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玉川上水 江戸時代の赤土に感動

 玉川上水は紅葉が真っ盛りです。行き来する人の心も和むのか、笑顔での挨拶が交わされます。

玉川上水小川

 その中で、都立小平西高校東側で、玉川上水の縁(土揚敷・散歩道の柵と上水の間)の発掘調査が行われていました。東大和市清水(武蔵大和駅付近)から国立駅に通ずる都市計画道路(東大和市内では「けやき通り」の愛称)の整備(架橋)に先立つ調査でした。

玉川上水発掘調査
両側の一部が調査されていた

玉川上水発掘箇所
発掘箇所(白い土嚢に囲まれた箇所)と上水の壁の現状

 ほぼ垂直に近い堀面の上に、発掘した地層の断面を見る事が出来ました。赤土の層がはっきり残されています。発掘担当の方の説明は、懇切丁寧で、承応2年(1653)、玉川上水開削の際のロームと考えられるとの見解を話されました。武蔵野の原野を開削した500年近く前の赤土で、これには、感激しました。

玉川上水ローム
発掘された江戸時代の赤土

 さらに、興味がそそられます。赤土を挟むように重なる黒土は上が開削後、下が開削前と理解できます。その開削前がどうなっていたのか、この黒土は語るはずです。雑木が生えていたのか、ブッシュか、草原か、武蔵野が夢のように浮かびます。しかし、そう簡単ではなさそうです。「もしかしたら削平されていたかも」との指摘もありました。改めて、玉川上水の工事の仕方が解明されるかも知れません。これからの調査成果と報告書の発刊がまたれます。感動、感動の一時でした。(2012.11.25.)

都立東大和南公園の紅葉

 都立東大和南公園の紅葉が見頃です。

南公園子供野球
子供達の声が足を止めさせます。

 東大和市は現在、玉川上水周辺にマンションの建設が進み、子供の数が増えています。
 
 都立南公園北入口付近の紅葉
午後3時から4時、静寂な時が流れ、孫と祖父母の散歩が増えます。

都知事ポスター掲示板
東京都知事選挙ポスター掲示板

 都立東大和南公園から玉川上水駅に向かう道に、東京都知事選挙のポスター掲示板が設置されています。まだ、誰も掲示されていませんが、やがて名が並び、誰が栄誉を手にするのか、気懸かりな日々を迎えます。

青梅橋の瘡守稲荷

笠森稲荷旧位置
東大和市駅北側駐車場

 かって、この場所にお稲荷さんがありました。桜の大木があって、夏には大きな日陰をつくり、秋には見事に紅葉して道行く人の目を留めました。
 江戸時代から、瘡守稲荷(かさもりいなり)と呼ばれて、有名でした。疱瘡(ほうそう)の「かさぶた」にちなんだのでしょうか、「カサをおとり下さい」とお願いすると、どんな病にも霊験があるとのことで、地元だけでなく遠くからもお参りに来ました。
 
旧・瘡守稲荷 
 
この地方で、疱瘡は命取りの病でした。武蔵村山市中藤の指田氏が残した指田日記には 
天保6年(1835)5月28日、箱根 ヶ崎で子供が疱瘡にかかったことが記され
 天保7年(1836)1月12日、中藤村○○疱瘡湯流し。○○の娘、疱瘡にて死す
  1月26日夜、○○娘、疱瘡にて死す
  3月3日、中藤入り○○娘疱瘡湯流し
  3月7日、東隣小児疱瘡湯流し
  3月21日、東隣小児、疱瘡にて死す
 と、死亡記事が重なります。そして、治療は「湯流し」という、修験の行による病魔退散、病気回復でした。しかし、それも叶わず、死亡する子供達が多かったことを伝えます。このような中で、瘡守稲荷は真剣に祈られたようです。このお稲荷さんにお願いして病が治った方が、霊験を重んじ、天保7年(1836)、高木村の自宅に、新たに笠森稲荷を勧請されています。このお稲荷さんも、稲城などの遠方からお参りに来ています。

 お稲荷さんは、青梅橋付近の方々(小平市域)がお守りしています。なお、狛狐の中(下図祠正面)に、芋久保邑 施主 乙幡徳左右衛門の銘があるものがあります。乙幡さんは、青梅橋のたもとで酒屋を営んでいたと伝えられ、東大和市の方々も係わっていたことが考えられます。

