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前野稲荷さんの原風景

 我がまちのお稲荷様の言い伝えを調べています。
 村山貯水池に沈んだ戸数28戸の「内堀」という集落では、江戸時代、瘡守稲荷(かさもりいなり)、峯稲荷、失物稲荷(うせものいなり)・・・などがまつられていました。死が伴う疱瘡についての無事や治癒を願う瘡守稲荷、おそらく高台にまつられていたであろう峯稲荷はストンと納得ですが、失物稲荷にはよほど何かがあったのだろうと苦笑です。

 そうこうしているうちに、次の記録に出会いました。

 「前野稲荷は前野に在る。神木の大杉は廻り一丈三尺余(約4メートル)で、田無や柳澤辺よりも見える程の高さであった。弘化三年(1846)二月二日の大風で倒れてしまった。俗に枯杉稲荷と呼び伝えられる。
 境内に紅葉の大木がある。廻り八尺余(約2.4メートル)である。明治維新の際、伐って神官の復飾料に供した。」

 という、『狭山之栞』 の記事です。江戸時代末から明治初年にかけて地元の郷土史家杉本林志氏が書き残しました。
 前野とは名の通り、集落から少しばかり離れた畑作地域です。1600年代末に茫々たる武蔵野の原野を新田開発した区域で、一面に畑が広がっていました。

前野稲荷位置図
昭和13年(1938)大和村図(クリックで大)

 昭和13年(1938)の図ですが、赤点が前野稲荷の地です。周辺は全面桑畑になっています。明治まで、ここに、大人二人で抱えるほどの大杉と紅葉の大木が並んで、その元に小さな社があった、これが原風景のようです。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、境内面積は92坪(約300㎡)、信徒49戸とされます。文字通り穀物、豊作祈願の神でした。

蔵敷の三本杉
蔵敷三本杉(クリックで大)

 どこかに原風景を偲ばせるところがないか探しました。お稲荷様ではありませんが蔵敷の三本杉に見られそうです。
 周辺の人家を全部消して、一面の畑の中にポツンと三本の大杉がある姿をご想像下さい。ここでは、根元に塚が築かれ天王様がまつられていました。

DSC_4947.jpg
狭山神社の境内社としてまつられている前野稲荷社(クリックで大)

 東大和のお稲荷さんは屋敷神を含めると233社あります。その中で、原にまつられたのは前野稲荷だけと云えるかもしれません。「稲生り」(いなり)、「稲成り」(いなり)などがお稲荷さんの語源とされます。畑の中にまつられ、まさにその象徴とも云えそうです。

 紅葉の大木は、明治維新の際、伐られて神官の復飾料になりました。神仏習合排除によって、それまで円乗院が別当としてお守りしていたのを、僧侶の一人が神官になっておまつりすることになりました。その身分替えの経費となったようです。明治39年(1906)、前野稲荷は狭山神社の一隅に遷されています。原風景の写真が残されていればと、手を合わせる度に思います。

DSC_3886.jpg
杉の大木の画像が見つかるまで、暑さしのぎに西芳寺の切り株です。(クリックで大)

  (2017.08.04.記)

天保の飢え人

 天保年代(1830~43)は、寛政・天保小氷期と云われるほど、寒冷化が特に厳しい時代でした。
 冷害に見舞われ、作物の不作が続き、農村は飢饉に襲われました。
 東大和市域の村々は猛烈な飢饉により、下記の表のような飢人が発生しました。

天保8年飢人一覧
(クリックで大)

 この状況に蔵敷村では富裕者10人が稗15石を窮民50人に配布して一時しのぎをしましたが、追いつかず、幕府から15両を借りてどうにか切り抜けました。

 この年は飢餓が広範囲に及んだため幕府も「飢餓救方教諭」を村々に発しています。隣村の三ツ木村に宛てられたものが残されています。
  「貧民飢窮にせまり、余儀なきお助けと云い、軒別にこぞって隣村または追々御府内までもまかり出て物貰い、袖乞いなど致す・・・」として、村の人口が減り、村方が衰微するので、そのようなことのないようにせよと沙汰をしています。一方で、「米を買い占めたり、余業に穀物商いを始める者まで出てくる・・・」(武蔵村山市史上p1122)と指摘していることに、「いつの世も・・・」と嘆き節が聞こえます。

 前回紹介した作物の状況と合わせると村人達の呻きが直に聞こえてくるようです。(2017.06.04.記)
 
 

稗と粟が主食だった

 厳しかったです。江戸時代の末、東大和市の農業の実態です。
 蔵敷村に残された里正日誌によって少し分かってきました。

 天明年間(1751~88)の天災~不作~飢饉の連鎖は有名ですが、文化、文政期にもそれは続いていました。
 文政4年(1821)9月、蔵敷村では前年からの天候不順に作物が育たず、年貢減免の猛運動をしました。
 その時の作物の状況が「蔵敷村草損御見分書上帳」に残されています。

文政4年蔵敷村作付け
 (クリックで大 東大和市史p201)

 稗、粟、芋が中心で米・陸稲(岡穂)の作付けは低く、村人達はほとんど米を口にすることが出来なかったようです。
 しかも、年貢は現物で納められず、金納でした。同じ年の後ヶ谷村の村明細が残されていますが、
 「古来より困窮村にて、近くの山で薪をつくり、炭を焼いて、時には青梅、八王子、五日市、飯能方面に薪や炭を買い求めに行き、一晩中歩いて江戸のお屋敷に納めています」と駄賃稼ぎを訴えています。

 主食の生産が天災で皆無となり、ついに、蔵敷村では、翌・文政5年(1822)、78人の飢人が発生します。
 減免どころではなく、稗12石余を借り入れて、ようよう飢えを凌いでいます。
 食糧自給率39%(カロリーベース)の中での飽食、気懸かりです。(2017.05.29.記)
 

『新編武蔵風土記稿』に描かれた東大和の村々

江戸時代末、東大和市の村々はどのような姿をしていたのか?
 幸い、1800年代初め、幕府の手によってまとめられた資料があります。
 『新編武蔵風土記稿』(多摩関係は文政5年・1822) 『武蔵名勝図会』(文政6年・1823)です。
 また、地元の杉本林志氏による『狭山之栞』(江戸末から明治初年)があります。

 今回は『新編武蔵風土記稿』と『武蔵名勝図会』 から、東大和市域の村々を抜き出します。
 当時の村は狭山丘陵を背に南に広がる武蔵野の原野を新田開発した結果、縦に細く長い村が隣接し合っていました。

細長い村宅部村入りのコピー


 現在とは全く異なるので、戸惑います。
 そこで、原文の途中に現在の画像を入れて試してみました。しかし、かえって読みにくくなることがわかりました。
 むしろ、『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』の原文を横書きにしたまま紹介した方が良さそうです。
 江戸時代以降との比較に小字名が参考になるので、両著各村の文末に、町名整理前の図を添付します。
 各村の状況は別のページにまとめます。(2016.07.14.記)

 新編武蔵風土記稿東大和市域の村1 芋久保村、蔵敷村、奈良橋村
 新編武蔵風土記稿東大和市域の村2 高木村、後ヶ谷村、宅部村、清水村

病死、嫁婿縁組み、出生のバランス?

 「江戸時代のうちの村の人口って、どんな動きをしたんですか?」
 「難しくって・・・、困ってるんだ」
 「うちの村にも、五人組とか宗門人別帳とか残っているんでしょ。
  欠落(かけおち)の記録なんか、そこに付けられていると聞きましたが。
  そうならば、ちゃんと辿れるはずなのに」
 「いやいや、もう、勘弁しろよ」
 高校の先生になったばかりの近所の息子さん。迫りに迫って来ます。
 やむなく、下の表を出します。

蔵敷村人数増減
(出典 大和町史研究1p55)

 蔵敷村(現・東大和市蔵敷)の内野家に伝わる記録です。
 宗門人別帳によって研究者が調べた数値で、人口の動きの内容がわかります。

 文化2年(1805)には、病死が1、婿入りが2、出生が9、差し引き10人の増。
 文化15年(1818)には、病死が2、お嫁さんに他村に行った娘が1人、出生1人で、差し引き2人の減。
 文政7年(1824)には、病死が2、嫁婿縁組みで2名の増、出生なしで、差し引き増減なし。
 出生無しは文政8年、9年と続く、人口が減っちゃう。これはどうした理由?
 
 ・江戸時代の村って、縁組みまで関係するんだ。婿取りが多すぎない。
 ・いや、出生がない年が3年続くなんて、おかしい。
 ・村高に人口がほぼ一致って云うから、そうなるように制限したんじゃないんですか。
 
 問いかけは尽きません。
 そこで、仕方なく
  「宗門人別帳や村明細の記載には、一才から五才までの子どもの扱いが統一されていなかったんだ。
  だから、人口の動きがこの通りかどうか、わかんないよ」
  「???・・・」
  本当に実態がわからなくて困っています。肝心なことなのに!
  (2016.05.28.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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