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八幡神社(奈良橋 東やまと20景・13)

八幡神社の森
八幡神社の森

 東大和市奈良橋一丁目に鎮座する八幡神社は、かっての奈良橋村の鎮守です。青梅街道から表参道が続き、地元ではこの道を鎌倉街道と呼んでいました。
奈良橋村絵図
(クリックで大)

 年代が不明なのが残念ですが江戸時代の村絵図です。蔵敷村の分離前であることから、正徳年間(1711~15)以前の姿であることが想定できます。伝鎌倉街道を通ずる狭山丘陵南麓の谷をはさんで八幡神社と雲性寺が並びます。

八幡宮表参道2

 かっては村山貯水池に沈んだ地域を通り所沢方面に続きました。現在は村山貯水池の周囲道路・多摩湖自転車道に達します。

八幡神社第一鳥居

 参道の階段を上ると第一の鳥居(昭和43年・1968 建造)があり、広大な敷地が続きます。周辺には縄文時代中期の集落がありました。

八幡神社第二鳥居

 第二の鳥居と社殿(昭和10年・1935 建造)

八幡神社本殿
(クリックで大)
 
 八幡神社社殿(昭和7年・1932 改築)です。東やまと20景に選ばれています。
 
八幡神社社殿内

 八幡神社は中世からの伝承を伝えますが、創建年代は明らかではありません。地誌は次のように記します。

新編武藏風土記稿

 除地六段、村の西北方にあり、上屋二間に三間、内に五尺の社を置り、拝殿は二間半に三間、前に鳥居をたつ、

狭山之栞

 村里の惣鎭守なれど勧請年紀不詳。祭神は誉田和氣尊、応神天皇也。
 祭典毎歳八月十五日。
 別当本山修験八幡山覚寳院は聖護院旧宮末小田原玉龍坊配下府中門善坊霞下也。
 境内六反歩及び山王分六反歩除地なりしが維新の際奉還す。元祖諸宝院より十一世承盛の世押本肇と改名復飾して神官となる。同氏地内に廻り四尺余の枳棋(けんぽなし)の木あり。尚八幡の社木松廻り八尺。注連張杉二本廻り各一丈。

東大和市史資料編8

 社伝によれば、その昔、戦いによって宮が壊れようとした時に、武士がこの森に逃げて来て露営しようと辺りを見渡すと、暗い中に宮があったので、その中で眠ることにした。そうすると、夢の中に「吾は八幡の神なり。」と八幡神が現れて、当社によく宿ってくれたと述べてから、宮が破損しようとしているので村人に建て替えることを知らせてほしいと言った。そこで武士は夢からさめて地領に行き、その旨を伝えたという。(中略)

 主祭神として誉田和気尊(ほんだわけのみこと)を祀り、その他の祭神に応神天皇・大山祇命(おおやまつみのみこと)・日月大神(にちげつのおおかみ)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・火産日神(ほむすびのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。
 末社には富士浅間社・神明社・武内社・御嶽社・大六天社を祀る。

八幡神社大杉根株

 本殿右側にかって参道にあった大杉の根が保存されています。

八幡神社大杉根株2
(クリックで大)
大杉の根株
説明版に
「この根株は八幡神社の階段下の参道入口にあった二本の大杉の内、向かって右側の根株であります。
 樹齢は約二百七十年位と推定され、当時の住民が祈願成就のため植樹されたものと思考されます。」
とあります。

 社伝に「元禄二年(1689)九月、旧領主石川太郎右衛門並岸隼人の尽力により拝殿が建てられ」とあり、それから間もなく植樹されたことも推定されます。石川太郎右衛門は1590年、徳川家康が関東に入府して間もなく、奈良橋村に配属された地頭の一族です。岸家は名主を務めていました。
 境内末社の多さも独特で、次に記します。(2015.04.23.記)

東やまと20景・13 八幡神社へ戻る

雲性寺(奈良橋 東やまと20景・14)

 雲性寺は狭山丘陵の南麓、東大和市奈良橋一丁目、谷ッをはさんで八幡神社と並び、人々を迎えます。春の桜、秋の銀杏とそれぞれの季節に、いまもって里山のたたずまいを見せます。
 真言宗豊山派、かって背後に天王社があり、境内地に観音堂があるところから天王山観音院雲性寺と云われます。
 開基、創建は不明です。中世板碑、徳川家康の家臣・石川氏一族の墓石が残されるなど境内に文化財が多いお寺です。
 観音堂は、狭山三十三観音十八番札所として、狭山の霊性庵から芋窪の林堂への中継地で、白装束の巡礼がお参りをしました。

雲性寺全景
(クリックで大)

 晩秋の雲性寺全景 左から観音堂、本堂、庫裡 
 かっては参道の両脇に水田が広がっていて、田植えの頃には通る人々の姿が水面にうつり評判でした。

雲性寺全景2
 4月の雲性寺(クリックで大)

 この寺について地誌は次のように記します。

新編武蔵風土記稿

 「雲性寺 除地、二段五畝、村の北山麓にあり、天王山観音院と号す、真義真言宗、中藤村真福寺の末、開山開基の人を伝へず、本堂五間に七間南向、本尊弥陀木の座像一尺六寸を安せり、境内には此所の地頭石川太郎右衛門代々の墳墓あり、
 
