南街地域

映画館があった辺り
大和通り(映画館があった辺り)

「南街って細い路地がいっぱいあって、人懐かしくなるまちね。ちょっと入ると、お隣同士って感じで、これが、人っ子一人居ないところに出来たまちとは思えない。」
「うん、まちが出来たのは、昭和12年(1937)から13年。大森から東京ガス電機工業(株)が引っ越してきた。立川飛行場が近いということで、飛行機のエンジンを作る会社さ。
 だから、南街と一口に云うけど、工場群と社宅・福利厚生施設群が併さっている。その社宅・福利厚生施設群が現在の南街で、工場群が桜が丘。ただ、社宅がどのような規模だったのかは、わかっているようで、はっきりしない」
 
東大和市町名図南街

「今の南街地域とは違うの?」
「ほぼ同じようだけれど、もっと広くて、西は立野三丁目までは含まれていた。ダイエーがあったところは、青年学校だったし、森永の近くに第三社宅があった。青梅街道から東は、修練所として、広大な農地があったそうだ。現在の向原六丁目に当たる。聞く人様々な答えで、ここもはっきりしない」
終戦当時の南街 
「映画館や楽隊の演奏場もあったんだって?」
「映画館は今のいなげやさんのところで、楽隊の演奏場は南街公民館のところにあった」
「最初は「みなみまち」って呼んだって?」
「終戦直後の東大和市の想定図をつくってみた。奈良橋の庚申塚と清水の江戸街道付近に主に村山貯水池から移転された方々が住んで居られた。それ以南は南街を除いて住居は一つも無かった。
 庚申塚から、結構、遠く感じたよ。そう云うこともあったのか、狭山丘陵の旧村を「本村」(ほんそん)、南にできたまちを「みなみまち」って呼んでいた。終戦直後の昭和20年には「本村」「南まち」の区分が普通だった」
「バスの車掌さんが「ナンガイ」って云い始めたって本当?」
「多分そうだろうね、地元の人は「南まち」で、ちっとも違和感はなかったけど、「南街」と書いて「みなみまち」と読むのは結構難しいかも知れない」
南街地域2

「最初から南街には水道があったんだって?」
「簡易水道だけど、蛇口をひねれば水が出て、珍しがられたそうだ。トイレはくみ取りだったけど、生活排水は下水道だった。昭和10年代の初め、この辺は井戸が普通だったから、本村の人にとっては一種のカルチャーショックを受けたというよ。
 まちについては、きりがないから、追々、話すよ」

路地の間を挨拶が通う
路地の間を挨拶が通う

 インパクトの強かった南街ですが、当時の社宅は建て直しが進み、まちの姿は変わりました。しかし、注意して歩くと、新旧交々の姿を目にします。何枚かの地図を眺めていると、現在の東大和市は、古代からの歴史を持つ狭山丘陵南麓の「本村」と、昭和12年以降の新しいまち「南街」を核にして、形成されていることに気付きます。

・東京瓦斯電機工業(株)の立地(社宅・厚生域)
 変電所跡(平和広場)
 当時の姿を残す社宅
・青梅街道、桜街道(第二の江戸街道)、バス停・ガス電通り、富士見通り
・地域防災計画
・新海道公園、栄公園、末広公園、協和公園、協和子ども広場、山王公園
・モニュメント
 鳥と子ども達 へびのステッキ
・よもやまばなし
 45山うなぎの蒲焼きとステッキ(100)、47南街のブラスバンド(105) 48賛報会館と映画館(108)
 49日立だんなと日立乞食(110)79娘っこに化けた狐 (176) 

話題(南街に関するブログなどをリンクします)

青年学校跡に小学校、中学校

 ショッピング施設の建設が進みます。その槌音を前にして、第二次大戦中、ここに青年学校があり、多くの青少年が全国から集まっていたことに思いを馳せます。そして、終戦直後、新教育制度に対応しようと、学校施設確保のため、東大和の村人達がこの地に繰り広げた涙ぐましい運動の経過が、めぐるましく浮かび上がります。
 
ダイエー跡地3のコピー
ショッピング施設(ヤオコー)の建設が行われている

 昭和14年(1939)、この地に日立航空機付属青年学校が開かれました。昭和20年、米軍の空爆で工場群は壊滅しましたが、青年学校は残りました。戦後、教育制度は大きく変わり、青年学校制度は廃止されました。
 昭和22年(1947)4月、六、三制・義務制による小学校と中学校、そして、昭和23年、新制高等学校、昭和24年新制大学校による新しい学制が始まりました。ところが、戦後の混乱期、何もかも不足します。とりわけ厳しかったのが、村には、新しい教育制度が発足しても、それに対応する教室が無い事でした。この危機を救ったのが青年学校の校舎でした。

小学校
南街の子供達は大和小学校へ通った_edited-1

 昭和20年の終戦当時、大和村の小学校(当時は国民小学校)は現在の第一小学校のところに一つだけありました。南街の子供達もそこに通いました。南街には、戦前からの日立航空機の工場の社宅・家族寮があったことから児童の数が多く、村全体として深刻な教室不足が起こりました。やむなく、小学校で、午前・午後の二部授業が行われる状況でした。
 戦後の混乱で学校建設は出来ませんでした。南街から現・第一小学校までの通学は低学年児童にとって過重な負担でした。また、新制中学校の発足により、大和小学校の更なる二部授業の必要性が増し、その解消を急がせました。
 そこで、注目されたのが青年学校跡の校舎の利用でした。議論の結果、小学校の通学区域を分けて、青年学校跡に、学習の場をつくる事になりました。

小学校分教場設置の頃


昭和21年5月、もと青年学校の校舎を借りて、南街地域の4年生以下を対象とする「仮教室」「分教場」が発足しました。 

中学校

小学校分教場・中学校設置の頃22年


昭和22年4月、新学制のもとに中学校が必要になりました。これまでの小学校卒業後、2年制の高等科の子供達が中学生として移ります。当時の村には、中学校用の校舎はありませんでした。新しく建設も出来ませんでした。法律の定めに応じて
昭和22年4月1日、ともかく、大和中学校を開校します。 
昭和22年5月10日、開校式が行われました。新校舎がないため、現・第一小学校校舎の校舎を間借りしての開校でした。当時の北校舎の3教室でした。
 小学生と中学生がごった返します。教室のやり繰りのため、小学校1・2年生の授業を午前中で終わらせて、中学校の授業を午後に実施する事になりました。この急場凌ぎは、すぐ、問題となりました。その解決のために選ばれたのが、もと青年学校校舎でした。村はもと青年学校の校舎を借りる事を決めます。
昭和22年9月8日、大和中学校は南街に移り、もと青年学校の校舎で授業をすることになりました。
昭和23年12月26日、大和村はもと青年学校校舎を買収します。
 こうして、日立航空機付属青年学校の旧校舎には、大和村の小学校と中学校が併設されました。中学校の生徒達は鎌や草かきを持って、毎日のように、草ぼうぼうの校庭整備を進めました。父兄も駆けつけ地域ぐるみの活動が続きました。

小学校分教場・中学校設置の頃2_edited-1

 一方で、折からの青少年の非行化を背景に、小学校側から、小・中学校の同居による児童生徒の「不良化」の問題が提起されました。小・中学校の連携が課題となり、PTAの組織化、地域と教職員との協議がもたれ、望ましい教育環境の整備を進める事になりました。南街への小学校の建設促進の気運が沸き起こり、昭和26年(1951)南街の人々により「南街分校設立促進委員会」が結成されました。翌27年、教育委員の選挙が行われ、大和村教育委員会が発足しました。村は、南街に小学校の建設を決めました。そのようなとき

昭和27年(1952)9月25日、村は突然、国から、日立航空機工場群の土地(西武鉄道が所有)を「米軍空軍施設建設」にあてるとの通知を受けました。小学校の分教場・中学校校舎の目の前です。
昭和27年12月25日、村は、「在日合衆国軍兵舎建設反対」の村民大会を開き、村をあげての反対運動が展開されました。運動の最中

昭和28年(1953)5月、南街に新設の小学校が建設され、大和小学校分校が発足しました。やがて、第二小学校になります。
昭和28年3月5日、反対を続ける村に、兵舎建設の公文書が届きます。強制収容を伴う内容でした。村は補償交渉に転換し、中学校の移転を決定しました。
昭和30年(1955)、大和中学校校舎新設に着手しました。
昭和31年2月、工事が完了、大和中学校は現在の第一中学校の地に移りました。

第二小・大和中学校の建設_edited-1

 現在、東大和市には5つの中学校と10の小学校があります。その最初の出発の時の出来事です。要点を箇条書きにしました。もし、青年学校の校舎がなかったら、と当時の経過が現実と二重写しになります。
 当時の画像を添えられないのがとても残念です。東大和市史、同資料編、写真集東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の昭和史(千秋社)などを参考にして下さるようにお願いします。



日立航空機付属青年学校跡

 今では、想像も出来ませんが、画像の位置に「青年学校」がありました。日立航空機株式会社の工場の付属施設として設けられた戦時中の教育施設です。全国から青少年が集まりました。この学校で学び、青春をこの地に焼き付けた若者が一時は約3000人以上生活して居たとされます。
 