 瘡守稲荷さんは江戸時代にはもっと南の青梅橋のたもとにあったことが、天保5年(1834)に発行された『御嶽菅笠』の図から想定されます。青梅街道や八王子道の交差部に位置し、旅する人々もホッと一息入れて、お参りしたことと思われます。
御嶽菅笠青梅橋模式図笠森稲荷
この図では野火止用水の南側に祠がある

 現在は、鉄道の高架化、駅前広場の整備によって、下図の場に遷されています。赤い旗がひらめき、いつも狛狐に迎えられます。

瘡守稲荷新旧地_edited-1 

現・瘡守稲荷
現在の瘡守稲荷


 高木の笠森稲荷へ 青梅橋・瘡守稲荷の額と正月へ

青梅橋の移り変わりを見守った庚申塔

 東大和駅南口、降りて左に進むと西武拝島線が高架になっています。その少し南に、青梅街道と立川方面からの道路の交差点(小平市域)があり、そこに、庚申様が祀られています。青梅橋と密接な関係があり、かっては道しるべとしても親しまれていました。

青梅橋庚申塔
(クリックで大)
横断歩道の辺りに青梅橋が架けられていた。
祠の中に庚申塔、左はかっての青梅橋の橋柱。

青梅橋庚申塔2
縦98 幅36 厚25㌢

 塔身正面に  奉納庚申供養
 塔身右側面に 安永五歳申二月吉日(1776)
        西 おうめみち
        北 山くちみち
 塔身左側面に
        東 江戸
        南 八王子 道
   武州多摩郡小川邑講中二十人

と彫られています。安永5年は西暦1776年で、この庚申塔は240年近く青梅橋周辺の動きを見つめてきています。また、道の表現も細かく、「おうめみち」「山くちみち」と細路は平仮名で、「江戸」「八王子」への街道は道と書き分けたのでしょう。奉納された方々の気持ちが伝わってきます。
 
 長い間に、どのようなことが青梅橋であったのか、ゆっくりと語って下さったらと常に立ち止まります。と同時に、山くちみちは現在のどの道を辿ったのか、この庚申様は御嶽菅笠ではどこに描かれているのか、最初からこの位置にあったのか・・・、など、いくつかの謎解きが浮かんできます。

庚申塔道しるべ
(クリックで大)

 青梅橋は昭和38年(1963)、野火止用水が暗渠となったため取り壊され、かってあった西武鉄道・青梅橋駅も昭和54年(1979)に、東大和市駅と名が変わりました。現在残るのは青梅橋という交差点名だけです。庚申様にはいつまでも、ここに居られて、めっきり増加した交通の安全を守って頂きたいと祈るばかりです。

小川一番組御嶽講

御嶽菅笠の青梅橋

 青梅橋は何度か姿を変えたようです。その姿を天保5年(1834)に発刊された 『御嶽菅笠』(みたけすげがさ)で目にする事が出来ます。日本橋から御嶽山まで、ほぼ16里(約64キロメートル)を、時には幟を持ち、菅笠姿の御嶽詣での旅人と共に案内される絵入りの御嶽山道中記です。その中に、青梅橋の図があります。現地が詳細に描かれ、周辺との関係が鮮やかに描き出されています。貴重な文化財であり、参考にしながら原図の雰囲気を毀さないように模式的に図にしました。
 
御嶽菅笠青梅橋模式図_edited-1
御嶽菅笠の青梅橋
(クリックで大)
 天保5年(1834)の段階では、青梅橋を中心に何軒かの家があります。つくりから青梅橋の北側(東大和市域)の家は、東大和市で伝えられるように馬宿と思われます。橋の南側(小平市域)の家は休息の茶店、或いは宿泊が可能であったかもしれません。

 鳥居と社(やしろ)が野火止の南岸(小平市側)に描かれています。立川市方面・小平市方面からの交差部です。この社が疱瘡稲荷とすれば、いつの時点か、野火止の北側に遷られたことになります。東大和市内では、天保7年(1836)に、疱瘡稲荷の御利益で病が治り、高木に同じお稲荷さんを勧請した話が伝わります。

 野火止の北側は千本桜とあるように、桜が植わっています。東大和市内で桜街道と呼ばれる所以です。
 橋を渡ると奈良橋方面に向かう道が描かれています。道しるべに導かれるように曲がりくねって山口観音方面に向かっています。現・青梅街道か、奈良橋を経て八幡神社の東側を通り山口観音に通ずる道、或いは、高木を経て貯水池に沈んだ杉本・山口に向かう道と思われます。

