安心します。その数少ないお地蔵さんが清水の伝兵衛地蔵さんです。『東大和のよもやま話』はこう語り出します。

 「志木街道が狭山と清水の境で大きくカーブする一角にお地蔵さんが立っています。身の丈六十センチメートルの可愛いいお地蔵さんですが、伝兵衛地蔵と呼ばれています。建立はわからないのですが、台座に享保・宝暦の年号が刻まれており古さを物語っています。

 昔、清水村に代々伝兵衛を名乗る旧家がありました。分家のせがれが行方不明になり八方手をつくして尋ねましたが見つかりません。心配した本家の伝兵衛さんはお地蔵さんを建てて祈願したところ、まもなく無事に分家のせがれは帰ってきました。喜んだ伝兵衛さんはお地蔵さんを自分の屋敷に移して供養をしました。

 村の人も無事に子供を返してくれたお地蔵さんを伝兵衛地蔵と呼んでおまいりするようになりました。(中略)今は土地の人でも伝兵衛地蔵の名を知る人はいなくなりました。誰いうとなく子育て地蔵と呼んでお参りしています。幼な児の健康を願って、ヨダレ掛けや帽子が数多く重なって、いつの世も変らぬ親心をしめしています。近頃は亡くなった水子供養におまいりする人もあると聞き、お花や、お供物が絶えることなく供えられています。(中略)地元の人達にブロックで囲んでもらい、魔のカーブの守り神となっています。」

伝べえ地蔵

 赤いよだれかけが、いつの間にか新しく取り替えられて、ご近所の方々の気遣いに感謝しながらお参りします。
 台座は摩耗していますが、享保11年(1726)、宝暦4年(1754)、宝暦13年(1763)、明和(1764~1771)、寛政13年(1801)の年号が彫られています。造立の理由はよもやま話が伝えるように、行方不明の子返しとされます。

 享保11年(1726)には、三光院地蔵尊、奈良橋庚申塚庚申塔がまつられました。東大和市を代表する石仏が村山貯水池に沈んだ地域、狭山丘陵の南麓、江戸街道にまつられています。当時は、開発ブームで、二年前に、東大和市駅周辺を蔵敷村の村人達が、国分寺新田(国分寺市内)を高木村の村人達が開発しています。活気に溢れながらも、願う何事かがあったことが推察されます。

 宝暦年代は天災が激しく、飢饉が続いた年でした。その背景が関係あるかも知れません。小さな地蔵尊、そこに居られるだけでホッとします。

 東大和のよもやま話に戻る

新堀地域

新堀の家並み

「落ち着いたまちね。ほっとする。新堀って、野火止用水のことでしょう?」
「うん、野火止用水に沿っているところで、町名地番整理前は、三丁目が狭山の新堀、二丁目と三丁目がそれぞれ清水の上新堀と下新堀、そして、現在、林になっている所を含め用水沿いが全町を通して高木の用水北と云う、こみ入った地域だった。
 さらに、まち境の道路が江戸時代のままの道筋なんだ」
 
東大和市町名図新堀地域 
「よもやま話に『芸者にばけた狐』があるじゃない」
「小川新田に住む親戚の結婚式に行って、肴を持っての帰り途、高島田の芸者に出合う。いつの間にか道案内をされて、どこまで行っても村に帰り着かない。やがて、夜が明けたら芸者も肴も消えていた。って云う話だろう。
 あり得るよ、明治15年の地図で見ると、ほとんど全域が雑木林になっていて、昭和30年代までは無人の地域だったもの」
 
用水工夫 
「モニュメントの「用水工夫」、美男子ね!! ワタシ好みだ」
「恋人に捨てられた雄の狐が、化けてんだよ」

東大和市案内図新堀地域周囲色 
神明宮5

  一丁目の街角に天保9年(1838)の神明宮がまつられています。
  凶作が続き、飢饉に苦しんだ年でした。
野火止用水 
 
  新堀地域は野火止用水の原型に接することが出来るところです。

 話題(新堀地域のブログなどをリンクします)

新堀の神明宮(五穀成就祈願か?)

 新堀一丁目 東村山市富士見町と境界を間近に接するところです。用水北通りから南に向かう道の交差する三角点があり、「神明宮」がまつられています。

新堀神明宮位置図 

新堀神明宮三角地

 今では想像も出来ませんが、この地は、昭和20年代には、一帯に楢、椚などの雑木林が連なり、北側に狭山丘陵まで畑が広がり、いわゆる国木田独歩の描いた武蔵野の雑木林の景観を醸していました。林はなだらかに起伏して小さな丘をつくり、神明宮はその頂に石の祠としてまつられていました。

新堀神明宮1
正面 神明宮

新堀神明宮天保

 右側に「天保九戌年 十一月吉日」
 左側に「多摩郡清水村 林吉 定七」と彫られています。

 江戸時代末、清水村の「林吉・定七」家の私的な神祭の場であることがわかります。当時、清水村は狭山丘陵の麓に日常生活圏を営んでいました。ここは、そこから遙かに離れ、農耕の場で、誰も居住者が居ない淋しいところでした。狭山丘陵の峰に入ると、所々に、同じような石祠による静かな神まつりの姿がありますが、この地もそのままの雰囲気がありました。この祠がたてられた

