野火止用水にも、水が来なかった?

野火止用水にも、水が来なかった?
(小平市・一宮)

 玉川上水では、水食土(みずくらいど 福生市)が上水の水を飲み込んでしまったと上水起元(享保3=1803)は書き留めます。
 野火止用水にも、同じような伝えがあります。小平市・一宮神社の由来です。

清掃工場煙突1

 場所は小平市中島町1番地で、玉川上水駅から歩いて煉瓦の遊歩道(下が野火止用水)に入ると、右側に小平・村山・大和衛生組合清掃工場の煙突が見えます。その手前の道を入り、一度曲がるとその奥にまつられています。

小平市一宮全景

 鳥居の横に説明版があって、次のように記されています。 

 「自然とふれようみんなの道 一宮神社

 玉川上水が完成して間もない頃、徳川幕府の老中松平伊豆守信綱は武蔵野開発のため、小川村の分岐点(小平監視所)から新河岸川まで約30キロメートルを掘り野火止用水を作りました。しかし、「水喰土(みずくらいど)」といわれる関東の土のためこれが地下に吸い込まれ、なかなか水は流れませんでした。

 そこで、小川開拓者のひとり宮崎主馬(みやざきしゅめ)は分水口の近くに祠を建て水分神(みくまれのかみ)と豊受神(とようけのかみ)を祭って、山の神と称し、通水祈願をしました。神慮にかなったのか、突然大雨が降り出し、一夜にして玉川上水の清流は水音をたて野火止用水を流れたのです。

 これによって、この祠は一宮神社という社号を賜ったと伝えられています。そして、農耕の守護神として崇められ春2月の迎えの祭り、秋11月の送りの祭りは今なお続けられています。」(小平市 一宮神社説明板)

小平一の宮

 様々に解釈されると思いますが、小さな社の前に立つと、野火止用水開削当時の姿がいろいろと偲ばれます。(2014.10.29.記) 
 

用水工夫

 東大和市内から小平市を通る、けやき通りは、野火止用水の上を渡ります。あまり気がつかないのですが、野火止橋があります。
 そのたもとに「用水工夫」のモニュメント(東大和市)が置かれています。
 野火止用水の開削工事にちなんでのブロンズ像です。

けやき通り

 堀具を振り上げていて、気づいた人は、たいてい、立ち止まって、
 しげしげと見入ります。私は、回り道して寄ってしまいます。
 「美男子・・・」
 とほとんどの方々が云われます。
 割と小づくりの身体に、整った顔が何ともいえない雰囲気を醸し出しています。
用水工夫

 近くに説明板(作品紹介)があって
 
 「野火止用水は承応四年(1655)、徳川幕府の老中松平伊豆守信綱によってつくられ、小川村の分岐点(現在の小平市中島町)から新河岸川まで六里(約24キロメートル)を四十日間で堀り通したといわれる用水路です。この用水のおかげで、用水周辺の田、畑がうるおい、米の取れ高は十倍にもなったそうです。
また、美術工芸品の設置されたこの場所の町名は新堀といいますが、この掘りができたときに付けられたといわれる新堀という小字名を採用したものです。」
 と記されています。

 さて、いったい、この工夫さん、工事の時はどこから来たのでしょう?
 地元の村人? 
 川越の人? 野火止地方(新座市)の人?・・・?
 困ったもので、わかりません。知りたいです。
 (2014.10.23.記)

野火止用水取入口=不思議なところ

 野火止用水は玉川上水から分水されました。今回はその分水口=取入口を探しに行きたいと思います。
 西武鉄道拝島線玉川上水駅を南口に降ります。頭上を多摩都市モノレールが通り、駅前広場に出ます。実は、この広場、駅舎とバス停の間が、幅の広い橋なのです。「清願院橋」と云います。その下を玉川上水が流れています。清願院橋は、かっての芋窪街道に架かっていた橋でした。現在は玉川上水の下を芋窪街道が走っています。橋からは、開渠の玉川上水の姿が見られます。羽村の堰で取り入れられた多摩川の原水がそのまま流れています。
 
清願院橋3

 駅舎を出てそのまま左(東)に進むと玉川上水を挟んで両側に道があります。どちらを歩いても、300㍍ほどで、東京都水道局小平監視所の施設が見えてきます。

清願院橋5
今回は右側の道を行く
 途中、玉川上水開削時に重要なポイントになったであろう国分寺崖線を越します。
 
国分寺崖線
僅かに起伏が残る国分寺崖線
崖線と小平監視所塀
崖線を越すと左側に東京都水道局小平監視所施設のフェンスが見えて来ます。

野火止用水分水口
この中に分水口=取入口があったと考えます。

 この場所は、小平監視所の沈砂池です。玉川上水の原水を砂で漉して、東村山浄水所へ導水管(管経約2㍍)で送水しています。昭和38年、東京都の新宿副都心計画によって、淀橋浄水所が廃止されて、高層建築のまちに生まれ変わりました。代わりに東村山浄水所が設けられました。玉川上水の水は新宿・淀橋方面へ流す必要がなくなり、東村山浄水所へ送られるように変わりました。
 そのため、ここにあった玉川上水からの分水口(野火止用水、新堀用水)を撤去して、新しく沈砂池や接合井などの施設が設けられました。

 と云う事から、分水口=取入口はなくなってしまいました。その位置を探すと、上画像画面奥に見える現在に残された野火止用水と玉川上水の位置や周辺の建物の位置から割り出して、沈砂池辺りにあったと思われます。

野火止用水分水口2
江戸時代の分水口
 
 江戸時代の文書に残された図を復元してみました。石垣積みで木の堰板が水量を調節していたようです。玉川上水7に対して野火止用水3の割合で分水されました。この姿は、すっかり無くなってしまいました。やむなく、現在の姿を追います。
 
現在の野火止用水出発点
現在の野火止用水の出発点

 ここから不思議が始まります。
①この場所から、現在の野火止用水は始まります。しかし、この場所を訪ねても用水の姿はありません。
 煉瓦敷の遊歩道の下を流れます。東大和市駅を過ぎて暫くするとせせらぎになって現れます。ただし、この水は多摩川の原水ではありません。
②画像の右側を降りると玉川上水の堀に出ます。そこにはこんこんと清流が流れています。しかし、これも、多摩川の原水ではありません。
③玉川上水に沿って、もう少し下流に行くと新堀用水が顔を出します。ここには、多摩川からの原水が流れています。
 
 さてさて、玉川上水の水は小平監視所で東村山浄水所に送られているのに、なぜ、野火止用水にも、玉川上水にも水が流れるのでしょうか?
 なぜ、新堀用水に、多摩川の原水が流れるのでしょうか?

 この場での水の処理は複雑です。次に紹介します。

野火止用水と東大和の村

 東大和市の南端を流れ、東大和市と小平市の境となるのが野火止用水です。武蔵野の原野に一筋開削された江戸時代の姿は全く残っていませんが、東大和市の形成に基本的な関わりを持っています。ここが、当時、苦難を重ねて新田開発をした村の南限でした。或いは、狭山丘陵の麓からこの地を目指して生産基盤を創りだしたと云った方が適切かも知れません。 野火止用水は玉川上水からの分水です。次の順序でつくられました。

玉川上水

・承応元年(1652)、玉川上水の開削を決定
・承応2年(1653)、四谷大木戸まで開削、翌3年(1654)完成

 玉川上水の工事については、工事の進め方を含めいろいろの議論がありますが、ここでは、4代将軍徳川家綱の業績を幕府が記録した、公儀日記の次の記録に従っておきます。 
・承応2年(1653)正月13日
 「麹町・芝口の町人 水道の儀訴えのところ、相済み、七千五百両を賜る。水筋は玉川(多摩川) よりこれを取る」
・承応3年(1654)6月20日
 「多波川水道 当御地へ用水来候 御褒美のため 請取候町人へ 金子三百両これを下さる」
 
玉川上水図色入り 

野火止用水

 野火止用水は、玉川上水の完成の翌年、川越藩主松平信綱がつくりました。松平信綱は時の老中で、玉川上水工事の総奉行でした。無事完成の褒美として、自らの支配地野火止への分水の権利を得ました。

・承応4年(1655)2月10日、着工 3月20日、野火止地域・新河岸川(新座市・志木市)まで開削 完成 
 堀の長さ24キロ 工事日数は40日間(閏月を挟む)
 費用3000両 松平信綱の家臣である安松金右衛門が総指揮
 分水量 玉川上水7、野火止用水3の割合

東大和市との関係=新田開発

 玉川上水、野火止用水が完成すると、翌・明暦2年(1656)、岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛が石灰運搬の中継ぎ場をつくる願いを出し、小川村の開発に乗り出します。
 狭山丘陵の麓に生活の基盤を置いていた、芋窪、奈良橋(含む蔵敷)、高木、後ヶ谷(後に狭山)、清水の村人達も一斉に南へと目を向け、無人の曠野の切り開きを始めます。

 芋窪村 万治元年(1658)立野地域
 高木村 寛文9年(1669)海道内(現在の新青梅街道付近)、仲原。 延宝2年(1674)堀際
 後ヶ谷村 寛文9年(1669)砂の台(現在の空堀川周辺)、江戸街道向。 延宝2年(1674)堀際

 堀際は野火止用水の堀を意味します。松平信綱は伊豆守(いずのかみ)でしたから、野火止用水は「伊豆殿堀」(いずどのぼり)と呼ばれました。

玉川上水・野火止用水開削と新田開発 

縦に細長い村が出来上がった

 弁当を開くと、いっぺんに舞う赤土で彩られたという、赤っ風にあおられながらの開発の結果、出来上がったのが、狭山丘陵の親村から、野火止用水際まで連なる細長い村でした。しかも、その境界は極端に入り組んでいます。検地の状況を見ると、村境は最後の段階で開発されています。多くの調整が必要だったのでしょう。武蔵野の新田開発が一般化される享保7年(1722)には、東大和市域の村々では、ほとんど新田開発が終わっている状況でした。
 この村々は独立心が高く、大正8年(1919)、合併して「大和村」になりますが、政争の激しかった村々が「大いに和す」ことを願って、その名を「大和村」としたとされます。

細く長い村

 このように、野火止用水は村域を画するもととなって、現在に引き継がれています。 

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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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