青年学校跡
解体前のダイエーと丸山台団地。
青年学校はこの一帯にあった。中央の道路はなかった。
 
青年学校跡周辺図_edited-2

青年学校


 昭和14年(1939)4月1日、青年学校はこの地に開校されました。正式名称は「日立航空機付属青年学校」です。前年に、現在の南街と桜が丘の地域に、工場群と社宅群を建設した東京瓦斯電気工業株式会社の大森工場から移設されてきました。東京瓦斯電気工業株式会社は1年で日立航空機(株)と名称変更したので、青年学校は「日立航空機付属」を名乗っています。

 青年学校は小学校卒業後、旧制の中学校、高等女学校、実業学校などに進学しないで、職業に就いた勤労青少年・少女のために設けられた教育機関です。日立航空機付属青年学校は勉強しながら、有給で、工場に従事し、教育期間は5年間でした。二階建ての建物で、講堂、教室、食堂、居住室によって構成されていました。修身、公民、国語、数学、英語、物理、力学、機械工学、材料学などの教科がありました。学校長や教官は 

 学校長  竹本宇太郎 陸軍少将
 軍事教官 梅沢 克己 陸軍中尉他
 とされるように、当時の時代の風潮の最先端でもありました。

 最盛期には3000名の生徒が全国各地から集まったと伝えられます。近隣町村の子弟も入学が認められ、当時の大和村の青年も学んでいます。午前中授業、午後は実習または作業でした。『実習工場では、機械工になるための旋盤操作、万力に金属を取り付けハンマーの打ち方(ハツリ)や、ヤスリをかけて仕上げる工法、ゲージやノギスの使い方など・・・』が行われています(東大和市史資料編4p34)。工場生産への実技が日課であったことがわかります。

日立航空機付属青年学校位置図

 残念ながら、この青年学校で過ごした青少年達の生き様はわかりません。多感期の少年、青年達には多くの出来事があり、想い出が築かれたと思われます。この記事を目にして、当時の事を知る方が居られましたら、是非、お話をお寄せ下さるようにお願い致します。数少ない資料の中に、東大和のよもやまばなしとして、次の話題が伝えられています。

【山うなぎの蒲焼きとステッキ】

 第二次世界大戦の頃のことです。当時の大和村も戦争が進んでくると、配給がきびしくなり食糧も不足になってきました。
(一部省略)栄養補給のため「山うなぎをたべた人もいた」と聞いたので、よく話を聞いてみたら、それはヘビの事でした。
 現在の玉川上水駅付近は、雑木林が続きワンパク少年達の遊び場でした。
 そこには長さ七〇センチメートルから一メートル位の、茶色に黒の縞蛇(しまへび)や、青大将、黒い地もぐりが沢山いました。
 地方から日立航空機に動員された青年の中に、ヘビ取りのじょうずな人がいました。 まず雑木林から、適当な木の枝を見つけ先を割り、紐をつけた棒をはさんで簡単なヘビ取り器をつくります。
 ヘビを取る時は、細工した枝を何本も用意して出かけ、ヘビを見つけたらそっと近づき、首をはさんでひも紐を引くと、ヘビは苦しくて棒にまきつき簡単にとれました。 とったヘビの肉は骨つきのまま、四、五センチメートルに切って串にさして、醤油をつけて焼いてたべました。くさみもなく醤油の味がよくしみて、「山うなぎの蒲焼き」と云って貴重なタンパク源となりました。

 又、ヘビでステッキを作った人もいました。・・・風通しのよい場所で蔭干し乾燥させると、皮が棒にぴったりとはりついて、立派なステッキができ上りました。(一部省略)

 南街5丁目の栄公園の一角にモニュメント「へびのステッキ」が設置されています。

へびのステッキ

戦後教育の宝物となる

 この青年学校の建物は、東大和市にとって、戦後教育の宝物となりました。工場群は昭和20年、米軍の爆撃で壊滅しましたが、校舎は戦災を免れました。桜街道の真ん中にやけ焦がれた桜の木が続き、不思議と残った二階建ての青年学校の姿が印象深く語られました。

 戦後、青年学校制度は廃止され、小学校6年、中学校3年の義務教育、高校3年、大学4年の新しい教育制度が発足しました。当時の大和村には、こ新制度に対応する校舎がありませんでした。厳しい教室不足が生じ、その対策として青年学校の建物が生かされました。
 現・第二小学校、東大和市最初の中学校(現・第一中学校)の教室となって難問が乗り越えられました。これらの学校にとっては、創建に近い地と云えます。次のページで紹介します。

 当時の画像を添えられないのがとても残念です。東大和市史、同資料編、写真集東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の昭和史(千秋社)などを参考にして下さるようにお願いします。
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野火止用水

Author:野火止用水
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