「宅部の円達坊」(やけべのえんたつぼう)

 昭和2年(1927)3月、村山貯水池(多摩湖)ができあがりました。
 それから90年、多摩湖竣工90周年記念事業が話題になっています。
 「〇〇さん、取水塔近くにあったという三光院や氷川神社のことで、面白いお話がないですか?」
 「うーん、肩のこらないのがいいですね」
 シルバーの集まりの席です。

取水塔3
(クリックで大)

 「かって、村山下貯水池が出来る前、取水塔に近い松や雑木の茂る山の上に氷川神社がありました。 そこに、円達院という法印さんがおりました。御朱印五石の氷川神社をお守りしている修験でした。

 氷川神社の脇を登って南麓の清水村へ続く道は、踏み跡のような細い道で、昼でも気味の悪い道でした。
 円達院は、この道を夜更けに提灯を一つぶらさげて一人で歩いていました。
 ふと、もののけの気配を感じて脇差を抜きました。

 「出ば出ろ、宅部の円達院」

 と大声で叫びながら刀を右に左に振り廻して歩いたそうです。
 修行を積んだ修験もよほど怖かったんでしょう。」(よもやま話から)

出ば出ろのコピー1
(クリックで大)

 近代水道のシンボルである取水塔の近くはこんな雰囲気だったんですね。図右下朱線の路と思われます。

 円達院は実在の人です。1504年、所沢の実蔵坊(じつぞうぼう) 、久米川の福泉(ふくせん)坊と一緒に「円達坊」の名で諸国熊野神社参りの先達(せんだつ) として古文書に現れます。京都聖護院(しょうごいん)の配下でした。中世、狭山丘陵一帯は熊野信仰が盛んであったことがわかります。

 村にお医者様のいなかった頃です。修験は、山で独特の修行を重ね、神社と寺院の間に立って、祈祷やお祓い、まじないをして村人達の生活に密着していました。疱瘡などの流行病には悪病退治の行事を取り持ちました。この修験が氷川神社を管理していたのでした。

 村山貯水池建設の際、この氷川神社は移転しました。近くにあった熊野神社と一緒になって現在の清水神社になりました。
(2017.09.18.記)

昔のお産

 「こんなことが本当にあったんですか?」
 「信じられない!」
 「人権問題だ」
 「もっとひどいところもあったってよ・・・」
 「産気づくと、戸外の産室に移るんだってよ」

 若いママと話すと、次から次へと話題が広がり、それだけで記録集ができます。
 聞いて下さい。東大和市にあった話です。

 「産婆も産科医もいなかったころのことです。
 お嫁さんが妊娠すると、あまりからだがつらくならないうちに、高木の塩釜様へ安産をお祈りに行きました。そしてお守札と一緒にお燈明に使った短いろうそく、お饌米(せんまい)、麻ひもなどをいただいてきました。麻ひもは戌の日に腹帯の中にはさんで身につけました。

安産の絵馬400

 嫁の立場は弱いもので、産気づいてからでも、しゅうとめに
「もう一度ぐらい畑へ行ってこい」
 と言われると、つらいのをがまんして車を押して畑へ行った嫁もありました。
 
 産室は北側の暗いへやが使われ、たたみをあげてしまい、わらを敷いた上にボロ布を何枚も敷きました。
 いよいよお産が始まると、家族は塩釜様からいただいたろうそくに火をともし、この灯明の燃えつきない内に出産するように祈りました。

 産婦は腹帯の中の麻ひもを首にかけたり、かみの毛の根元を麻で結(ゆわ)えたり、しばったりして、うつぶせになってお産をしました。中には、ふとんを何枚も折りたたんだところに寄りかかってお産した入もありました。

 赤子をとりあげるのは、しゅうとめや近所の老婆、分家の老婆でしたが、時には間にあわず、主人がとりあげたこともありました。よほどの難産でなければ医師を呼ばず、東村山市から医師が来た時にはどうにもならなかったこともあったとか。なにしろ素人がとりあげるので後産が出ないのがわからずに、大出血で母親が死んだことがあったりしました。出血がひどくて顔色が変ってくると、塩水をのませるとよいちえと言ってのませたのも、今考えると、リンゲル注射にかわる老人の知恵だったようです。