 この道しるべが、現在、西武鉄道高架の南(小平市域)に祀られている庚申塔であれば、安永5年(1776 小川村講中)に造立されていますから、この絵の描かれた時点で、すでに、60年近く、道行く人を見守っていたことになります。

 御嶽・青梅方面には、原の中に、丸山台の一つ家(現武蔵村山市内で、東大和市との境界近く)があります。天保7年(1836)11月1日に、賊が押し入り狼藉を働こうとして、逆に手槍で退治された話が伝わります。
 
 その他は「武蔵野原」と描かれます。野火止用水が開削されて間もなく、狭山丘陵の麓から新田開発をした村人達の汗の結晶である畑が連続しています。

 『御嶽菅笠』の絵はかっての青梅橋とその周辺を知る貴重な資料です。著者は斎藤義彦、出版は御嶽山の神官である靭矢市正(うつぼやいちまさ)です。貴重な版木は武蔵御嶽神社の御師宅に現存するそうで、青梅市の有形文化財に指定されています。西武鉄道高架の南(小平市域)に小平市が設置した案内板に、青梅橋部分が紹介されています。

勘定奉行 川路左衛門尉

青梅橋はいつ架けられた?

 青梅橋はいつ架けられたのか、どんな背景があったのか? 現在では景観が一変し、橋を見る事が出来ませんが、まだ橋があった頃から、通る度に気になっていました。
 
青梅橋位置
かって青梅橋が架けられていた位置

 青梅橋は野火止用水に架けられた橋です。従って、野火止用水が開削される以前はなかったはずです。

野火止用水が開削される前の青梅橋の位置_edited-1

 野火止用水は玉川上水から分水されました。その時期は、承応4年・明暦元年(1655年)です。青梅橋が架けられたのはその時でしょう。玉川上水・野火止用水の工事は次のような経過を経ています。

玉川上水
 承応2年(1653年)4月 4日、工事開始
 同年        11月15日、四谷大木戸まで掘り上げ
 承応3年(1654年)6月    四谷から虎ノ門まで埋設、関連工事すべて終了・完成

 まさに突貫工事でした。ただし、この年は閏年で、6月が2回ありますから約8ヶ月の工事になります。しかも、この間に、府中と福生で水がしみ込んでしまう「失敗堀」があり、ルート変更したとの話が伝わります。さらに、工事費について、工事請負者・玉川兄弟は、幕府から渡された6000両を高井戸で使い果たし、不足金について、手持ち金2000両と家屋敷を売り渡して得た1000両を工面したとの書き上げがあります。ルート変更と云い、工事費と云い、実際はどのように処理されたのか興味津々です。

野火止用水
 こっちも突貫工事でした。時の老中、玉川上水工事の責任者、川越藩主であった松平信綱は承応3年(1654年)玉川上水が完成すると、その翌年の明暦元年(1655年)には早々と野火止用水の開削に着工し、年内に完成しています。
 
 承応4年・明暦元年(1655年)2月10日着工
                  3月20日完成
 工期40日間、工事費は3000両、信綱が負担したとされます。分水は松平信綱への玉川上水の開削に対する褒美でした。

青梅橋が架けられた?
 野火止用水が開削された段階で、青梅橋の辺りに何らかの橋が架けられたことが推定されます。当時、周辺は武蔵野の原野で、尾張徳川家の鷹場に指定されていました。人家は皆無でした。その中を、府中・立川方面へ通ずる府中道、田無~箱根ヶ崎間の野道が開かれていたと考えられるからです。

本格的な橋
 本格的な橋になったのは小川村の開発後でしょう。
 玉川上水・野火止用水の開削の動きに岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛は敏感に反応しました。野火止用水が開通した翌年の明暦2年(1656)、小川氏は幕府代官今井八郎左衛門に、岸村から遙かに離れた地(現小平市)に、青梅成木からの石灰輸送のための「石灰御伝馬継・新田開発」の願いを出します。趣旨は箱根ヶ崎宿から田無宿の間人家が皆無で、石灰輸送に難渋する、そこで、中間地点に中継場をつくって便に供したい、というものでした。この段階では石灰輸送路は、北に位置する江戸街道(現・新青梅街道 図では最初の江戸街道)が主であったと考えます。

 願いは認められ、明暦2年(1656)に、開発のため47名が入村したとされます。ところが、開発に着手したばかりの翌年・明暦3年、4年と続いて江戸市中で大火が発生しました。特に、明暦3年の振り袖火事では、江戸城の本丸が焼失、焼失町数800町などの大被害が発生します。石灰需要は一気に増し、その輸送量も急速に増えています。村作り最中の小川村に多大な伝馬継ぎ負担が生じたことを伝えます。

玉川上水・野火止用水開削と青梅橋_edited-1

 石灰輸送のルートも変わったようです。そのルートは、北に位置する図の最初の江戸街道から、南(上図では小川村開発後の江戸街道、東大和市内では現在の桜街道)に主力が移ったようです。地元では旧青梅街道と呼んで、江戸街道と区別しています。この道が、やがて、石灰輸送の本ルートとなり、「青梅橋」は多量な石灰輸送に耐えられるよう、堅固な橋になったものと考えます。

 それから450年余を経ました。様々なことが積み重なっています。次回から、そのいくつかを紹介します。

青梅橋の今と明治15年の姿

 東大和市の南の玄関口が青梅橋です。西武鉄道拝島線・東大和市駅南口を降りると小さな広場があります。かっては、ここに素掘りの野火止用水が流れていました。現在は広場の下に暗渠になっています。そのまま少し左に進むと青梅街道になり、今では、全く目にする事が出来ませんが、横断歩道の辺りに、「青梅橋」が架かっていました。

青梅橋所在地

 青梅橋は野火止用水を渡る橋でした。東大和市と小平市の境界でもあります。東大和市を歩く基本点であり、歴史的に重要な意味を持っています。東大和市駅が高架となり、青梅街道が拡幅されて、すっかり景観が変わっているため、現在の状況から、かっての青梅橋と東大和市の関係を理解するのは難しくなっています。そこで、明治15年(1882)測量迅速図からその位置と周辺の関係を復元してみました。

迅速図青梅橋4

 青梅街道を初めとする広域道路が青梅橋に集中していました。しかも、■が民家で、僅か数軒しかなく、それ以外は畑が取り囲み、現在の東大和市駅周辺は、地図記号で灌木地、雑樹林と記されています。当時の写真を手にすることができなくて残念ですが、この状況から、様々に推測しながら、ここで起こったことを御案内したいと思います。


蕎麦の花の実る頃

 蕎麦の花は白で、やがて実が熟すとき、茶色に変えるものとばかり思い込んでいました。東大和市駅の南にある都立薬用植物園の一隅に、蕎麦が実をつけています。 2012年10月19日には、白い花に、実は薄緑でした。
蕎麦 
一面の白い花
蕎麦青実 
よく見ると薄緑の実を付けている

 2012年11月4日、再び訪ねると、白い花のそよぐ中に、なにやら少しばかりピンクが混じって引き寄せられます。花が薄ピンクとなり、実が熟そうとしています。

蕎麦ピンク1 
実の色に合わせるように花の色合いが付いてくる
蕎麦ピンク
飽きることなく見ていると、遙か昔を偲ばせます。

 東大和市では、江戸時代からあまり蕎麦は栽培されなかったようです。大麦、小麦、稗、粟、根菜類が主たる農産物でした。それが、野火止用水を挟むこの地域では蕎麦が栽培されたと伝えられます。野火止用水に沿って「林畑」という土地利用を示す用語があります。狭山丘陵南麓を親村とする村人達にとってはこの地は遠距離でもあり、新田開発により武蔵野を開墾した農地は生産性も低く、東大和市駅周辺には林があって、肥料にする落ち葉採集が行われていました。恐らく、その周辺で、粗放的に蕎麦が栽培されたのでしょう。

 英国の通訳・書記官として日本に滞在(1862~1883)したアーネスト・サトウが明治14年(1881)7月14日、田無・小川・青梅橋を通過してアルプス方面に旅をしました。その記録が日記に残されています。その中で、青梅橋を通過したとき、『あたりの平地は今ではすっかり農地にされているようだ。主なる作物は、蕎麦、ウリ、大麦などだ。ウツギの垣根が耕地の間にあって、作物を冷たい強風から防ぐ。垣根がなかったらトウモロコシはこれからというときにやられてしまう。こうした垣根を施すなどの工夫は日本の平野部ではごく当り前のこととされている。・・・』
と記しています。

 うどんが常食に近かったのに比べ、蕎麦は、御馳走でもあったようです。寛政7年(1791)、江戸・青山から東大和の清水村を訪ねてきた石永貞は、久米村の旧家で仏事に寺僧を招いて、「けふは家の忌日とて、朝より蕎麦など物しつつ寺僧を招いて供養すとて・・・」ともてなしの情景に出会い、その様子を記録しています。



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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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