 観音堂 門を入て右にあり、二間四方、観音は十一面木の座像一尺二寸許なり、
 天王杜 境内後背の山の中腹にあり、則村内の鎮守なり、」

狭山の栞

 「天王山雲性寺観音院は以前は本尊不動明王なりしが、後三尊阿彌陀如来を安置す。長二尺許り。脇土勢至観音二体は立像にて長一尺余。中藤村眞福寺の支院にして後の山に天王宮ある故天王山と号す。又、観音堂あるため院を然か名付く。法流開基法印伝榮は享保三戌年五月五日寂す。地内観音堂本尊は十一面観世音にして狭山第十八番の霊崛(れいくつ)たり。除地二反五畝歩は維新の際奉還す。門前に弁才天の小祠ありしが維新の際天王の社と共に諏訪山に引移す。旧地頭石川大郎右衛門代々の墓碑七本各高二尺位也。」(享保3年=1718)

東大和市史資料編8では

 「現在の本堂は昭和五十六年、弘法大師一一五〇年遠忌にあたり再建され、仏壇や仏具なども新調したという。当寺の草創、詳細な歴史については不明であるが、後世の地誌類、寺伝などによれば、永享十一年(一四三九)に堂宇を建設し天下の安穏、仏法興隆を祈誓したことに始まるという。その後、栄枯盛衰を重ね、天正元年(一五七三)に法印承永が再興し、元禄年間(一六八八~一七〇三)には地頭石川太郎右衛門により新伽藍を整備されたと伝えられる。」(p52)

山門

雲性寺山門

 正面階段を上ると山門をくくりますが、箱根本陣に使われていたものを貰い受け、昭和26年に設置したと伝えます。

雲性寺山門裏

 丸みを帯びた山門をくぐると多くの石仏、石造物がこのお寺の歴史を語ります。
 市内の他の寺院が創建地と現在地を異にするのに対して、雲性寺は当初からこの地に創建されたものと考えられます。

本堂

雲性寺境内

 本堂は昭和56年(1981)再建されました。
 左側は観音堂・狭山三十三観音十八番札所です。

雲性寺本堂

 本堂内には、木造阿弥陀三尊像、木造弘法大師坐像、木造興教大師坐像、木造地蔵菩薩半跏像(じぞうぼさつはんかぞう)などの仏様がまつられています。石造物などについてはページを改めます。

 東やまと20景 雲性寺に戻る (2015.04.21.記)

奈良橋地域

 奈良橋は狭山丘陵の南麓、市域の中央に位置します。古い村で、道、神社・お寺、言い伝え、などなど、「集落」「村」「町」の要素のほとんどが残されています。新旧混ざり合った街角を訪ねることが出来ます。なぜ、奈良橋なのか、その名前の由来は諸説入り交じり、不明です。豊鹿島神社本殿の創建棟札(文正元年・1466)に「武州多摩郡上奈良橋郷」の記録があり、古くから使われてきています。
東大和市奈良橋地域

 通称「八幡谷ッ」と云われる八幡神社と雲性寺の間に刻まれている狭山丘陵の谷戸を中心に開かれた集落を母体としてまちがつくられて来ました。そのため、江戸時代からの跡をたどることが出来ます。さらに、八幡神社東側の道路は、中世の「鎌倉街道」の伝承があり、府中市に「奈良橋道」があって、関連性を考えさせられます。図としては見にくくなりましたが周辺に住宅団地が造られている様子を加えました。右上の開発された地域からは古代の遺跡が発見されていて、八幡谷ッとの一帯を形成していたことが推測されます。

 八幡谷ッでは、谷戸からの湧き水を利用して、水田が営まれていました。雲性寺には、江戸時代にこの地を治めた地頭・石川氏の墓があります。石川氏が構えた陣屋跡なども、残された稲荷祠によって推定が可能です。雲性寺門前には、庚申塚にまつられていた馬頭観音像や庚申塔が集められています。

 狭山丘陵南麓に村山道が走り、現在では奈良橋交差点を中心に青梅街道と志木街道に分かれています。志木街道からは地元で清戸街道と呼ばれる道が分かれ、中世か江戸時代の古道のたたずまいを見る事が出来ます。

 奈良橋川と空堀川の間に近代の施設が集まり、市内に10校ある小学校の内の第一小学校、5校ある中学校の内の第一中学校と、教育施設の最初のものが、この地に集中しています。
 空堀川の周辺に、2万年ぐらい前の旧石器人のキャンプ地が発見されて、この時代の武蔵野の様子を考えさせられます。
東大和市案内図奈良橋完周囲色のコピー

 奈良橋川は自然発生的な蛇行の様子をとどめます。空堀川は改修前と改修後の姿に接しながら両者の縁を歩くことができます。

 所々に農地が生産緑地として保存され、作物に新しい挑戦がされています。新青梅街道はこの地域では、江戸街道=青梅道=石灰の道でした。庚申塚には、その交通安全を祈願する馬頭、庚申塔が立てられ、道しるべの役割を果たしていました。

 奈良橋市民センタの場所に、大和村役場、大和町役場、東大和市役所がありました。この地が新青梅街道以北、狭山丘陵南麓を中心として生活基盤を形成していた人々の中心であったことを示します。現在は上図の市役所位置の通り、新青梅街道以南に中央施設が配置されるようにまちの中心点が移っています。

 話題
 奈良橋地域に関するブログなどの記事をリンクします。
 奈良橋6丁目で狸 今年の多摩湖梨
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