 無事に出産すると、実家から米二、三升と鰹節とが届けられます。これは産婦の食べ物で、力がつくように、よくお乳が出るようにと、塩釜様でいただいたお饌米をまぜてお粥をたき、鰹節の削ったものに味噌あじをつけたものをおかずに食べさせました。産後二十一日間は、ちぼく(不浄)だからといって、産室から出られませんでしたが、これは産後の体をゆっくり休ませることになりました。

 出産後のえなは、さん俵にのせて家のとんぼ口(出入口)に埋めました。たくさんの人に踏まれて赤子が丈夫に育つようにという願いからだといいます。
 大和村の産婆第一号の本田スミさんが、昭和七年に開業した時、産室の床下から寒い風がスースー上ってくるのに驚き、たたみを敷かせてお産させたところが、しゅうとめが
 「まるで天朝様のお産みてえだ。」
 と言って逆に驚いたそうです。」(『東大和のよもやまばなし』p73~74)

DSC_44961.jpg

 絵馬堂は閉められ、ひっそりしている塩釜神社。時に訪れる方々は、鳥居の横の「安産の護り神 塩釜神社のお社はこちらです」の案内にほっとするそうです。歴史教室のお話で終わらせたくありません。全文を紹介しました。

(2017.08.20.記)33

西山の夜泣きさま

西山稲荷
 志木街道からの狭山丘陵、高木地域。道路の奥の中段にお稲荷さんの祠があります。 クリックで大

「こんな暑い中、よく来なさったね」
「前に来たときは、もっと西の方で、先代さんに話を聞かせてもらって・・・」
「もう、移ってから30年にもなるよ」
 
 東大和市高木、狭山丘陵の中程の高台にお稲荷様がまつられています。
 個人の屋敷神ですが、夜泣き封じの伝承を伝えます。『東大和のよもやまばなし』はこう語ります。

DSC_60271.jpg
 現在も丘陵の中腹にまつられています。 クリックで大

  「高木村の西の端の高い所にあるので西山のダイさんと呼ばれている家のお稲荷さんは「夜泣きさま」といって村の人達に大変信仰がありました。それは子供が夜泣きをして困った時に背負ってお参りすると不思議と夜泣きがなおったからで、多くの人が五厘(昭和初め)のお賽銭を上げてお願いしていきます。由来は当家でもわからないということですが、お参りして一週間もすると、
 「おかげさまでなおりました」
 と油あげや豆腐を供えてお礼にいきました。

 高い所にお社があるので赤ん坊をおんぶしたおばあさんは登っておまいりするのがとても大変でしたので、山道の下から拝んで帰る人もいたそうです。それでもご利益には変りなかったようです。

 毎年二月十一日にはお神酒・赤飯・油あげなど好物を供え、篠竹に紙の旗を立ててお祭をしています。
 松山の中でどんどん開発されていくまちの発展を見守るように鎮座ましましています。」(p11~12 一部省略)

DSC_60291.jpg
狐さんも増えて賑やかです。クリックで大

 先代さんからこの物語を聞き取ってから30数年を過ぎ、西山のダイさんは数10㍍東側に転居されました。お稲荷さんも新たな場所に遷されました。2017年7月24日、そのお宅を訪ねました。顔見知りの奧さんが丁寧に案内して下さいました。

「外からは場所がわからなくなったけんど、今でも、時々、お参りさせて下さいって、来られるよ」
「夜泣きですか?」
「それは聞かないことにしてるの」
「子供への暴力、虐待・・・なんて増えてるし、他人には言えない願い事もいっぱいだもんね」
 
「でもね、ここへ、引っ越して来た後、祠の中を掃除したんだ。そしたらさ、ヤモリが2匹居なさった。そりゃビックしたよ。けんど、こうして家を守って下さってるんだと改めて気がついてよ、とっても感謝してんだ」
「いい話! 書き留めておいて、みんなに伝えたい」

 なぜ、豊作、何事も繁盛のお稲荷様が夜泣き封じをして下さるのか聞きたかったのですが、伝えはなく、西山のお稲荷様は、新しい御利益をもたらせ、大事に、大事におまつりされていました。
(2017.07.25.訪問 27日、記)

