歳神様と厄神様

歳神様

 お正月飾りの時期になりました。東大和市では、歳神様(年神様)をまつる風習がありました。
 ・神棚の真ん中に
 ・床の間に
 ・特別にしまっておいた歳神様のための神棚を飾って 
 おまつりしました。
 歳神様は正月の中心になる神様でした。大きなお供えを供えました。その年ごとに縁起のよい方向に向けて特別に飾ることもありました。そして、お正月の最初の卯の日にお帰りになるので、その日に神棚を片付けました。
 歳神様は特別のようです。

 一方、東大和市の一部では、12月31日に厄神様がまつられました。村山貯水池に沈んだ宅部地域にこんな言い伝えがあります。

厄神様

 日もとっぷり暮れたある晩のこと。
「トントン、トントン」
 家の戸を叩く音がしました。出てみると暗やみの中に見すぼらしいなりの托鉢の僧が、一人たたずんでいます。そして
「一夜の宿をかしてください」
 と云いました。山道で行き暮れてしまい、里の燈をたよりにようやくたどりついたのでしょう。○○家では快よく迎え入れ、手厚くもてなしてあげました。翌朝、その僧は、
「せっかく泊めてもらったのですが何のお礼も出来ません。そのかわりこの家の厄病を祓(はら)ってあげましょう。大晦日の夜、幣束(へいそく)をさんだわら(俵のふた)に差して上りはなにかざり、三方(さんぼう)の辻に納めなさい」
 と告げて立去りました。

 そこで、○○家では大晦日の夜がくると、幣束をさんだわらに差して上りはなに飾り、お神酒とお燈明をそなえて無病息災、家内安全を祈りました。そして一夜が明けると塩ばなで清め三方の辻(三叉路)に納めたということです。(後略 東やまとのよもやま話)

 二つの神まつりが共存する世界がありました。民俗学関係の先生に聞くと同じようなことがいくつかの地に伝わるそうです。お正月の意味を改めて考えさせられます。

玉川上水・野火止用水 清流復活の水

 野火止用水の水は、現在、どこから流れているのか? 
 この疑問を解きに来てぶつかったのが、西武新宿線玉川上水駅南口を降りて間もなくの「上水小橋」に集まる数人のハイカーの声高の会話です。
 
清流復活の玉川上水
「上水小橋」からの玉川上水
昔のままの素掘りに音を立てて水が流れています。

「ここから先、流れてる水は多摩川からの水じゃないって、説明されたけど・・・?」
「そんなことあないよ、羽村の堰からの多摩川の水さ。今は水槽になっちまったけんど、そこに取り入れ口があってよ、ちゃんと石垣が積まれていて、間違いなくそこから流れていた」
 地元の方の話は具体的です。そして説明役 
「確かにそうでした、昭和48年頃までは・・・。でも、今は違うんです」
 と云っても
「いや、とんでもない、この裏で、岩の間から羽村からの水が吹き出してるぜ。」

清流復活口
どうも、ここに、仕掛けがありそうです。

「ほんとだ、水が湧いている」
「大きい鯉もいるし」
わいわい、なかなか納得されません。その種明かしです。

小平監視所周辺

 上水小橋から、東京都水道局小平監視所まで登ります。建物の壁に説明板が掛けられています。

砂川線説明図 
沈砂池から砂川線、小平分水(新堀用水)が地下に潜る

 沈砂池から砂川線で東村山浄水場、小平分水(新堀用水)へと大小の管に分かれて、玉川上水で運ばれてきた多摩川の原水は全部地下に潜らせて運ばれています。これでは、下流の玉川上水へは流れません。現に見てきた水はどこから来ているのでしょう。もう一つの案内板があります。

清流の復活案内板
清流の復活記念碑
昭和61年(1986)8月 東京都知事鈴木俊一
と揮毫されています。
その横に東京都環境局自然環境部の案内板があります。
処理水送水管ルート
東京都環境局自然環境部 清流の復活案内板一部拡大