 天保9年(1838)は「1月1日、打ち続き凶年により、四ヶ年の間村内年賀の礼なき所、今年は世間米穀の価い少しゆるみたるにより、先例の如く年賀の礼を始む。」と指田日記が記すように、東大和周辺の経済状況はやや持ち直し傾向にありました。しかし、
・1月4日、向台に斃死(のたれじに)の者あり・・・、
・2月17日、13日に萩の尾の忠右衛門持ちの畑に、四歳ばかりの男子を裸にして捨てあり。依って忠右衛門宅に連れ来たり置き、御支配に訴え、今日 御出役検使
・3月24日、水戸屋小児 疱瘡にて死す
 と不安な日々が続きます。目を広げると
・3月10日、江戸城西の丸が火災により消失
・閏4月、幕府、諸大名に倹約を命じる
・6月、幕府、モリソン号来航の対策を討議し、強硬論と仁政論とで対立
と幕府レベルでは緊張関係が生じています。東大和市内では
・7月19日、芋久保村豊鹿島神社で太神楽、9月15日、獅子舞奉納
と祭りが催される、一方
・9月17日、蔵敷の三本杉のところで仇討ちが行われる
との状況でした。武蔵村山市内では盗賊、狼藉が続き
・11月17日、幕府は5ヵ年の倹約令を出します。このような中で
・11月吉日、神明宮がまつられました。

 なぜ、本村から遠く離れたこの場所に、神明宮がまつられたのでしょうか? ずっと謎を追い続けています。
 結論は得られないのですが、村山貯水池に沈んだ芋窪村の石川地区で神明社がまつられ、そこには

芋窪村神明社
 天保六未年三月 日
 天下泰平五穀成就 
 武埜芋久保村
 と刻まれています。現在、芋窪4丁目の住吉神社境内にこの石神はまつられています。この銘からは、天保6年(1835)飢饉の最中に「天下泰平 五穀成就」を願ってまつられたことが考えられます。さらに類推すると、3年後、少し展望が開けてきた空気の中で、清水村の村人が、居住地から離れた生産の現場に、同じように「天下泰平 五穀成就」を願って神明宮をまつったのではないかと思う次第です。三角地に由緒もなく、存在さえほとんど知られる事無く建つ祠に、立ち止まります。


高木の笠森稲荷

 東大和市に、江戸時代から信仰を厚く寄せられたお稲荷さんが2神知られます。青梅橋の瘡守稲荷と高木の笠森稲荷です。今回は高木の笠森稲荷を御案内します。
 高木神社の前の道(清戸街道)を約200㍍ほど東方へ向かうと左側に石垣が続き、道を挟んだ一角に笠森稲荷がまつられています。東大和のよもやま話に

瘡守稲荷位置図
 
「向う横町の おいなりさんへ
     一銭あげて ざっとおがんで
    おせんの茶屋へ
     腰をかけたら 渋茶を出した
    渋茶よこよこ横目でみたら
     土のだんごか 米のだんごか
      おだんご だんご
と唄われたのは、絵師鈴木春信の描いた美人のおせんで有名な谷中の笠森稲荷ですが、当市内にもこれと同じ名のお稲荷さんが二つあります。

高木笠森稲荷 
高木笠森稲荷

 一つは高木の○○佐一郎さん宅にある笠森稲荷で、もう一つは字は異なりますが、東大和市駅の高架のそばにある瘡守稲荷(かさもり)です。
 ・・・、高木の笠森稲荷は前述の○○さんの祖父にあたる方が祀られたものです。○○さんの祖父は前述の瘡守稲荷のそばの青梅橋のたもとで馬宿をしていましたが、病にかかり瘡守稲荷にお参りをしたところ治ったので、住いのある高木にも同じお稲荷さんを祀ろうと、天保七年に伏見稲荷の別当寺である愛染寺から勧請してきたのだそうです。

 こちらの方も大変に霊験あらたかでどんな病気でもここを訪れて「カサで悩んでいます」と拝みますと必ず治ってしまうということです。これを伝え聞いて、かなり遠くからもこのお稲荷さんにお参りに来る人があったそうです。
 祈願する時には、唄の文句のとおりまず土のだんごを五つ供えます。そして願がかなうと今度は米のだんごをこしらえてお礼に供えるのです。病気が治ったのを喜んでお餅をたくさん供えていかれた稲城の方もあります。」 

高木笠森稲荷祠
新しくつくられた祠

 と紹介されているお稲荷さんです。どちらも疱瘡に霊験あらたかと信仰されました。疱瘡は種痘が一般化されるまでは、命取りに近い病でした。ほとんど医師の居ない江戸時代の村では、修験による病魔払い、お地蔵さんやお稲荷さんに祈ることが精一杯のことでした。
 願いに、土の団子を供え、お礼に、米の団子を供えるなど、当時の村人達の生き様が、今では、ユーモラスに感じられますが、親しみのあるお稲荷さんで、現在も祈りが捧げられています。新しい祠に、しみじみとした暖かさを受けます。また、このお稲荷さんがまつられた経緯が祠の説明板に次のように記されています。

「奉納 正一位瘡守稲荷大明神の由来

 江戸谷中笠森稲荷の分霊を勧請祭祀したもの。
 伝承によると村内で悪病に罹った者があったので、明和元年(一七六四)二月初午の日に、愛宕山円乗院の二十八世法印英玄が勧請導師となって、この場所へ笠守(森)稲荷を勧請した。
 その後、天保七年(一八三六)正月吉辰に、日本稲荷総本宮愛染寺住持十六代目知山より宮鍋定七が、この笠守稲荷社の山城国の、伏見稲荷本願所の愛染寺から、分霊を勧請祭祀し「正一位稲荷大明神」と称した。」

 とあります。狭山丘陵の麓の村でお稲荷さんがまつられた経緯、青梅橋の瘡守稲荷との関係が明らかにされています。

 青梅橋の笠森稲荷へ 青梅橋・瘡守稲荷の額と正月へ
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野火止用水

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