多摩の地侍・土豪層と近世村落

 わがまちに最初に定着した有力者・土豪層・地侍は誰か?
 これがわかると、中世の謎解きが一挙に進むはずです。
 だから、鵜の目鷹の目で、その誰かを追っています。

 2016年6月26日(日)、そのテーマを扱う研究会が開かれました。
 多摩地域史研究会第25回大会 「多摩の地侍・土豪層と近世村落」
 パルテノン多摩4階第一会議室、午前10時から17時

多摩の地侍・土豪層1

 何をおいてもと、行ってきました。
 発表は次のテーマで各氏が話されました。

多摩の地侍・土豪層と近世村落3

 発表者の丁寧な語り口に、それぞれの地域の実態が浮かんで、興奮しました。感謝と拍手です。
 そして、嬉しいのが下の表です。
 当日発売された、発表要旨と資料集の一部です。

多摩の旧家一覧表

 『新編武蔵風土記稿』に記載された多摩の旧家の一覧表です。
 その出自を初めとして事績が集約されています。
 さらに、次の類型に分類が試みられています。

多摩の旧家一覧表 凡例

 旧家の地域定着へのおおまかな動向がわかります。
 個別の市では理解付かないことが隣接、その隣接、一定地域へと広げて行くとほのかな傾向が浮かんで来ます。
 手放せない資料集となりました。制作者と多摩地域史研究会に心から感謝します。

多摩の地侍・土豪層と近世村落資料集
多摩の地侍・土豪層と近世村落連絡先

 この地に中世に活躍した人物が明らかになってくることを祈ります。
 連絡先は上記の通りです。(2016.06.28.記)

豊鹿島神社の棟札

 「芋窪のうぶすな様」として親しまれる古社に、豊鹿島神社(とよかしま)があります。毎年暮れには、熱心な氏子によって大しめ縄がなわれ、芋窪囃子連の華やかなお囃子とともに、新年初詣が行われます。9月の例大祭には御輿がまちを練り、出店が賑やかに雰囲気を盛り上げます。
 東大和市内で最も古い創建伝承を持ち、本殿について、中世建築の確かな年代の棟札を伝える神社です。
豊鹿島神社全景
鹿島谷ッの中腹に鎮座

 神社のパンフレットでは、「創立の経緯は明らかではありませんが」として、『武藏名所図会』(1820)記載の社伝をひいて
 「創建は文武天皇の慶雲四年(707)」と紹介しています。

 また、『新編武藏風土記稿』(1828年)は
 「御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半」
 「社伝は、慶雲四年(707)の鎮座にて、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神とし、・・・社を造立ありしは、天智天皇第四姫官なりしとも、又蘇我山田石河麻呂たりしとも記し、この外疑ふベきことをも記したれば、此社伝もいちいちには信すベからず、さはあれ、後にのせたる文正・天文等の棟札あるをもて見れば、旧きよりの鎮座なりしことは知るべし、」

 と記します。奥の宮、要石と共に謎解きがいっぱいの神社です。ここでは、文正・天文等の棟札を中心に紹介します。
豊鹿島神社
拝殿の奥に室町建築の本殿がある

 平成5年に大改修が行われ、その時、「文正元年(1466)十月三日」の棟札が発見されました。さらに、天文19年(1550)、天正4年(1576)、慶長6年(1601)、正保3年(1646)など、全部で5枚の棟札が確認されています。
豊鹿島神社本殿2
拝殿の奥に、文正元年(1466)の棟札を持つ都内最古の室町神社本殿
 (東京都有形文化財指定 都重宝・建造物)
 文正元年は、将軍・足利義政、若き太田道灌が活躍し、翌年には応仁の乱が始まるという変化が多い年でした。そのような中で建立された棟札には、中世史上の地名としては、ほとんど知られていない「武州多東郡上奈良橋郷」の地名が記されいます。
 また関わった人名として

文正元年(1466)、大旦那 源朝臣憲光
天文19年(1550)、大旦那 工藤下総入道
天正4年(1576)、細野主計殿 番丈衆十人御力合 
慶長6年(1601)、大旦那 酒井筑前守 同強蔵殿
正保3年(1646)、大施主 酒井極之介重忠

 の名前があり、文正から天正にかけての旦那は、どのような人物であったのか、まだ解明されていません。
 天文19年については、前年・天文18年(1549)4月14日の巨大地震発生に伴う工事とも考えられ、興味津々。中世の謎解が満ち満ちの本殿です。
 慶長、正保の人物は、徳川家康の直属の家臣です。酒井筑前守・同強蔵は、家康が関東に移ってきた最初から芋窪地域に配属されて、現地に住み江戸城へと通勤登城したことが知られています。

 豊鹿島神社の棟札は狭山丘陵全体の中世の謎を解く鍵をもって居るとも云えそうです。(2014.09.25.記)

村山党の分布

 吾が故郷の武蔵武士、村山党はどのように活動の場を置き、時代をつくっていったのか、興味津々です。ところが、困ったことに、肝心の村山氏の最初の本拠地がどこにあったのかが不明です。群れ山=村山の地として、狭山丘陵全体をあてる考えもあるようですが、定かでなく、これには、本当に困っています。

 しかし、狭山丘陵周辺の地名に、村山党の名前が残されています。伝えられる系図とも一致し、貫首・頼任から、子供らがそれぞれに分散移住していったことが伺えます。表面的で恐縮ですが、地名から追ってみます。
村山党分布図
(クリックすると大)

村山氏
 図では村山氏が狭山丘陵南麓に描かれています。村山の地名が早くから使われたということだけで、あくまで想定です。瑞穂町に「殿ヶ谷」の地名があり、村山一族の墓域がある福正寺付近がその館跡とも伝えられます。しかし、金子族から分派した村山土佐守の館跡とする指摘もあり、確定的ではありません。

山口氏
 家継は村山小七郎、山口七郎と呼ばれ狭山丘陵の山口に本拠地を構えました。山口城・根古屋城があり、明確です。北野の天神様が山口郷であり、この地域までをおさめていたことが考えられます。

金子氏
 家範は金子六郎と呼ばれ、嫡子・十郎家忠の館跡が入間市の木蓮寺とされます。瑞泉院に、金子一族の墓地があります。

宮寺氏
 家平は宮寺五郎と呼ばれ、狭山丘陵北麓の宮寺の地に館を築きました。入間市宮寺の西勝院の境内にその跡が残されています。

大井氏
 家綱は大井五郎と呼ばれ、川越街道の旧大井宿(埼玉県ふじみ野市大井、かっての大井町)の徳性寺周辺が館跡とされます。

分派した2代目以降は

荒波多(荒幡)、久米氏
 山口家俊から分かれています。荒波多氏の館跡は不明です。久米氏については所沢市北秋津の大堀山館跡をあてる考えがあります。

難波田氏
 金子家範から分かれました。富士見市の下南畑 字馬場・蓮田・天神前・深町一帯からその遺構が発掘されています。

勝呂氏(須黒)
 山口家俊から分かれました。坂戸市石井宿がその館跡とされます。

仙波氏
 山口家継から分かれました。家信は仙波七郎と呼ばれ、川越市の仙波に本拠を構えました。堀の内がその館跡とされます。

 まだまだわからないことばかりですが、一つ一つ館跡を廻ると、最近の発掘や調査結果が発表されていて楽しみです。
 (2014.08.19.記) 
 

村山党の系図

 武藏七党の内、狭山丘陵周辺に定着して、活動したのが村山党とされます。系図はいろいろ伝えられますが、分脈がわかりやすい所沢市史、入間市史を参考にして紹介します。
村山党系図
(クリックで大)
 問題は
・村山党の祖が頼任(よりとう)で貫首(かんしゅ・かんず)と呼ばれ
・2代・頼家までは村山を名乗りますが
・3代目・家継は山口氏を名乗り
・大井、宮寺、金子などに分派する
ことです。家継は一時、「村山小七郎」を名乗り、やがて「山口七郎」に変えたとされます。(東村山市史通史編上p363)
 これからすれば、貫首・頼任が、一番最初に定着したのは、現・所沢市山口と考えられますが、そうは言い切れないとの見解もあります。

 注目は「貫首」で、現在の日野市を中心に勢力を張った「火奉氏」(=日奉氏 ひまつりし)の系図に、貫首の書き込みがあり、武蔵国府に勤務する役人(在庁官人)であることが明らかになってきました。
 とすれば、村山貫首も、国府と何らかの関わりを持っていたことになります。残念ながら、明らかではありません。村山党がどのように狭山丘陵一帯に勢力を伸ばしたのかは、次に譲ります。(2014.08.15.記)

武蔵武士と狭山丘陵(平安末~中世 武藏七党)

 「東大和市に武士団は居たのか?」
 「武藏七党が答えに出されるが、狭山丘陵・東大和市に関係する武士団はどれか?」
 自問自答を繰り返しますが、どうも、パット結論は出そうもありません。
 少しだけ範囲を広げて、「武蔵七党」について紹介します。
 ところが、武藏七党にも様々な意見があって、どの党をもって「七党」とするかについてさえ、諸論が分かれます。

1説

 武蔵七党は武蔵国内に本拠をおいて周辺に血縁をもとに発展していったグループで、中小規模の武士団とみられている。
 『武蔵七党系図』(14世紀南北朝時代の成立)では
 横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹・西の各党
 ただし、野与党の代わりに私市党(きさい)を、また村山党・西党の代わりに綴党(つづき)・私市党を入れる説もある。
 
2説

 実際、七党が具体的に何党と何党とをさしているのかも確定できないのが現状である。
 たとえば、『節用集』(日本古典全集)では、
 丹治・私市・児玉・猪股・西・横山・村山の各党
 ただし、村山党の代わりに綴(都筑)党を入れたり、私市・綴党を除いて野与・村山党を入れるなど、一定していない。

大まかな位置図

 埼玉県や狭山丘陵周辺各市の市史の記述を見ると、武藏七党は下図のように分布していて
 
 野与=埼玉県埼玉郡一帯
 村山=狭山丘陵の周辺から川越市にかけて
 横山=八王子市の南側
 猪俣=埼玉県大里郡一帯
 西=府中市の西側、立川市にかけて
 児玉=埼玉県児玉郡一帯
 丹=飯能周辺
 とされます。
武蔵七党分布図完
(クリックで大)
 なるほど、これらから見ると、狭山丘陵周辺には村山党が根拠地を築いていて、西党、横山党などと関わりを持ってたと思われます。
 これを手がかりにその姿を追ってみませんか!!(2014.08.14.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
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