 昭島市にある多摩川上流処理場から朱書きの現在地=小平監視所まで、点線で送水管が記されています。高次処理された処理水の送水管の経路です。小平監視所の職員さんに聞くと、監視所と先に紹介した岩からの湧き口の間に栓があって、送られてきた処理水が、玉川上水と野火止用水に流されているのだそうです。
 これが、一度涸れた小平監視所から下流の玉川上水に清流が復活した仕組みでした。野火止用水も同じです。こちらは玉川上水よりも早く、昭和59年(1984)に清流の復活がされました。

 昭和40年代末に玉川上水も野火止用水も水が流れなくなり、堀は埋まり始め、汚水が流れ込み、まさに破壊寸前でした。その時の荒れた姿を思うと涙が出てきます。清流復活に多大な努力を傾けられた方々に感謝です。

都立東大和南公園のトナカイ

都立東大和南公園に木のトナカイが居ます。
旧日立航空機株式会社立川工場変電所跡の東側
ボランティアの方々の手作りです。
 
トナカイ 
人間的にも自然的にもあまりにも変化が多すぎた今年
きっと、このトナカイはサンタを乗せて
大きな袋に
穏やかさとくつろぎを
いっぱいに詰めて
持ってきてくれるでしょう。
 
クリスマス 
ボランティアの皆さんに感謝です。
(2012.12.23.記)

野火止用水取入口=不思議なところ

 野火止用水は玉川上水から分水されました。今回はその分水口=取入口を探しに行きたいと思います。
 西武鉄道拝島線玉川上水駅を南口に降ります。頭上を多摩都市モノレールが通り、駅前広場に出ます。実は、この広場、駅舎とバス停の間が、幅の広い橋なのです。「清願院橋」と云います。その下を玉川上水が流れています。清願院橋は、かっての芋窪街道に架かっていた橋でした。現在は玉川上水の下を芋窪街道が走っています。橋からは、開渠の玉川上水の姿が見られます。羽村の堰で取り入れられた多摩川の原水がそのまま流れています。
 
清願院橋3

 駅舎を出てそのまま左(東)に進むと玉川上水を挟んで両側に道があります。どちらを歩いても、300㍍ほどで、東京都水道局小平監視所の施設が見えてきます。

清願院橋5
今回は右側の道を行く
 途中、玉川上水開削時に重要なポイントになったであろう国分寺崖線を越します。
 
国分寺崖線
僅かに起伏が残る国分寺崖線
崖線と小平監視所塀
崖線を越すと左側に東京都水道局小平監視所施設のフェンスが見えて来ます。

野火止用水分水口
この中に分水口=取入口があったと考えます。

 この場所は、小平監視所の沈砂池です。玉川上水の原水を砂で漉して、東村山浄水所へ導水管(管経約2㍍)で送水しています。昭和38年、東京都の新宿副都心計画によって、淀橋浄水所が廃止されて、高層建築のまちに生まれ変わりました。代わりに東村山浄水所が設けられました。玉川上水の水は新宿・淀橋方面へ流す必要がなくなり、東村山浄水所へ送られるように変わりました。
 そのため、ここにあった玉川上水からの分水口(野火止用水、新堀用水)を撤去して、新しく沈砂池や接合井などの施設が設けられました。

 と云う事から、分水口=取入口はなくなってしまいました。その位置を探すと、上画像画面奥に見える現在に残された野火止用水と玉川上水の位置や周辺の建物の位置から割り出して、沈砂池辺りにあったと思われます。

野火止用水分水口2
江戸時代の分水口
 
 江戸時代の文書に残された図を復元してみました。石垣積みで木の堰板が水量を調節していたようです。玉川上水7に対して野火止用水3の割合で分水されました。この姿は、すっかり無くなってしまいました。やむなく、現在の姿を追います。
 