俵かつぎ

俵かつぎ

 『踏ん張って歩く姿かな?』
 『どこまでも前進、前進でしょ!』
 『だってェ・・・」
 いろいろの声が湧き、思わず首を傾げます。

 種を明かせば、「俵かつぎ」のモニュメントなんです。
 東大和市上仲原公園にあります。
 前回、居残り様として、11月20日の「えびす講」を紹介しました。
 丁度、麦まきが終わり、畑仕事も一段落する時期でした。
 「えびす講」 は農家にとっては「ハレ」の日でした。
 その時とばかり、村を挙げての運動会を行いました。

第一小学校
 (第一小学校)

 村中の青年達が第一小学校の校庭に集まりました。
 最初は、大正八年でした。当時六つの村がそれぞれ独立をしながら「高木村外五か村組合」を構成していました。
 財政危機もあり、小学校の建設を機に合併して大和村となりました。そこで、青年団の合同の運動会が開かれたのです。
 青年達は夜になると校庭や、神社の境内で、ハダカ電球をつけて練習に励みました。
 陸上競技の全種目が行われました。
 百㍍、二百㍍、八百㍍などの競技には予想屋まで出て人気はスターのようでした。
 得点は一等三点、二等二点、三等一点と加算して、分団の優勝が決まります。エキサイトしてくるに従い、村の住人でなければいけない、学生は出場できないなど出場選手のチェックもきびしくなり、役場の戸籍係は調べるのに忙しかったようです。

 中でも花形は六十キロの土俵をかついで百㍍を走る俵かつぎ競争でした。村一番の力持ちを決めるので、熱が入りました。入賞すると賞状と賞品がもらえて、醤油樽(一斗入り)をもらった人もありました。
 校門の両側に、アメ屋、オメン屋、団子屋等の店が出て、一日中お祭り騒ぎでした。

志木街道
(優勝した狭山の青年団が行進した道・志木街道)
          
 とっぷりと暮れた街道を楽隊を先頭にし、威勢よく帰っていくと、村々で飛び出して迎えました。
 戦後も暫く続きました。(『東大和のよもやまばなし』p130~132)
   (2016.11.29.記)

狭山丘陵の古狸

 暑すぎる日が続きます。フウフウしながら傍らを見ると鈍く輝くモニュメントに出会いました。
 東大和市内の江戸街道の北側、水道第二緑地です。
 これはなんじゃと根っからの好奇心。
 狭山丘陵の古狸とあります。

DSC_42431.jpg


 『東大和のよもやまばなし』を繰ってみました。

 「山ふところに囲まれた蔵敷のある農家で、養鶏をやっていた頃のお話です。
 大変なことがおきました。
 毎晩必ず一羽ずつ大切な鶏がいなくなってしまいました。どんなに注意してみても、翌朝見廻ってみると羽一枚残さずに行方不明になってしまいます。

 囲いをきっちりとやり直したがそれからも七羽もいなくなってしまいました。
 この辺りは水が豊富で二メートルも掘ると良い水が出て、井戸になっていました。十月もなかばの朝、モーターのスイッチを入れても動かないので不思議に思い、井戸をのぞきにいってみました。何か黒いものが見え、何と大きな狸が虫の息になっているのです。

 首筋から背中にかけて毛並が白く大の字に見え、ころころ太った狸でした。
 用心深い狸も、鶏一羽が入った大きなお腹をかかえて、ついうっかり、井戸にはまったのではないかと……。それ以来鶏をぬすまれることもなくなったそうです。

 この古狸今では剥製となり、思い出話の種となって保存されています。
 昭和四十六年秋の出来事でした。

 狭山丘陵にも昔は狸がたくさんいたそうです。おじいさんから聞いた話では、夜中の十二時過ぎによばわり(夜廻り)すると狸が足もとにまつわりつくほどだったそうです。
 ホッ、ホッと十秒位の間をおいてなく狸の声も最近はついぞ聞かれなくなりました。」(p184~185 一部省略)

DSC_42451.jpg

 秋口に、このタヌキの故地を訪ねてみます。(2016.09.09.記)
sidetitleプロフィールsidetitle

野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleLc.ツリーカテゴリーsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR