ようこそ狭山地域へ

ようこそ狭山(さやま)地域へ(テスト中)
ようこそ狭山へのコピー 

狭山位置図

 市の東北部、上図のグリーンで印したところが狭山地域です。1丁目から5丁目に分かれます。縦に細長いのは、江戸時代の姿を残しているためです。村山貯水池を北の限り、旧江戸街道を南限としています。歩くと、丁目それぞれに、特有の雰囲気があります。

1、丁目のあらまし

狭山1から2丁目
狭山1丁目 狭山丘陵の尾根からから2丁目方面
 
 道路の背後が村山貯水池で、狭山丘陵の谷筋に成立する地域です。「狭山たんぼ」と呼ばれた山峡田の水田が住宅地化されています。全体に、起伏に富み、現在も丘陵の開発が少しずつ進んでいます。

狭山2丁目狭山神社
狭山2丁目 狭山神社

 谷ッ入りと呼ばれる地域で、谷を挟んで狭山神社と円乗院があります。この前方に狭山公民館があります。神社の前の道は中世からの八王子道の一部と考えられます。鳥居の階段の前に江戸時代には高札場があり、村の中心地でした。石灯籠は幕末にこの地で起こった出来事を語ります。現在は一個建ちの多い住宅地となっています。

狭山3丁目バス停
狭山3丁目 西武バス狭山3丁目バス停(立川駅~東村山駅)

 狭山丘陵の谷筋に成立した古村です。円乗院と狭山神社が谷の両脇に向かい合ってあります。バス停のある道は「志木街道」(しきかいどう)で、狭山の2丁目と3丁目が区切られます。商店街が続き、右方面は西武鉄道武蔵大和駅、左方面は奈良橋を経て武蔵村山、青梅市へと向かいます。
狭山4丁目新旧混じる住宅地
狭山4丁目 新旧混じる住宅地 

 旧集落の南限で、畑作の広がる地域でした。現在は、新旧の住宅が混在して、静かな住宅地となっています。道路は清戸街道です。左方面は高木神社の前を通って奈良橋に達します。右方面は埼玉県志木方面で、かっては清戸(現・清瀬市)を経て新河岸川に通じ、所沢方面からも賑わいました。
 
狭山5丁目
狭山5丁目 江戸街道に面します。

 狭山の南限です。バス停は東大和市営チョコバスの「江戸街道」です。名前が貴重な存在となりました。昭和30年代までは武蔵野の原を新田開発した一面の畑でしたが、新青梅街道に接続することから事業所と住宅が混在する地域を形成しています。

2、地域のご案内

 歴史が古く、まちの姿も起伏が多くて変化に富んでいます。どのように歩いても、何かしら発見があります。

・寺社、史跡

・狭山神社、稲荷社、山の神、神明社跡
・円乗院
・霊性庵(狭山三十三観音17番札所)
・旧村山道一部、志木街道、江戸街道
・杉本坂
・高木・狭山村境界
・前川、空堀川、谷ッ入川
・都営住宅

・モニュメント
 野球少年
 
・よもやまばなし
 愛染様、力石、昔の学校と子供たち、ザンザラ 
 村の運動会、行人塚

・東やまと20景
 円乗院

 ご案内したいところだらけです。江戸時代からの石造物はもとの位置から移動しているため、わかりにくいのが残念です。くわしくは別に記します。次をクリック下さい。

 狭山地域の歴史 見どころ・訪ねどころ

(2014.03.01.記)

狭山地域の歴史

 狭山は現在、1丁目から5丁目に分かれて、村山貯水池を北限、旧江戸街道を南限としています。昭和50年(1975)までは、2番目の図のように現在の向原・野火止用水付近にまで達する縦に細長い村でした。

1、二つの村が一緒になった

 狭山地域には、中世の頃から、下の図のように
①内堀と杉本
 =村山貯水池に沈んだ古村、現・多摩湖1,2,4丁目の一部
②回田谷ッと谷ッ入り
 =丘陵南麓の古村で後ヶ谷(うしろがや)と呼ばれた。現・湖畔1,2丁目、狭山2、3丁目

 二つの集落がありました。もともとは独立していて、1591年、家康の家臣が配属されてきたとき、合わせて一つになって、「後ヶ谷村」をつくったと考えています。多分、それぞれの集落に有力者が居たのでしょう、一村になってからも両方の集落に、一人ずつ「名主」を置いて、かわりばんこに村の仕事をしていました。
 
 後ヶ谷村の村人達は丘陵の谷筋を中心として集落を形成していました。家族が増えるにつれ新たな生活の基盤の拡大が必要になりました。丁度1653~54年に、玉川上水、翌1655(承応4年)に野火止用水が開鑿されたことから、当時、南面に広がっていた武蔵野の原野を南へ南へと新田開発を進めました。おおよそ1680年代までに、下の図のように野火止用水に達するまで開発が進み、細長い村をつくりました。
狭山小字図4_edited-1

 その後、村に配属された地頭は江戸に居所を移し、領地は幕府に帰属して、代官が置かれるようになりました。その過程で、1737(元文2)年、内堀地域は独立して「宅部村」を形成したようです。杉本、回田谷ッ、谷ッ入り地域は、これまでの「後ヶ谷村」を名乗りました。

 両方の地域は縁戚関係もあり、家族の分家と独立もあって、土地が細分化されて入りくみました。その状況で明治維新を迎えて、土地台帳を整備することになりました。余りに土地の所有が入り乱れて、地番がうまく付けられないことがはっきりしました。そこで、やむなく「宅部村」と「後ヶ谷村」を合併して、地番を振り直すことにして、明治8年(1875)、狭山村が誕生しました。

 大正4年(1915)、村山貯水池の建設によって、湖底に沈む古村の人々は移転することになりました。家財道具から墓石などを荷車で運んで、狭山4丁目から5丁目、奈良橋4丁目から6丁目周辺に移転しました。そのときに移された文化財が、狭山2~3丁目の円乗院、霊性庵、狭山神社、奈良橋の雲性寺に集中して残されています。

 昭和50年(1975)に、町名地番整理によって現在の姿になりました。

2、狭山という地名

「狭山って、素敵な名前ね。やっぱり狭山丘陵の地形からきているのかしら?」
「狭山丘陵って、古代から里山に集落が築かれ、そんなに高くない峰が連なっているだろう。その峰の群れが、群れ山⇒村山で、刻まれた谷が狭いので⇒サ山になったともいわれるけど・・・?」

「へー、私の友達が埼玉県の狭山市に住んでるんだけど、どっちが本家?」
「それは、複雑だよ!! 
 東大和市の狭山が狭山を名乗ったのは明治8年(1875)
 狭山市が狭山を名乗ったのは昭和29年(1954)
 だから、80年の差がある。なんてのは駄目だろうね」

「どうしてさ」
「どっちも、いくつかの村が合併するとき、新しく選んだ名前だからさ。
 元からの集落や村の名前であったら文句は出ないだろうけど、例えば、瑞穂町から「狭山が池」はすでに古歌にうたわれている。入間市から、宮寺には天保3年(1832)の撰文銘をもつ重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)に狭山がある、なんて苦情が出たら、グウとも云えない。また、狭山を名乗る池や場所や謂われはいくつもあるから・・・」

 どうか、狭山という地名の由来を説き明かして下さい。

 狭山地域の見どころ・訪ねどころへ続く。

 (2014.03.02.記)


狭山地域の見どころ、訪ねどころ

狭山地域の見どころ、訪ねどころ(テスト中)

1、狭山への交通

 中世からの古村で、見どころ、訪ねどころがたくさんあります。

・西武多摩湖線武蔵大和駅を降りて志木街道を西へ進む
・西武バス「狭山三丁目」(立川駅~東村山駅)
・チョコバス「狭山三丁目」で下車

 志木街道を挟んで北側に2丁目、3丁目、南側に4丁目、5丁目があります。1丁目へは武蔵大和駅から村山貯水池の周囲道路を進みます。また、志木街道から、消防団第2分団詰め所の角を曲がって、2丁目、3丁目の間の江戸時代からの坂道を越すと達します。


2、見どころ、訪ねどころ

 かって、この地域は歴史のところで記したように
・村山貯水池に沈んだ旧村地域 
・狭山丘陵南麓の旧村地域

 の二つの地域がそれぞれに名主を抱いて、一つの村をつくっていました。村山貯水池の建設により、湖底の古村はなくなり、その文化財は南麓の社寺に集められています。里山集落のため、どこを回ってもトリコになります。
東大和市案内図狭山色囲み
(クリックで大)

 次の各項目をクリックして、目的の箇所をお選び下さい。

狭山神社
神明社跡神明社の大欅
円乗院(平治元年(1159)歴代住職供養塔)
円乗院周辺の板碑群(永仁の板碑=永仁2・1294年 東大和市内最古)
円乗院の石造物(愛宕大権現石灯籠、宝篋印塔、元禄地蔵尊、
     聖徳太子像)
円乗院と自由民権運動
円乗院の殉国産業戦士供養塔
霊性庵(狭山三十三観音17番札所)
霊性庵の石造物(六地蔵、馬頭塔、庚申塔、大日如来、
          六十六部供養塔、嘉永7年(1854)地蔵尊など)
志木街道(旧村山道一部) 江戸街道、杉本坂、
・前川(谷津大橋、坂下橋)、空堀川(狭山橋、上砂一の橋)、
 谷ッ入り川
高木・狭山村境界
都立東大和公園
・都営住宅

・モニュメント
 野球少年
 
・よもやまばなし
 愛染様、力石、昔の学校と子供たち、ザンザラ 
 村の運動会、行人塚

・東やまと20景
 円乗院

 話題(狭山に関するブログなどをリンクします)
 擁壁

  (2014.03.02.記)


狭山神社1(現在)

 かって、大道と呼ばれた地に狭山神社はあります。中世からの道と思われる2本の道が交差する場です。江戸時代、その名は「天狗明神」でした。古い歴史があります。そこに、明治39年(1906)、明治政府の一村一社方針により、別の地にそれぞれまつられていた神明社、愛宕社、稲荷社、山神社が遷されて、「狭山神社」となりました。その後、村山貯水池の建設により湖底に沈むことになった、内堀地域の御霊神社を大正3年(1914)に、合祀しました。
 
狭山神社全景
クリックすると大

 正面からの狭山神社です。中央に狭山神社、左に山神社(やまのかみしゃ)、右に稲荷社がまつられています。現在の社(画像では本殿とします)は平成6年(1994)に再建されました。本殿(覆殿)・弊殿・拝殿によって構成されています。 社の中には二つの社殿があり

中央に本社殿
・天狗(天空)大明神(伊弉諾神(いざなぎのかみ)、
 伊弉冉神(いざなみのかみ))
・御霊明神(御霊大神 明治12年(1879)書き上げでは
 早良親王(さわらしんのう)他7神)
・愛宕社(阿遇突智神 かぐづちのかみ)

右側に神明社
・神明社(天照大神)
 がまつられています。昭和39年(1964)までは、画像本殿の北側左に愛宕社、本殿右側に神明社が、小さいけれどそれぞれ独立した社をもってまつられていました。昭和40年(1965)9月、愛宕社を本社殿に合祀、神明社の社を本殿の内部に遷して、現在に至っています。このまつられ方に、古い歴史の背景が籠められています。(2013.02.20.記)

 狭山神社2 狭山神社となるまでに続く   ウオーキングマップ多摩湖編に戻る

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狭山神社2(狭山神社となるまで1)

 狭山神社の近くに引っ越してきたのは、昭和19年(1944)、小学校5年生の時でした。天狗が大好きな孫に「天狗の神様だってさ。よかったね。」との祖母の言葉がこびりついて、狭山神社=天狗の神様と思い込んでいました。 やがて、調べると、境内にはたくさんの神々がまつられているのに、天狗様は居られません。本殿の中には、伊弉諾神(いざなぎ)、伊弉冉神(いざなみ)の神が居られます。さて、どうしてなのか不思議でした。その答えは、狭山神社が生まれる過程にありました。

1 江戸時代から明治初年にかけての神まつり

 狭山神社は、かっての村人の「神まつり」と、明治以後の歴史の流れをよく残しています。「狭山」が「後ヶ谷村」(うしろがやむら)と云われた江戸時代、次の図のように、神々は村人達の心の向かうところ諸所にまつられていました。どの神も、いつまつられたのかは、はっきりしません。
 
後ヶ谷村の神社_edited-4
クリックすると大

 図は、江戸時代から明治初年までの神々の地です。村が、明治12年(1879)12月5日に提出した神社明細帳には、狭山地区には①天狗明神、②神明宮、③愛宕大権現、⑥御霊明神、⑧稲荷社、⑨山神宮の6社が書き出されています。この図では、関連する④円乗院、⑤霊性庵、⑦厳島神社を書き加えてあります。