現在の野火止用水出発点
現在の野火止用水の出発点

 ここから不思議が始まります。
①この場所から、現在の野火止用水は始まります。しかし、この場所を訪ねても用水の姿はありません。
 煉瓦敷の遊歩道の下を流れます。東大和市駅を過ぎて暫くするとせせらぎになって現れます。ただし、この水は多摩川の原水ではありません。
②画像の右側を降りると玉川上水の堀に出ます。そこにはこんこんと清流が流れています。しかし、これも、多摩川の原水ではありません。
③玉川上水に沿って、もう少し下流に行くと新堀用水が顔を出します。ここには、多摩川からの原水が流れています。
 
 さてさて、玉川上水の水は小平監視所で東村山浄水所に送られているのに、なぜ、野火止用水にも、玉川上水にも水が流れるのでしょうか?
 なぜ、新堀用水に、多摩川の原水が流れるのでしょうか?

 この場での水の処理は複雑です。次に紹介します。

野火止用水と東大和の村

 東大和市の南端を流れ、東大和市と小平市の境となるのが野火止用水です。武蔵野の原野に一筋開削された江戸時代の姿は全く残っていませんが、東大和市の形成に基本的な関わりを持っています。ここが、当時、苦難を重ねて新田開発をした村の南限でした。或いは、狭山丘陵の麓からこの地を目指して生産基盤を創りだしたと云った方が適切かも知れません。 野火止用水は玉川上水からの分水です。次の順序でつくられました。

玉川上水

・承応元年(1652)、玉川上水の開削を決定
・承応2年(1653)、四谷大木戸まで開削、翌3年(1654)完成

 玉川上水の工事については、工事の進め方を含めいろいろの議論がありますが、ここでは、4代将軍徳川家綱の業績を幕府が記録した、公儀日記の次の記録に従っておきます。 
・承応2年(1653)正月13日
 「麹町・芝口の町人 水道の儀訴えのところ、相済み、七千五百両を賜る。水筋は玉川(多摩川) よりこれを取る」
・承応3年(1654)6月20日
 「多波川水道 当御地へ用水来候 御褒美のため 請取候町人へ 金子三百両これを下さる」
 
玉川上水図色入り 

野火止用水

 野火止用水は、玉川上水の完成の翌年、川越藩主松平信綱がつくりました。松平信綱は時の老中で、玉川上水工事の総奉行でした。無事完成の褒美として、自らの支配地野火止への分水の権利を得ました。

・承応4年(1655)2月10日、着工 3月20日、野火止地域・新河岸川(新座市・志木市)まで開削 完成 
 堀の長さ24キロ 工事日数は40日間(閏月を挟む)
 費用3000両 松平信綱の家臣である安松金右衛門が総指揮
 分水量 玉川上水7、野火止用水3の割合

東大和市との関係=新田開発

 玉川上水、野火止用水が完成すると、翌・明暦2年(1656)、岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛が石灰運搬の中継ぎ場をつくる願いを出し、小川村の開発に乗り出します。
 狭山丘陵の麓に生活の基盤を置いていた、芋窪、奈良橋(含む蔵敷)、高木、後ヶ谷(後に狭山)、清水の村人達も一斉に南へと目を向け、無人の曠野の切り開きを始めます。

 芋窪村 万治元年(1658)立野地域
 高木村 寛文9年(1669)海道内(現在の新青梅街道付近)、仲原。 延宝2年(1674)堀際
 後ヶ谷村 寛文9年(1669)砂の台(現在の空堀川周辺)、江戸街道向。 延宝2年(1674)堀際

