湖畔地域

湖畔2丁目西南角3
湖畔二丁目

「丘陵の日だまりのまちね・・・」
「古くは縄文銀座
 子どもの頃は、どじょう取りの廻っ田(めぐった)たんぼ
 最近では、どうにかして古代の住居跡が見つかって、文字の書かれた土器が出ないかなんて、希望の星」
「歴史バカにはそうかもしれないけど、車が無かったら、不便でしょうね」

東大和市町名図湖畔

 狭山丘陵の南斜面を西武鉄道(株)が開発した住宅団地をもとに、周辺に開発が進む地域です。二つ池を用水地とする廻田たんぼがあったところも、住宅で埋まりました。

 村山貯水池・多摩湖に接するところから「湖畔」の名が選ばれました。南側の丘陵部は都立東大和緑地として公園化されています。湖畔1・2丁目は坂が多い一方、湖畔集会所の裏には湧き水が保全されています。
 
湖畔地域2

「縄文銀座とか云ってたけど、どの辺り?」
「下の図で諏訪前のところにあたる。湖畔は諏訪前、大筋端、廻田谷、廻田田んぼ、谷ッ入で構成されているんだ。古代住居址が発見されているけど、廻田田んぼを管理していた人が住んでいたんだろう」
「こうなると、歴史的には、八幡谷ッと谷ッ入りなどを一緒に考えないと駄目みたいね」
大筋端文字入り_edited-2

 狭山丘陵が形成した廻田谷ッ一帯が湖畔地域となっています。ゆるやかな狭山丘陵の南面する日だまりとその前面に形成された山峡田、その南の丘陵によって、独特の景観を生み、町の都市計画によって、風致地区に指定されていました。

 現在の湖畔一丁目には数軒の農家と貯水池建設後に、観光者のための茶店がありました。周辺は雑木林で、江戸時代からの薪・炭獲得のための伐採による自然的な萌芽更新が行われていました。時には全面的に伐採され、数年後に新たな細木が成長し、その生育を待って再度伐採する仕組みでした。
里山管理が行われていました。

 昭和41年(1966)、西武鉄道(株)が宅地開発を行い、分譲したことから周辺の宅地化が進み、湖畔地区を形成しました。湖畔二丁目が、ほぼ、西武鉄道の宅地開発区域からなります。隣接する奈良橋一丁目、湖畔三丁目と併せて史跡の宝庫です。諏訪山遺跡、湖畔三丁目遺跡、廻田谷ッ遺跡、廻田谷ッ東遺跡と縄文時代から古代にかけての遺跡があります。

 湖畔三丁目は、湧水を貯留した二つ池を利用して、小規模ではあっても、東大和市内狭山丘陵南麓では最大の谷ッの水田(廻り田田んぼ)が営まれていたところとその南側の丘陵部によって構成されています。

 二つ池周辺には古代の生活跡が残り、東大和市では最初の人々の定着地であったと考えられます。歴史的には、古代の集落の存在が推定され、慶長12年(1607)まで、この地に円乗院がありました。
 水田のあった廻田谷ッは住宅地となり、接する丘陵部にも開発の手が伸びようとしましたが、東京都への要請を続け、昭和54年(1979)に、都立公園化されました。狭山丘陵最初の丘陵地都立公園です。
 湖畔三丁目の高台には、かって、市の直営水道の時代、2基の配水タンクが置かれました。狭山丘陵の高低差を利用して自然流下で市内への上水の配水がされていました。公園化と併せて水道事業の都営化により撤去されました。

 湖畔一丁目は従前からの居住地域に新しい開発が加わり、丘陵とコンクリートの独特の景観が目を惹きます。

 湖畔地域は環境抜群ですが、坂が多く、店舗も遠いこともあって、居住者の高齢化が進むにつれ、防災・交通対策が求められています。

・前川源流地、前川
・都立東大和緑地、二つ池公園、湖畔トンボ池(東京の名湧水43、42)
・諏訪山遺跡、湖畔三丁目遺跡、廻田谷ッ遺跡、廻田谷ッ東遺跡
・モニュメント
 16つちんど、22ごはん塚 
・よもやまばなし
 88こさ池とかゆ塚196
・東やまと20景
 15二つ池公園周辺、16都立東大和公園

