多摩(東京都)・入間(埼玉県)の郡界にあるまち

  
郡界1 
この道は東大和市の北端にあり、東京都と埼玉県との境界になっています。
 同時に、所沢市(埼玉県)と東大和市(東京都)との境界でもあり、東京都が設置している案内板のとおり、都立自然公園の中を瑞穂町まで続きます。
狭山自然公園案内図
東大和・所沢境界

 村山貯水池周囲道路と呼ばれ、自転車道が付属されて、多くの人に親しまれています。そして、興味をそそられるのが、この道は瑞穂町の区域で一部変化していますが、古代の多摩郡と入間郡の「郡境」が現代に引き継がれているかも知れないと云うことです。それを、わがまちの境界としていることとなるとじっとしては居られません。

 随分、古い話です。日本書紀では天武天皇の12~13年(683~684)にかけて諸国の国境を定める話が出てきて、684年5月には百済からの渡来の人々を「武蔵国」に住まわせたと記録します。
 発見された飛鳥京出土木簡では、「无耶志国」(むざし)となっていますから、「武蔵国」とは表記されなかったにせよ、国があり、何らかの地域が定められていたものと思われます。続日本紀は、文武天皇2年(698)3月10日に、諸国の郡司が任命されたとの記事を載せます。歴史の事実関係としては、この時点では、「郡」と云うより「評」の時代でしょう。やがて、武蔵国には、多摩郡や入間郡など19郡が置かれたことになっています。
 霊亀2年(716)高麗郡、天平宝字2年(758)新羅郡が置かれて21郡になります。

 現在の県境の画定がこの時点まで遡らないとしても、何しろ狭山丘陵の山の中です。周辺から古墳時代からの遺跡はいくつか発見されていますが、評=郡が置かれる状況であったかどうか不明です。では、どのようにして郡界は定まったのか? さて、さて、疑問がどっと、押し寄せます。
多摩入間郡界_edited-1

 郡界の道を歩いて行くと、瑞穂町の狭山が池(箱の池)にたどり着きます。遠い昔を考えながら歩くと、山口貯水池に沈んだ勝楽寺村の渡来伝承とわがまちの関係、中世の武蔵七党の村山党の拠点、家康が関東移封になった翌年、早々と直属の家臣がこの地に配属されたのはなぜ・・・、など、一生掛かっても解ききれない謎々に空腹が加わって、訳もなくせき立てられます。

村山貯水池に沈んだ古村2

 村山貯水池は堰堤によって二つの区域に仕切られます。地元では、上貯水池(石川)・下貯水池(宅部・やけべ)の二つに区分しています。下の画像は上の貯水池です。この湖底に、東大和市の古い村が沈んでいます。

上貯水池取水塔415
上・下貯水池完315

 山口貯水池と村山貯水池は下図の通り、いずれも、狭山丘陵の大きな谷をせき止めてつくられました。その谷には古くからの文化が定着し、人々の生活が営まれてきました。今回は上貯水池について紹介します。
 
貯水池色塗り図230

 下貯水池地域と同様、湖底に沈んだ上貯水池の地域も大正4年に、村人達は急かされるように移転しました。移転を開始した大正4年の村の姿は次の図の通りです。
大正4年貯水池移転時民家配置図(石川)20
 狭山丘陵の湧き水を源流とする石川を中心に、丘陵の谷底低地に広がった古村です。いくつもの溜池を利用して僅かの水田を開き、斜面で畑作を行い、桑を植えて養蚕に励んでいました。この地域に接する狭山丘陵の南麓には、寺院がありませんでしたが、石川には慶性院(けいしょういん)と蓮花寺(れんげじ)の2寺院があり、丘陵南麓の村人達もこの寺院の檀家であるという関係にありました。

 石川の地名は、創建伝承慶雲4年(707)を伝える豊鹿島神社の創建に係わったとされる、石川麻呂にちなむものです。また、この地域は、山口貯水池に沈んだ勝楽寺村と接し、渡来系文化の里としても研究が待たれます。江戸時代、文化・天保期(1810~1830年代)に、簡単な十字絣から始められた「村山絣」の創始者の一人に、慶性院の住職と村人の荒畑シモがあげられます。

 このように、東大和市の各所を訪ねるに当たって、欠くことの出来ない地域ですので、最初に紹介します。

村山貯水池に沈んだ古村

 思わず深呼吸したくなる村山貯水池、東大和市の22%を占めます。

村山貯水池パノラマ  

 この水底には、東大和市の古い村が沈んでいます。東大和市の礎を築いた村人達の本拠地です。
 明治24年(1891)、東京の上水道は玉川上水などから取水する水では衛生上問題があるとのことから上水道改良工事が行われ、淀橋浄水場がつくられました。さらに、明治42年(1909)頃になると、水不足を来たし、拡張工事が課題となりました。水源と貯水池をどこに設定するかが問題となりました。

 そこで、白羽の矢が立ったのが秋川を水源とする「大久野貯水池」、多摩川を水源とする「村山貯水池」で、東京市は村山貯水池案を採用し、内閣も認可しました。
 村山貯水池

 大正3年(1914)、用地測量が開始され、大正4年(1915)から用地買収が始まります。土地を売り渡す承諾書に調印しないとの反対運動が起きますが、結局は、その年の7月から移転を余儀なくされました。
 大正5年(1916)、工事の地鎮祭が行われます。
  大正4年(1915)7月、移転した時の集落(下の堤防から上の堤防の間)です。宅部川(上流では石川と呼ばれた)を中心につくられた狭山丘陵の開かれた谷に、溜池からの水を利用して水田を営み、身を寄せ合うようにした生活がありました。 そして、宅部美作(やけべみまさく=人名)、氷川神社、三光院、御霊神社はいずれも、中世からの歴史を伝えます。恐らく、弥生から古代にかけての生活もあったことと推測されます。
 
上宅部民家配置図大正4年楷書体

 東大和市を歩いて、現在目にすることの出来る古社や伝承は多くが貯水池に沈んだ地域から移ってきています。これから、出会う事柄を記す時、村山貯水池に沈んだ地域にありましたと書くことが多そうなので、あらかじめ紹介しておきます。(2012.06.16.)

東大和市

東大和市

「村山貯水池は、ほぼ、私のまちに含まれます。」
「それは良いですね、あの湖水と狭山丘陵がシンボルとは!!」

 狭山丘陵を背にして、南に、東西5.3キロ、南北4.3キロ、面積13.54平方キロ、地図で見るとほぼ四角な形をして、野火止用水を南限とするのが、我がふる里「東大和市」です。

 大正8年 (1919)大和村 
 昭和29年(1954)大和町
 昭和45年(1970)東大和市

 を経て、人口8万人余で、ごくごく普通のまちですが、大好きです。
 
 シニアを中心に交流するネットサークルをつくる動機になればと、市内上北台公民館で講座が開かれました。そのことをきっかけにこのブログを開くことにしました。

 ブログ開設に当たって、あなたのお名前欄に「狭山丘陵」と書いたら、すでに先客が居られて、では「野火止」と記入すると、4文字以上にせよとのことで「野火止用水」としました。

 狭山丘陵と野火止用水の間を、出っ張った腹を引っ込ませるための散歩道とします。そこで、出会ったことを記して行きたいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。

東大和市案内板

 西武拝島線東大和市駅前広場に設置された東大和市の案内板


sidetitleプロフィールsidetitle

野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleLc.ツリーカテゴリーsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR