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米軍大和基地の碑

 西武拝島線玉川上水駅を北口に降りると正面に駅広があります。
 数人が集まっていて、そのうちの一人が
 「あ、丁度いい、奴に聞けば、知ってるべー。
  よー、タバコ吸ってたら、急に聞かれてよ、困ってんだ。ちっと訳を話してくんねえか」
 と引き込まれたのが「米軍大和基地の碑」の謂われです。
 
 かって、この地が有刺鉄柵で囲まれ、門は軽易ではありましたが武装したアメリカ兵に守られていたことを知る人は少なくなりました。
 米国空軍の基地で、宿舎が建てられ、後にハイスクールにもなっていました。

 それ以前は、軍需工場があり、陸軍の飛行機のエンジンを作っていました。
 そのため、昭和20年(1945)、米軍の爆撃を受けて、一面が焼け野原となりました。
 その跡に米軍の基地がつくられたのでした。

玉川上水駅北口駅広
(クリックで大)

 質問は、基地のあった時、この辺はどんな雰囲気だった、
 どのような経過で基地になったのかと云うことでした。
 
大和基地碑所在地
(クリックで大)

 駅を降りて正面から左側に向かうと、島の広場に、喫煙所、ベンチ、水辺が設けられて、中央に米軍基地の碑があります。
 碑には「Yamato Air Station」と彫られています。

大和基地碑
(クリックで大)

 碑の傍らの説明版は次のように記しています。
 「かってこの地域は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました。
 この工場は太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼に(かいじん)帰しました。
 その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。
 この石碑はそのとき基地正門に建設されたものであります。(一部省略)
 
  平成二年一月吉日
           東大和市長 尾崎清太郎」
大和基地位置図
(クリックで大)

 この説明をもとに、丁度iPadを持っていたので、年表を引き出し、次のことをお話ししました。
・昭和20年(1945)、爆撃を受けた日立航空機(株)の工場跡地は西武鉄道(株)の所有地となっていた。
・工場に併設された青年学校の校舎(現在のヤオコーの場所)を当時の大和町は唯一の中学校校舎として使用していた。
・そこへ、昭和27年(1952)、突然、国から米軍兵舎建設の通知が届いた。
・町を挙げての反対運動が広げられた。
・しかし、昭和28年(1953)、用地は強制収容された。
・昭和29年(1954)、工事が完成した。
・昭和31年(1956)2月24日、基地として開設された。
・同じ年、中学校は現・第一中学校の地に移転した。
・その後も返還運動は続けられた。
・昭和44年(1969)、立川基地の飛行が停止された。
 いくつかの経過を経て、その時点では、大和基地は立川飛行場に含まれる施設であった。
・3年後に返還の実現性が出てきた。
・返還運動が高まる中、昭和48年(1973)、在日米軍基地の整理統合を機に返還された。

 ウオーキングの道筋で出会ったことですが、話している間に、爆撃の跡からのすさまじい変化に今後を重ね、考え込まされました。自分のブログに書き止めておくことも必要と、紹介する次第です。堅苦しい話で、恐縮です。
  (2015.07.23.記)
 

明治の小学校(東大和市)2

 明治の最初の小学校って、どんな様子?

 学校の仕組み

 「国民皆学」のスローガンのもとに、小学校は上等、下等に分かれていて

  下等4年間 6才から9才  
  上等4年間 10才から13才

 が就学を義務づけられました。

 実際はどのくらいが学校に通ったのか(就学率)
 全国の就学率は28%とされます。当時、この地方は神奈川県に属していました。神奈川県では40%弱が伝えられます。
 東村山市史では、市内4つの学校の就学率を 
  
  明治6年(1873) 32% 28% 13% 18% 

 としています。その後、学校施設の整備と共に増加したとされます(東村山市史下p85)。
 東大和市域では、最初のことははっきりせず、明治8年(1875)の蔵敷村の状況は

  学齢人口 6歳~13歳まで 男24人 女31人
  就学            男22人 女19人
                91%  61%

 となっています。これは、特殊な例と思われます。女子の就学率は低く、子守や家事手伝いをすることが多く、途中で止めて年季奉公に行く子もかなりいたと伝えられます。
  
 教科は

 大きく「習字」「算術」「読物・素読」に分かれていました。
 「習字」は、男子はイロハ、当用カナ、村名、国尽、消息往来、商売往来、農業往来などでした。
  女子は、イロハ、東京往来、陳情控、女消息などでした。

 「読物・素読」は、男子は和漢三字経、智恵の環、世界国尽などで、女子は女小学、女今川、女大学、智恵の環などでした。

 明治7年(1874)に蔵敷村の汎衆学舎(第百四十三番小学校)に備えられた教科書と教師用の参考書は次の通りです。(東大和市学校教育のあゆみ(p17)個々の児童は買うことが出来ずに学舎に備えていました。それらは、村の有力者の寄付であったようです。
明治の教科書
(クリックで大)
明治27年(1894)頃の様子

 建設時の授業の様子は伝えられませんが、時代が少し下がり、明治27年(1894)の頃の様子を『東大和のよもやまばなし』は次のように語ります。明治23年(1890)、学校の統廃合が行われ東大和市内の5つの学舎は3つの小学校に編成替えが行われています。

 「第一尋常小学校は芋窪の生活改善センターの所にありました。古い木造の校舎で、芋窪と蔵敷の子供たちが通いました。一クラスは三十人ほど、四教室ありました。その頃の校長、石井以豆美先生はひげを生やされ、年中「篠ン棒」(しのんぼう)を持ち、校長先生自ら授業をされました。今年八十六歳の木村さんは、小学生の頃、自習時間に遊んでいてそのムチでぶたれたことがあったうです。

 運動場は、豊鹿島神社の裏山の辺で、ここは子供たちにとって格好の遊び場、毎日にぎやかな声がひびいていました。

尋常第一小学校跡
第一尋常小学校が置かれた豊鹿島神社社務所(生活改善センター)

 第二小学校は雲性寺にありました。なにしろ校舎がせまく、教室は一つでした。お寺の大きな部屋が教室で、中央に黒板を背中合せにして区切り、生徒は学年別の二つに分かれました。二人の先生が同時に授業を行ないますと、間仕切がありませんので互の声がつつ抜けです。
 冬は毎朝、薪を一本つつ学校に持ち寄り、大きな角火鉢で燃やしながら勉強しました。

尋常第二小学校跡
第二尋常小学校が置かれた雲性寺 昭和56年(1981)再建

 第三小学校は狭山公民館のところにあって、四教室でした。生徒がいっぱいになったので墓地の霊性庵も教定(室)に使われました。しかしそこは、床のすき間から風が吹き上げ、冬の寒さは格別でした。雪の降るような寒い日には炭を起こしてあたりますが、火のそばは、いつも男子に占領されてしまい、女子はあたれませんでした。休み時間になると子供たちが墓場の中を飛んで廻り、そのあげく、土葬のくぼみに足を突込んでしまったこともありました。

尋常第三小学校跡
第三尋常小学校が置かれた圓乗院所有地・現狭山公民館

 今は貯水池になっていますが、当時、石川部落から学校に通った子供たちは一尺(約三○センチ)ほどの大雪が降ると半鐘を鳴らして雪かきをしました。自分の領分だけで、他はまだ雪が積っています。そこで男子は、松の木で竹馬を作りそれに乗って学校に行きました。女子はわら草履です。どちらも素足で行き、足袋は学校に着いてからはきました。

 欠席もなく、成績優秀な生徒に男女二人つつ賞状が与えられました。賞状は郡役所までもらいに行くのです。親にとってもそれは大変名誉なことですから、喜んでその日のために着物を作ってあげました。」(p78)(2015.03.29.記)
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 ウオーキングマップ多摩湖編

明治の小学校(東大和市)1

 東大和市に最初の小学校がつくられたのはいつ? どこに? どんな様子で?
 あまり確実な資料が残されていない中で追ってみます。

いつ、どこに?

 よく、明治5年(1872)8月、新政府が「学制頒布」をしたことにより、小学校が義務化され、校舎造りが始まったとの説明を聞きます。ところが、東大和市周辺では、そうはいかなかったようです。蔵敷村の有力者・内野杢左衛門氏の記録(杢翁記録)に次のように書き残されています。

 明治五年八月、学制が御頒布された。同六年二月、従来ノ筆学所(寺子屋、手習い)は一切廃止されることが神奈川県より達せられた。
 当時、村々の間では、芋窪・蔵敷・奈良橋に小学舎一校を設け、高木・後ケ谷・宅部・清水の四か村に一校と決めたが、まだ着手していなかったので、それがたちまち破られ、次のように校舎を置くことになった。表にします。
明治の小学校
(クリックで大)

 これからすると、神奈川県からの強い通達によって、設置の年代は明治6年(1873)、場所は神社か寺院、寺子屋で、先生は神官や僧侶、寺子屋の師匠が当たっています。研精学舎の内堀太一郎は郷学校の卒業生、後藤兵庫は神官でした。校舎を新設したり、教員を招く余裕はなかったことがわかります。

明治の小学校2
(クリックで大)

 当時の村は狭山丘陵の南麓、村山道、志木街道に沿って形成され、それ以南は人家はなく一面の畑でした。村山貯水池は存在せず、古くからの村が営まれていました。貧しい村でしたが、教育熱心で、最初は7つの村で2校が予定されましたが、小学校教育の義務化が通達されると、一度に「我が村へ、我が村へ」の要求が高まり、5施設が開設されています。神社や寺院を学舎として利用した背景が村人たちの熱意の象徴として浮かんできます。運営は村人たちの寄付と奉仕で行われました。

 学んだ内容や就学率は次のページに続けます。(2015.03.28.記)

村人達はとまどった

俺の方は韮山県、お前は品川県

 さぞ、大変だっただろうと思います。ずっと付き合ってきた村が、突然、二つに分かれたのですから。
 慶応3年(1867)、徳川慶喜の大政奉還により、江戸幕府は幕を閉じ、明治新政府の支配に変わりました。
 慶応4年(1868)、閏4月27日、明治政府は「政体書」をだして、地方の支配機構を定めました。
 全国を府・藩・県に分けて、府に府知事(知府事)、藩に藩知事(知藩事)、県に県知事(知県事)を置きました。
府は京都、大阪、長崎、奈良、越後(新潟)、度会(わたらい)(現在の三重県)でした。
 県は幕府直轄領(天領)と旗本知行地を新政府が没収して設けました。「藩」は旧大名が支配する藩でした。
(しかし、この区分は長く続きませんでした。明治2年7月17日(太陽暦:1869年8 月24日)に、府は京都・東京・大阪の3つのみとされ、他はすべて県に改称されています)

 この制度から、東大和市では、韮山代官江川氏の支配地が「韮山県」、旗本領が「品川県」に属することになりました。そこで、高木村、芋久保村、清水村には旗本領があったため、韮山県と品川県が混在することになりました。

 韮山県に属した村
  芋窪村(天領分)
  蔵敷村(全部天領)
  奈良橋村(全部天領)
  高木村(天領分)
  宅部村(全部天領)
  後ヶ谷村(全部天領)
  清水村(新田分)

 品川県に属した村
  芋窪村(旧旗本領)
  高木村(旧旗本領)
  清水村(本田分)

 このゴチャゴチャは明治2年(1869)まで続き、4月に
 ・韮山県 芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村
 ・品川県 清水村
 と整理されました。村の運営は江戸時代と変わらず、名主 組頭 百姓代によって行われています。これらが整理されたのは明治4年(1871)7月の廃藩置県によってでした。
韮山・品川県の混在_edited-1 
(クリックで大)