 話題(湖畔に関するブログなどをリンクします)
 多摩湖と二つ池  路傍の花 湖畔トンボ池  不審者

杉本坂(すぎもとさか)

 「貯水池が出来きんと云うで、引っ越しただぁけんど、あんちゅったって、杉本坂はてえへんだった。あの坂だんべ、あに(何を)運ぶにも大事(おおごと)でよ。先祖様の墓石を運ぶときにゃ、そりゃ苦労したぁだ。」
 「立ちんぼが出ったけなー。荷車がくんと、尻を押してよ、駄賃を稼いでたなー」
 古老がいかにも懐かしそうに話すのが杉本坂です。貯水池に沈んだ地域と峰を超えた南の地域を結ぶ道路でした。
 
現在の杉本坂
現在の杉本坂

 村山貯水池が出来る前は、湖底に沈んだ北の谷の「宅部」「内堀」の集落と狭山丘陵南麓の谷の「後ヶ谷」の集落は一つの村を形成していました。江戸時代には、北の谷と南の谷にそれぞれ名主が置かれ、交互に村の仕事をこなしていました。その頃、峰を越して両者を結び、行き来したのが杉本坂です。北の谷の名主・杉本家の名をとってこの名がつきました。
 
杉本坂周辺図
明治14年測量図(迅速図)から杉本坂を辿る

 江戸時代には府中道と呼ばれる道筋が青梅橋から所沢の山口に達していました。曲がりくねっていますが古図では明瞭に辿れます。清戸街道、八王子道に結びついているので、中世からの道を思われます。

 ところが、呼び名がなくなり、地図から消え去ります。往来があった頃の明治14年測量の迅速図には明確にルートが記載されています。しかし、昭和2年(1927)、村山下貯水池の工事が完了して往来が絶えると、地図から消え去ります。昭和27年図にはかすかに残り、昭和33年(1958)図辺りから曖昧になります。全くやりきれない話ですが、図で紹介する次第です。

二つ池と廻田たんぼ

 都立東大和公園の遊歩道を正面広場方面に下ると、二つ池に出ます。現在は東大和市立二つ池公園として、池は一つだけ保存されていますが、かっては二つ並んで、廻り田たんぼの潅漑用水の働きをしていました。昭和40年代の開発により一帯は住宅地に変わり、用水の機能を失いました。
 
二つ池
二つ池の下の池

 狭山地域の水系は廻田谷ッと谷ッ入りの二つです。いずれも丘陵からの湧き水で河川の接続はありません。その水を利用して廻田谷ッは典型的な山峡田(やまかいだ)・廻田たんぼを形成し、谷ッ入りには極めて小規模な水田が営なまれていました。この地形から田んぼの周辺には丘陵の傾斜地を生かして畑が続いていました。

二つ池と廻田たんぼ_edited-1
狭山地域の水系と二つ池
 
 湧き水利用のため廻り田たんぼでは、図のように、どの田にも水が行きわたるように、少しの勾配を上手に生かして徹底した集約利用をしていました。驚くほど厳密に管理されていて、二つ池の存在価値がよくわかりました。

 土地利用も徹底していました。二つ池からの水は先ず、南北両者に分け、中程に細い流路を設けて全体に行きわたるよう仕組まれていました。田と田を区別する畔は細く、大規模な経営は出来ませんでした。田の一枚当たり面積はどの位あったのか、残念ながら現在のところ明らかに出来ません。「一坪田んぼ」の言葉が残ります。
狭い田が並んでいた

 もう一つ問題がありました。この地域の湧水は現在でも一部見られますが、鉄分の多いことでした。

鉄分の多い湧き水
鉄分の多い湧き水

 狭い面積と冷たい湧き水、多い鉄分のため、収穫は低く、江戸時代には山口領の悪米と称されて、年貢は現物納が認められず、金納でした。資料解明が進み、田の面積など必要な基礎数値が明らかになることを願っています。
 現在、池として残されているのは二つ池の下の池で、上の池は画像のようにその跡を確認することが出来ます。

上の池跡
二つ池上の池

  この手前に厳島神社の石碑がまつられています。
  同じような形式の山峡田が武蔵村山市内の都立野山北・六道山公園、武蔵村山市立野山北公園に保存されています。



sidetitleプロフィールsidetitle

野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle最新トラックバックsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleLc.ツリーカテゴリーsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR