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おみたらし

おみたらし

 蔵敷の御嶽神社境内です。
 社殿の右側、自然石の石神の近くに湧き水の小池があります。

御嶽神社境内640
 蔵敷・御嶽神社境内 右奥に「おみたらし」がある。クリックで大

  地元では「おみたらし」と呼びます。その前です。
  「みたらしと聞くと、下鴨神社の御手洗祭とみたらし団子が浮かびます。何か関係があるのですか?」
  「府中市の浅間山におみたらしって湧き水がありますよ」
  「確か、神奈川にもあった」
  どんどんと話は広がります。

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 左 蔵敷・御嶽神社のおみたらし 右 自然石の石神様

 御嶽神社の「おみたらし」は次のような話を伝えをします。『東大和のよもやまばなし』から紹介します。

 「蔵敷の高札場(こうさつば)の裏山・熊野神社の少し東側に御嶽神社があります。
 細い道を入り、鳥居をくぐると山の途中に赤い屋根にスチールの扉がついたお社があります。扉をあけると中に小さな木の祠(ほこら)があり「御嶽神社」と書いたお札(ふだ)がはってあります。

 お社のすぐ右側に百三十センチメートル四方位の池があります。この池は、「御嶽神杜のみたらし池」と言われ、どんな時にもかれることのないきれいな湧き水でした。

「御嶽神社のおみたらしで眼をあらえば、眼の病いがなおる」と
 いう言い伝えがありました。

 今でもこのみたらし池の湧き水は見ることができますが、眼病にきく霊水(れいすい)としての信仰があったことを知る人は少いようです。」(『東大和のよもやまばなし』 p36)16

 東大和市域に眼科の医院がいつ頃開かれたのか調査中ですが、昭和20年代はじめにはありませんでした。眼病にきく霊水はともかく、目の病の治癒祈願に、訪れる方も多かったと伝えられます。それだけ切実だったことが偲ばれます。
 また、昭和の半ばまで続いた雨乞いの際は、普通は青梅の御嶽神社、所沢の水天宮、井の頭の弁天様に祈願の霊水をもらいに行きましたが、蔵敷では「おみたらし」の水を汲んで、熊野神社で行事をしたと伝えられます。

 御嶽神社への路は分かりにくく、市立郷土博物館の前の路か、青梅街道の蔵敷バス停、高札場からの路が参道に接しています。
御嶽神社への道640
 御嶽神社への路 クリックで大

 御嶽神社はこちらをご覧下さい

 (2018.10.21.記)

東大和のよもやま話 雨乞い
御嶽神社

ばばあのふところ

ばばあのふところ

 東大和市の微笑ましい地名の一つに蔵敷の「姥の懐」(うばのふところ)があります。青梅街道の蔵敷バス停から市立狭山緑地への道すがらのところです。厳島神社、「東京サンショウウオの生育地」を経て狭山緑地に入ります。画像、左前に見えるのが、かって、丘陵から湧き出る自然湧水が作っていた弁天池です。貯水槽となり、よもやま話「貯水槽になった弁天池」を伝えます。

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 (青梅街道から厳島神社の参道が続きます。クリックで大)

『東大和のよもやまばなし』から紹介します。

 「蔵敷には、昔から「ばばあのふところ」といわれる場所があります。
 蔵敷バス停から、少し西によったところを、山側に入ると弁天社があります。その右手の山あいのくぼ地に、奥深く広がる場所で、自然に風を防ぎ日当りもよく、ちょうど乳母のふところのような地形です。狭山の栞に「姥がふところ」とあるのがここの事と思われます。

蔵敷地域狭山丘陵640
 (ばばあのふところの周辺図 クリックで大)

 ここに長年住んでおられる島田茂吉さんは、よく他所の人に「あんたのところは暖かいよ、ばばあのふところだからな」と言われるそうです。また、奥さんも「あそこは、ぬくいので昔から心も体も安心して休める場所なんですよ」といっておられます。
 島田さんが子供のころは、赤松の古木が大きく茂り、萩、じじばば(春蘭)、みつばつつじ、狼つつじ、きれんげ、鉄砲百合などがきれいに咲いておりました。
 ここで、男の子達は戦争ごっこなどをして遊び、女の子は、弟や妹のお守りをしながら、つみ草や、きのこがりなどをしていました。夕方になると、弟妹の手を引きながら、ざるに一杯になったきのこを持って、家に帰って行きました。

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 (狭山丘陵の中からの「ばばあのふところ」丘陵を歩いていてホッとします。クリックで大)