 これらの神社について、地元の地誌記録家・杉本林志(しげゆき)氏は、江戸時代末、明治初年の頃の状況を次のように紹介します。
 
①天狗明神(後に、天狗社或いは天宮社 現在、狭山神社所在地)
「天宮神社
 字上の屋敷に在り。元鎭守神明あまりに霊験嚴かなりしに、遙拝所を建立せしを、終に鎮守とし、天保八年八月祭日を八月一日と改め、初めて幟一門を納めしが、其時、誤りて天狗大明神と染めしにより、現今も然か呼べど誤なり」

②神明宮(後に、神明社 狭山字前野=現・第二消防団詰所 神明宮跡の碑がある)
「神明神社(清水堺に在り) 
 伊弉諾尊を祭り、祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが、現在三畝拾四歩は官有地たり。従来、村里の鎮守にして、旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遥拝所を建て、天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東、清水村に在り。
 当社の神木柊(ヒイラギ)は廻り一丈二尺余ありしが、立ち枯れとなり、啄木鳥(きつつき)などの巣喰ひ居りしが、文政度、大風のため、枝葉も折れ終に朽ち倒れ失ひり。・・・」
 ◎幕末には、このブログ「狭山・神明社の大欅」で紹介した事件が起こります。

③愛宕大権現(後に、愛宕社 円乗院裏山)
「愛宕神社
 狭山南峯の出崎にあり。神体は將軍地藏也。下田七畝廿歩の除地を賜はり円乗院が別当なりしが、維新の際、弟子秀鏡復飾して、後藤兵庫と改称、神官となる。祭典六月廿四日。」

④円乗院(慶長年12年(1607)に、旧地・上の屋敷からうつる。平治元年(1159)始祖の碑がある)
⑤霊性庵(狭山三十三観音十七番札所)

⑥御霊明神(後に、御霊神社 村山貯水池に沈んだ内堀にあった)
「御料神社
 字内堀にあり。鎌倉権五郎景政の霊を祭る。古時は御霊明神と唱へしが、延宝五年、再検地のみぎり、御料所の鎮座なるに依て、県令設楽孫兵衛差図にて改む。維新の際、元の如く、御霊明神と更称、中田六畝廿歩の除地は奉還し、現今社地壱反壱畝廿歩官有地となる。
 別当常覚院は復飾して内堀宅美と改め神官となる。祭典毎年六月十五日。
 末社、弁財天は日杵嶋神社に天王は八坂と改称す。」

⑦厳島神社(二つ池の神)、円乗院旧地
 『狭山之栞』はこの地に、天空社(天狗明神、現在の狭山神社の前身)がまつられたとする。

狭山小字図4_edited-1 
クリックすると大

⑧稲荷社(狭山字前野=現狭山四丁目)
「前野稲荷
 字前野に在り。神木の大杉廻り一丈三尺余ありしが、自然立枯れ、遂には赤味ばかり数十年残り居り、田無、柳澤辺よも望み得る程の高さなりしが、弘化三丙午年二月二日の大風にて、たおれその跡を失ふ。俗に枯杉稲荷と呼び伝ふ。境内に紅葉の大木あり、廻り八尺余なりしが維新の際伐りて神官の復飾料に供す。」

⑨山神宮(後に、山神社 狭山字山神=現在第五小学校付近)
「山神の社
 野中にあり。祭神・茅屋野姫命(かやのひめのみこと)也。祭典二月十七日。寛文九年三月下畑五反壱畝六歩の除地なりしが、現今三畝拾四歩官有地となる。」

◎説明中、「内」は狭山之栞から引用
◎江戸時代、志木街道の南側は「前野」と呼ばれ、江戸街道以南は全て畑で人家はありませんでした。そこに「山の神」の地名(現在の向原1丁目、第5小学校付近)が残されました。「前野」にまつられたのが、稲荷社(狭山4丁目)で、「山の神」にまつられたのが山神宮です。後ヶ谷村では、山の神は山ではなく、野=畑にまつられました。高木村も同じでこの地方の特徴の一つと云えそうです。

2 神々は集まった

 6社の神社と関連する3社を紹介しました。狭山神社はありません。しかし、天狗明神の名があります。天狗の神様でしょうか? ドキドキです。

 明治12年神社明細帳に記載されていない狭山神社は、その後にできました。各地にまつられた神々は、明治政府の方針により、明治初年から明治40年にかけて、それぞれの地から、天狗明神(現在の狭山神社)の地に集まりました。そして構成されたのが狭山神社です。この経緯は長くなるので、次に続けます。  前に戻る (2013.02.26.記)
 
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野火止用水

Author:野火止用水
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