 この県所属の混乱は、東村山市、東大和市、武蔵村山市、瑞穂町など狭山丘陵南麓の地域を通して同じでした。各市町史は共通してそのことを記しています。北麓の地域も武藏知県事、品川県、韮山県と所属県の名前は違いますが同じ状況が見られます。
 正確な図に出来ないのが残念です。(2014.08.03.記)


江戸の村から明治の村へ(明治8年)

  現在の市町村からは想像できませんが、江戸時代の村は小規模な集落が寄り集まって出来ていました。明治になって、名主は戸長と変わり、年貢は税となりましたが、旧来からのしきたりや仕組みは残り、下記のような問題がありました。新しい国づくりに着手した明治新政府はこの整理、解消から手を付けたようです。明治の村つくりです。明治6年(1873)12月、そのお達しが出ました。小規模な村の合併方針です。
 
・一つの村でありながら、旧幕府の支配地と旧旗本の支配地が入り乱れている
・そのため、戸数が5戸や10戸でも、それぞれに村役人が置かれている
・村の運営費用が嵩んでいる
・狭い地域で耕地や民家が入り乱れ、地番が複雑になっている
・租税や戸籍の上で支障がある
 これらを解消するため、一定の地域が集まって、新しい村を作るべきである。
 との理由でした。

  村人は面食らったでしょうし、不安もあったと思われます。恐らく、政府、県の強力な誘導、奨励があったのでしょう。明治8年(1875)、狭山丘陵に三つの新しい村が生み出されました。丁度、埼玉県と東京の境界に位置しているので、並べてみるとこの時期の総体的な動きがよくわかります。 

江戸時代末狭山丘陵周辺村の村

 狭山丘陵周辺の江戸時代の村はおおむね図のように位置していました。これが、次第に合併して行きます。

(クリックで大)
 明治8年、埼玉県側の合併

  多くの問題があったと思いますが、明治8年(1875)4月、山口の谷で広域な村づくりが始まりました。山口村と上山口村の成立です。所沢市史にデータが記されて居ますので、一部を引用して紹介します。(下p49)

 山口村 
  町谷 26戸 186人 菩提木 31戸 152 人 氷川 10 戸 67 人 
     打越 18戸 96人
  山口堀之内 21戸 107人 岩崎 71戸 385人 合計 177戸 993人

 上山口村
  堀口 56戸 336人 大鐘 17戸 110人 川辺 19戸 114人 
      新堀 27戸 151人 合計 119戸 711人

 明治8年、東京側の合併

  明治8年(1875)3月、宅部村と後ヶ谷村が合併して「狭山村」となりました。宅部は村山貯水池に沈んだ地域、後ヶ谷村は南麓の地域にありました。(狭山之栞では6月4日とします)

 狭山村
  宅部 42戸  後ヶ谷 49戸  合計 91戸

  合併の理由は、形式的には2つの村に分かれていましたが、「田、畑、山林、民戸、みな、ことごとく混錯」と云われるように、入り交じっていました。一族や同族者の新規開墾や分家の積み重なりによるものでした。そこへ、新政府から、地租改正の必要から、地番を振る地図をつくるべし、との達しが来ました。あまりにも、宅部と後ヶ谷の入り混みが激しく、整然とするには困難でした。そこで、両村を一ヶ村として、新規に整理された地番を設定することが浮上しました。 

  これを契機に、合併問題が急速に論議の対象になったと伝えられます。明治8年2月25日、関係者が連印をもって、両村を廃止し、新しく「狭山村」を設ける、改称合併願が提出されました。
 
(クリックで大)

  江戸時代の12の村が、3つの村になりました。その後も新しい村づくりは進められ、明治21年(1888)市制・町村制が公布されました。全国で7万1000余あった市町村が1万5000余に整理されます。狭山丘陵周辺ではまた、新しい動きをしました。別に紹介します。
  宅部村は、村山貯水池問題で紹介した内堀地域に江戸時代初期に設定された村です。(2014.07.28.記)
 



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野火止用水

Author:野火止用水
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