 堀際は野火止用水の堀を意味します。松平信綱は伊豆守(いずのかみ)でしたから、野火止用水は「伊豆殿堀」(いずどのぼり)と呼ばれました。

玉川上水・野火止用水開削と新田開発 

縦に細長い村が出来上がった

 弁当を開くと、いっぺんに舞う赤土で彩られたという、赤っ風にあおられながらの開発の結果、出来上がったのが、狭山丘陵の親村から、野火止用水際まで連なる細長い村でした。しかも、その境界は極端に入り組んでいます。検地の状況を見ると、村境は最後の段階で開発されています。多くの調整が必要だったのでしょう。武蔵野の新田開発が一般化される享保7年(1722)には、東大和市域の村々では、ほとんど新田開発が終わっている状況でした。
 この村々は独立心が高く、大正8年(1919)、合併して「大和村」になりますが、政争の激しかった村々が「大いに和す」ことを願って、その名を「大和村」としたとされます。

細く長い村

 このように、野火止用水は村域を画するもととなって、現在に引き継がれています。 

 東やまと20景・4 野火止用水に戻る

南街地域

映画館があった辺り
大和通り(映画館があった辺り)

「南街って細い路地がいっぱいあって、人懐かしくなるまちね。ちょっと入ると、お隣同士って感じで、これが、人っ子一人居ないところに出来たまちとは思えない。」
「うん、まちが出来たのは、昭和12年(1937)から13年。大森から東京ガス電機工業(株)が引っ越してきた。立川飛行場が近いということで、飛行機のエンジンを作る会社さ。
 だから、南街と一口に云うけど、工場群と社宅・福利厚生施設群が併さっている。その社宅・福利厚生施設群が現在の南街で、工場群が桜が丘。ただ、社宅がどのような規模だったのかは、わかっているようで、はっきりしない」
 
東大和市町名図南街

「今の南街地域とは違うの?」
「ほぼ同じようだけれど、もっと広くて、西は立野三丁目までは含まれていた。ダイエーがあったところは、青年学校だったし、森永の近くに第三社宅があった。青梅街道から東は、修練所として、広大な農地があったそうだ。現在の向原六丁目に当たる。聞く人様々な答えで、ここもはっきりしない」
終戦当時の南街 
「映画館や楽隊の演奏場もあったんだって?」
「映画館は今のいなげやさんのところで、楽隊の演奏場は南街公民館のところにあった」
「最初は「みなみまち」って呼んだって?」
「終戦直後の東大和市の想定図をつくってみた。奈良橋の庚申塚と清水の江戸街道付近に主に村山貯水池から移転された方々が住んで居られた。それ以南は南街を除いて住居は一つも無かった。
 庚申塚から、結構、遠く感じたよ。そう云うこともあったのか、狭山丘陵の旧村を「本村」(ほんそん)、南にできたまちを「みなみまち」って呼んでいた。終戦直後の昭和20年には「本村」「南まち」の区分が普通だった」
「バスの車掌さんが「ナンガイ」って云い始めたって本当?」
「多分そうだろうね、地元の人は「南まち」で、ちっとも違和感はなかったけど、「南街」と書いて「みなみまち」と読むのは結構難しいかも知れない」
南街地域2

「最初から南街には水道があったんだって?」
「簡易水道だけど、蛇口をひねれば水が出て、珍しがられたそうだ。トイレはくみ取りだったけど、生活排水は下水道だった。昭和10年代の初め、この辺は井戸が普通だったから、本村の人にとっては一種のカルチャーショックを受けたというよ。
 まちについては、きりがないから、追々、話すよ」

路地の間を挨拶が通う
路地の間を挨拶が通う

 インパクトの強かった南街ですが、当時の社宅は建て直しが進み、まちの姿は変わりました。しかし、注意して歩くと、新旧交々の姿を目にします。何枚かの地図を眺めていると、現在の東大和市は、古代からの歴史を持つ狭山丘陵南麓の「本村」と、昭和12年以降の新しいまち「南街」を核にして、形成されていることに気付きます。

・東京瓦斯電機工業(株)の立地(社宅・厚生域)
 変電所跡(平和広場)
 当時の姿を残す社宅
・青梅街道、桜街道(第二の江戸街道)、バス停・ガス電通り、富士見通り
・地域防災計画
・新海道公園、栄公園、末広公園、協和公園、協和子ども広場、山王公園
・モニュメント
 鳥と子ども達 へびのステッキ
・よもやまばなし
 45山うなぎの蒲焼きとステッキ(100)、47南街のブラスバンド(105) 48賛報会館と映画館(108)
 49日立だんなと日立乞食(110)79娘っこに化けた狐 (176) 

話題(南街に関するブログなどをリンクします)

青年学校跡に小学校、中学校

 ショッピング施設の建設が進みます。その槌音を前にして、第二次大戦中、ここに青年学校があり、多くの青少年が全国から集まっていたことに思いを馳せます。そして、終戦直後、新教育制度に対応しようと、学校施設確保のため、東大和の村人達がこの地に繰り広げた涙ぐましい運動の経過が、めぐるましく浮かび上がります。
 
ダイエー跡地3のコピー
ショッピング施設(ヤオコー)の建設が行われている

 昭和14年(1939)、この地に日立航空機付属青年学校が開かれました。昭和20年、米軍の空爆で工場群は壊滅しましたが、青年学校は残りました。戦後、教育制度は大きく変わり、青年学校制度は廃止されました。
 昭和22年(1947)4月、六、三制・義務制による小学校と中学校、そして、昭和23年、新制高等学校、昭和24年新制大学校による新しい学制が始まりました。ところが、戦後の混乱期、何もかも不足します。とりわけ厳しかったのが、村には、新しい教育制度が発足しても、それに対応する教室が無い事でした。この危機を救ったのが青年学校の校舎でした。

小学校
南街の子供達は大和小学校へ通った_edited-1

 昭和20年の終戦当時、大和村の小学校(当時は国民小学校)は現在の第一小学校のところに一つだけありました。南街の子供達もそこに通いました。南街には、戦前からの日立航空機の工場の社宅・家族寮があったことから児童の数が多く、村全体として深刻な教室不足が起こりました。やむなく、小学校で、午前・午後の二部授業が行われる状況でした。
 戦後の混乱で学校建設は出来ませんでした。南街から現・第一小学校までの通学は低学年児童にとって過重な負担でした。また、新制中学校の発足により、大和小学校の更なる二部授業の必要性が増し、その解消を急がせました。
 そこで、注目されたのが青年学校跡の校舎の利用でした。議論の結果、小学校の通学区域を分けて、青年学校跡に、学習の場をつくる事になりました。

小学校分教場設置の頃


昭和21年5月、もと青年学校の校舎を借りて、南街地域の4年生以下を対象とする「仮教室」「分教場」が発足しました。 

中学校

小学校分教場・中学校設置の頃22年


昭和22年4月、新学制のもとに中学校が必要になりました。これまでの小学校卒業後、2年制の高等科の子供達が中学生として移ります。当時の村には、中学校用の校舎はありませんでした。新しく建設も出来ませんでした。法律の定めに応じて
昭和22年4月1日、ともかく、大和中学校を開校します。 
昭和22年5月10日、開校式が行われました。新校舎がないため、現・第一小学校校舎の校舎を間借りしての開校でした。当時の北校舎の3教室でした。
 小学生と中学生がごった返します。教室のやり繰りのため、小学校1・2年生の授業を午前中で終わらせて、中学校の授業を午後に実施する事になりました。この急場凌ぎは、すぐ、問題となりました。その解決のために選ばれたのが、もと青年学校校舎でした。村はもと青年学校の校舎を借りる事を決めます。
昭和22年9月8日、大和中学校は南街に移り、もと青年学校の校舎で授業をすることになりました。
昭和23年12月26日、大和村はもと青年学校校舎を買収します。
 こうして、日立航空機付属青年学校の旧校舎には、大和村の小学校と中学校が併設されました。中学校の生徒達は鎌や草かきを持って、毎日のように、草ぼうぼうの校庭整備を進めました。父兄も駆けつけ地域ぐるみの活動が続きました。

小学校分教場・中学校設置の頃2_edited-1

 一方で、折からの青少年の非行化を背景に、小学校側から、小・中学校の同居による児童生徒の「不良化」の問題が提起されました。小・中学校の連携が課題となり、PTAの組織化、地域と教職員との協議がもたれ、望ましい教育環境の整備を進める事になりました。南街への小学校の建設促進の気運が沸き起こり、昭和26年(1951)南街の人々により「南街分校設立促進委員会」が結成されました。翌27年、教育委員の選挙が行われ、大和村教育委員会が発足しました。村は、南街に小学校の建設を決めました。そのようなとき

昭和27年(1952)9月25日、村は突然、国から、日立航空機工場群の土地(西武鉄道が所有)を「米軍空軍施設建設」にあてるとの通知を受けました。小学校の分教場・中学校校舎の目の前です。
昭和27年12月25日、村は、「在日合衆国軍兵舎建設反対」の村民大会を開き、村をあげての反対運動が展開されました。運動の最中

昭和28年(1953)5月、南街に新設の小学校が建設され、大和小学校分校が発足しました。やがて、第二小学校になります。
昭和28年3月5日、反対を続ける村に、兵舎建設の公文書が届きます。強制収容を伴う内容でした。村は補償交渉に転換し、中学校の移転を決定しました。
昭和30年(1955)、大和中学校校舎新設に着手しました。
昭和31年2月、工事が完了、大和中学校は現在の第一中学校の地に移りました。

第二小・大和中学校の建設_edited-1

 現在、東大和市には5つの中学校と10の小学校があります。その最初の出発の時の出来事です。要点を箇条書きにしました。もし、青年学校の校舎がなかったら、と当時の経過が現実と二重写しになります。
 当時の画像を添えられないのがとても残念です。東大和市史、同資料編、写真集東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の昭和史(千秋社)などを参考にして下さるようにお願いします。



日立航空機付属青年学校跡

 今では、想像も出来ませんが、画像の位置に「青年学校」がありました。日立航空機株式会社の工場の付属施設として設けられた戦時中の教育施設です。全国から青少年が集まりました。この学校で学び、青春をこの地に焼き付けた若者が一時は約3000人以上生活して居たとされます。
 
青年学校跡
解体前のダイエーと丸山台団地。
青年学校はこの一帯にあった。中央の道路はなかった。
 
青年学校跡周辺図_edited-2

青年学校


 昭和14年(1939)4月1日、青年学校はこの地に開校されました。正式名称は「日立航空機付属青年学校」です。前年に、現在の南街と桜が丘の地域に、工場群と社宅群を建設した東京瓦斯電気工業株式会社の大森工場から移設されてきました。東京瓦斯電気工業株式会社は1年で日立航空機(株)と名称変更したので、青年学校は「日立航空機付属」を名乗っています。

 青年学校は小学校卒業後、旧制の中学校、高等女学校、実業学校などに進学しないで、職業に就いた勤労青少年・少女のために設けられた教育機関です。日立航空機付属青年学校は勉強しながら、有給で、工場に従事し、教育期間は5年間でした。二階建ての建物で、講堂、教室、食堂、居住室によって構成されていました。修身、公民、国語、数学、英語、物理、力学、機械工学、材料学などの教科がありました。学校長や教官は 

 学校長  竹本宇太郎 陸軍少将
 軍事教官 梅沢 克己 陸軍中尉他
 とされるように、当時の時代の風潮の最先端でもありました。

 最盛期には3000名の生徒が全国各地から集まったと伝えられます。近隣町村の子弟も入学が認められ、当時の大和村の青年も学んでいます。午前中授業、午後は実習または作業でした。『実習工場では、機械工になるための旋盤操作、万力に金属を取り付けハンマーの打ち方(ハツリ)や、ヤスリをかけて仕上げる工法、ゲージやノギスの使い方など・・・』が行われています(東大和市史資料編4p34)。工場生産への実技が日課であったことがわかります。