 山の方から、突然野うさぎが走ってきたり、大木の上では、気の強いリスとカラスがけんかをしていた事もありました。
 ここの主でしょうか? 以前から、直径約十センチメートル、長さ二㍍の山かがし(赤蛇)がすんでいます。春になると時々顔を見せますが、人間に危害を加える事はありません。湧水で出来た池の辺りがすみかのようです。
 このばばあのふところも戦争中に防空壕を掘ったため穴がたくさんてきてしまいました。
(東大和のよもやまばなしp218~219)101

姥の懐400
 (明治6年(1873)蔵敷村地図に記入された地名「姥の懐」クリックで大)

 明治6年(1873)、蔵敷村は神奈川県に村の略図を提出しています。そこには谷田、林前、鼠沢などの小字名に、「日蔭山」と対するように「姥の懐」の名が記されています。日だまりの暖かみのある場であることが伝わってきます。狭山緑地から見える箇所も家々が建ち並んできましたが、まだ、雰囲気が残されています。

 近くに「貯水槽になった弁天池」が伝わります。

 (2018.10.14.記)



「宅部の円達坊」(やけべのえんたつぼう)

 昭和2年(1927)3月、村山貯水池(多摩湖)ができあがりました。
 それから90年、多摩湖竣工90周年記念事業が話題になっています。
 「〇〇さん、取水塔近くにあったという三光院や氷川神社のことで、面白いお話がないですか?」
 「うーん、肩のこらないのがいいですね」
 シルバーの集まりの席です。

取水塔3
(クリックで大)

 「かって、村山下貯水池が出来る前、取水塔に近い松や雑木の茂る山の上に氷川神社がありました。 そこに、円達院という法印さんがおりました。御朱印五石の氷川神社をお守りしている修験でした。

 氷川神社の脇を登って南麓の清水村へ続く道は、踏み跡のような細い道で、昼でも気味の悪い道でした。
 円達院は、この道を夜更けに提灯を一つぶらさげて一人で歩いていました。
 ふと、もののけの気配を感じて脇差を抜きました。

 「出ば出ろ、宅部の円達院」

 と大声で叫びながら刀を右に左に振り廻して歩いたそうです。
 修行を積んだ修験もよほど怖かったんでしょう。」(よもやま話から)

出ば出ろのコピー1
(クリックで大)

 近代水道のシンボルである取水塔の近くはこんな雰囲気だったんですね。図右下朱線の路と思われます。

 円達院は実在の人です。1504年、所沢の実蔵坊(じつぞうぼう) 、久米川の福泉(ふくせん)坊と一緒に「円達坊」の名で諸国熊野神社参りの先達(せんだつ) として古文書に現れます。京都聖護院(しょうごいん)の配下でした。中世、狭山丘陵一帯は熊野信仰が盛んであったことがわかります。

 村にお医者様のいなかった頃です。修験は、山で独特の修行を重ね、神社と寺院の間に立って、祈祷やお祓い、まじないをして村人達の生活に密着していました。疱瘡などの流行病には悪病退治の行事を取り持ちました。この修験が氷川神社を管理していたのでした。

 村山貯水池建設の際、この氷川神社は移転しました。近くにあった熊野神社と一緒になって現在の清水神社になりました。
(2017.09.18.記)

昔のお産

 「こんなことが本当にあったんですか?」
 「信じられない!」
 「人権問題だ」
 「もっとひどいところもあったってよ・・・」
 「産気づくと、戸外の産室に移るんだってよ」

 若いママと話すと、次から次へと話題が広がり、それだけで記録集ができます。
 聞いて下さい。東大和市にあった話です。

 「産婆も産科医もいなかったころのことです。
 お嫁さんが妊娠すると、あまりからだがつらくならないうちに、高木の塩釜様へ安産をお祈りに行きました。そしてお守札と一緒にお燈明に使った短いろうそく、お饌米(せんまい)、麻ひもなどをいただいてきました。麻ひもは戌の日に腹帯の中にはさんで身につけました。

安産の絵馬400

 嫁の立場は弱いもので、産気づいてからでも、しゅうとめに
「もう一度ぐらい畑へ行ってこい」
 と言われると、つらいのをがまんして車を押して畑へ行った嫁もありました。
 
 産室は北側の暗いへやが使われ、たたみをあげてしまい、わらを敷いた上にボロ布を何枚も敷きました。
 いよいよお産が始まると、家族は塩釜様からいただいたろうそくに火をともし、この灯明の燃えつきない内に出産するように祈りました。

 産婦は腹帯の中の麻ひもを首にかけたり、かみの毛の根元を麻で結(ゆわ)えたり、しばったりして、うつぶせになってお産をしました。中には、ふとんを何枚も折りたたんだところに寄りかかってお産した入もありました。

 赤子をとりあげるのは、しゅうとめや近所の老婆、分家の老婆でしたが、時には間にあわず、主人がとりあげたこともありました。よほどの難産でなければ医師を呼ばず、東村山市から医師が来た時にはどうにもならなかったこともあったとか。なにしろ素人がとりあげるので後産が出ないのがわからずに、大出血で母親が死んだことがあったりしました。出血がひどくて顔色が変ってくると、塩水をのませるとよいちえと言ってのませたのも、今考えると、リンゲル注射にかわる老人の知恵だったようです。

 無事に出産すると、実家から米二、三升と鰹節とが届けられます。これは産婦の食べ物で、力がつくように、よくお乳が出るようにと、塩釜様でいただいたお饌米をまぜてお粥をたき、鰹節の削ったものに味噌あじをつけたものをおかずに食べさせました。産後二十一日間は、ちぼく(不浄)だからといって、産室から出られませんでしたが、これは産後の体をゆっくり休ませることになりました。

 出産後のえなは、さん俵にのせて家のとんぼ口(出入口)に埋めました。たくさんの人に踏まれて赤子が丈夫に育つようにという願いからだといいます。
 大和村の産婆第一号の本田スミさんが、昭和七年に開業した時、産室の床下から寒い風がスースー上ってくるのに驚き、たたみを敷かせてお産させたところが、しゅうとめが
 「まるで天朝様のお産みてえだ。」
 と言って逆に驚いたそうです。」(『東大和のよもやまばなし』p73~74)

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 絵馬堂は閉められ、ひっそりしている塩釜神社。時に訪れる方々は、鳥居の横の「安産の護り神 塩釜神社のお社はこちらです」の案内にほっとするそうです。歴史教室のお話で終わらせたくありません。全文を紹介しました。

(2017.08.20.記)33

西山の夜泣きさま

西山稲荷
 志木街道からの狭山丘陵、高木地域。道路の奥の中段にお稲荷さんの祠があります。 クリックで大

「こんな暑い中、よく来なさったね」
「前に来たときは、もっと西の方で、先代さんに話を聞かせてもらって・・・」
「もう、移ってから30年にもなるよ」
 
 東大和市高木、狭山丘陵の中程の高台にお稲荷様がまつられています。
 個人の屋敷神ですが、夜泣き封じの伝承を伝えます。『東大和のよもやまばなし』はこう語ります。

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 現在も丘陵の中腹にまつられています。 クリックで大

  「高木村の西の端の高い所にあるので西山のダイさんと呼ばれている家のお稲荷さんは「夜泣きさま」といって村の人達に大変信仰がありました。それは子供が夜泣きをして困った時に背負ってお参りすると不思議と夜泣きがなおったからで、多くの人が五厘(昭和初め)のお賽銭を上げてお願いしていきます。由来は当家でもわからないということですが、お参りして一週間もすると、
 「おかげさまでなおりました」
 と油あげや豆腐を供えてお礼にいきました。

 高い所にお社があるので赤ん坊をおんぶしたおばあさんは登っておまいりするのがとても大変でしたので、山道の下から拝んで帰る人もいたそうです。それでもご利益には変りなかったようです。

 毎年二月十一日にはお神酒・赤飯・油あげなど好物を供え、篠竹に紙の旗を立ててお祭をしています。
 松山の中でどんどん開発されていくまちの発展を見守るように鎮座ましましています。」(p11~12 一部省略)

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狐さんも増えて賑やかです。クリックで大

 先代さんからこの物語を聞き取ってから30数年を過ぎ、西山のダイさんは数10㍍東側に転居されました。お稲荷さんも新たな場所に遷されました。2017年7月24日、そのお宅を訪ねました。顔見知りの奧さんが丁寧に案内して下さいました。

「外からは場所がわからなくなったけんど、今でも、時々、お参りさせて下さいって、来られるよ」
「夜泣きですか?」
「それは聞かないことにしてるの」
「子供への暴力、虐待・・・なんて増えてるし、他人には言えない願い事もいっぱいだもんね」
 
「でもね、ここへ、引っ越して来た後、祠の中を掃除したんだ。そしたらさ、ヤモリが2匹居なさった。そりゃビックしたよ。けんど、こうして家を守って下さってるんだと改めて気がついてよ、とっても感謝してんだ」
「いい話! 書き留めておいて、みんなに伝えたい」

 なぜ、豊作、何事も繁盛のお稲荷様が夜泣き封じをして下さるのか聞きたかったのですが、伝えはなく、西山のお稲荷様は、新しい御利益をもたらせ、大事に、大事におまつりされていました。
(2017.07.25.訪問 27日、記)
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野火止用水

Author:野火止用水
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