日立航空機付属青年学校位置図

 残念ながら、この青年学校で過ごした青少年達の生き様はわかりません。多感期の少年、青年達には多くの出来事があり、想い出が築かれたと思われます。この記事を目にして、当時の事を知る方が居られましたら、是非、お話をお寄せ下さるようにお願い致します。数少ない資料の中に、東大和のよもやまばなしとして、次の話題が伝えられています。

【山うなぎの蒲焼きとステッキ】

 第二次世界大戦の頃のことです。当時の大和村も戦争が進んでくると、配給がきびしくなり食糧も不足になってきました。
(一部省略)栄養補給のため「山うなぎをたべた人もいた」と聞いたので、よく話を聞いてみたら、それはヘビの事でした。
 現在の玉川上水駅付近は、雑木林が続きワンパク少年達の遊び場でした。
 そこには長さ七〇センチメートルから一メートル位の、茶色に黒の縞蛇(しまへび)や、青大将、黒い地もぐりが沢山いました。
 地方から日立航空機に動員された青年の中に、ヘビ取りのじょうずな人がいました。 まず雑木林から、適当な木の枝を見つけ先を割り、紐をつけた棒をはさんで簡単なヘビ取り器をつくります。
 ヘビを取る時は、細工した枝を何本も用意して出かけ、ヘビを見つけたらそっと近づき、首をはさんでひも紐を引くと、ヘビは苦しくて棒にまきつき簡単にとれました。 とったヘビの肉は骨つきのまま、四、五センチメートルに切って串にさして、醤油をつけて焼いてたべました。くさみもなく醤油の味がよくしみて、「山うなぎの蒲焼き」と云って貴重なタンパク源となりました。

 又、ヘビでステッキを作った人もいました。・・・風通しのよい場所で蔭干し乾燥させると、皮が棒にぴったりとはりついて、立派なステッキができ上りました。(一部省略)

 南街5丁目の栄公園の一角にモニュメント「へびのステッキ」が設置されています。

へびのステッキ

戦後教育の宝物となる

 この青年学校の建物は、東大和市にとって、戦後教育の宝物となりました。工場群は昭和20年、米軍の爆撃で壊滅しましたが、校舎は戦災を免れました。桜街道の真ん中にやけ焦がれた桜の木が続き、不思議と残った二階建ての青年学校の姿が印象深く語られました。

 戦後、青年学校制度は廃止され、小学校6年、中学校3年の義務教育、高校3年、大学4年の新しい教育制度が発足しました。当時の大和村には、こ新制度に対応する校舎がありませんでした。厳しい教室不足が生じ、その対策として青年学校の建物が生かされました。
 現・第二小学校、東大和市最初の中学校(現・第一中学校)の教室となって難問が乗り越えられました。これらの学校にとっては、創建に近い地と云えます。次のページで紹介します。

 当時の画像を添えられないのがとても残念です。東大和市史、同資料編、写真集東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の昭和史(千秋社)などを参考にして下さるようにお願いします。

何を語るか「新街道」バス停

 地元の人でも、
「こんな所にバス停が・・・?」
と注意されなければその存在に気付かないほど地味なバス停。
 
新街道バス停
これが、我が主人公「新街道」バス停です。
新街道バス停時刻表

 友人は早速、時刻表を写します。普段の日にバスが通るのは、朝5時32分と46分の2本だけ。日曜・休日には朝5時53分と6時10分の2本。しかも、行く先は一つ先の停留所の「南街」まで、

「こりゃー、乗る人は居ないよ」
とぽっつり。
「でも、西武バス立川営業所から来るんだぜ、その間の人にとっては貴重な存在だろ」

新街道バス停3

 一方、道の反対側では、平日だけ、夜の8時20分、西武バス立川営業所行きが1本通ります。
「これ、まっとうのバス路線かい・・・?」
「ちょっと待ってくれよ、本数が少ないだけで、立派な往復路線だよ。バス停は、まさに現役だぜ」
「そう片意地張らなくてもさ・・・」
と慰められますが、名前が何とも良いではありませんか。

 東大和市には市の中央部を横断するように新青梅街道が走ります。別名「江戸街道」と云われるように、江戸時代初期には、まさに江戸へ直通する道でした。天正19年(1591)、村々に配属されてきた家康の直属家臣が江戸城登城のため馬で通った道であり、青梅・成木から石灰が運ばれた道です。

新街道バス停1_edited-1

 しかし、箱根ヶ崎から東大和市域を通って田無に達する間は水場もない無人の荒野でした。「武蔵野の逃げ水」の言葉が、人々の難儀さを伝えます。
 承応2年(1653年)から3年にかけて玉川上水が開削され、明暦元年(1655年)野火止用水が開かれます。
 機を得たりとばかり、岸村の小川九郎兵衛が、無人の荒野の中間に、交通の中継ぎ場として、小川村(現・小平市)を開村しました。
 物流は箱根ヶ崎から中継ぎ場の小川村を通って田無へと変わります。新しい道ができました。第二の江戸街道です。

新街道バス停2_edited-1 
 東大和市域の村人達は、この道を新街道と呼びました。狭山丘陵の麓を本拠とする村人達は必死に野火止用水めがけて新田開発を行いました。そして、新しい道の周辺には「新街道」という地名を付けました。

 バス停はこの名を名乗っています。赤っ風の舞う中を苦労しての畑つくり、その村人達の意気と心根を伝えているように思えます。
 どうか、消えるのではなくて、乗降客が増え、時刻表が埋まり、バス停の利用者が列をなして、「新街道」の名が利用者の間で日常化するようになって欲しいと切に願います。

いつまでも残したい「ガス電通り」バス停

 東大和市桜が丘一丁目、南街五丁目の間を通る桜街道(旧江戸街道)の傍らに「ガス電通り」のバス停があります。
 
ガス電通りバス停西方向

ガス電通りバス停
ガス電通りバス停

「電車が通っていたの」
「いいえ、れっきとした江戸時代からの街道で、旧青梅街道、地元では桜街道と云います。そこを西武バスが通っていて、立川営業所から新街道を経由して南街に達する往復路線のバス停です」

と珍問答が続くところです。

ガス電通りバス停_edited-1

 時刻表を見ると、立川営業所方面からの南街行きは、平日5時31分、同45分、土曜5時32分、55分、日・祝日5時52分、6時10分となっています。
 南街から立川営業所方面は、平日のみ、西武バス立川営業所行き20時21分となっています。

ガス電通りバス停東方面
立川方面へのガス電通りバス停

 この時間帯では、ごく一部の利用者が使っているようです。しかし、このバス停は貴重な地名を名乗ります。昭和13年(1938)から14年(1939)にかけてのことです。この地域は武蔵野の原野を開墾した一面の畑で、桜街道の南は薪や炭、落ち葉を堆肥とするための林が続いていました。その中に、大森に本拠を構えていた「東京ガス電機工業株式会社」が工場、社宅・寮などの建設を進めました。戦時体制下、1年で日立航空機株式会社と名を改めて陸軍の航空機エンジンの生産に携わりました。その最初の名を残しています。

ガス電通りバス停位置図

 今では景観を全く変えていますが、この通りの南側に工場群、北側に社宅・寮、福祉施設群がつくられ、その中央を通って居たのが「ガス電通り」でした。
 工場群は昭和20年(1945)2月から4月にかけてのアメリカ軍の爆撃により徹底的に破壊され、桜が丘と名を変えて新しい景観をつくっています。破壊を免れた住宅群は「南街」と名を変えて市街地を形成して居ます。
 
 「ガス電通り」は、工場建設当時の人々が、時には誇りを持って使った呼び名でした。他にはありません。西隣のバス停は「新街道」です。これは恐らく江戸時代の人々が名付けたものと思われます。次に紹介しますが、両方ともいつまでも残してほしいと思います。

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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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