中世か古代か?

 歴史って難しいです。
 もう13年も前のことです。2001年7月15日、東大和市内で最初の中世遺跡かと胸をとどろかせる発掘がありました。すっ飛んでいって撮したのが下の画像です。
 画面左端の斜めに削ったところが、中世の勢力者、ことによったら豪族が宅地開発をした跡かも知れないと推定されました。
 発掘に携わった若者も力が入りました。「段切り遺構」と呼ばれるこの種の遺跡、東大和市廻田地域の最初の開発者の居住跡を掘り出す可能性を感じたからです。「廻田谷ッ遺跡」と命名されました。

廻田谷ッ遺跡

狭山丘陵の斜面を削って平地とし、
そこここの穴は柱跡かと思われました。

「ちょっと狭すぎない・・・?」
「柱跡とすれば乱雑で・・・?」
との声も聞こえました。

廻田谷ッ遺跡土器

 やがて、土器が掘り出されました。
 「これで、時代鑑定の材料がそろった」
とドキドキでした。
   ひとかけら、ひとかけら、慎重に分析されました。何週か後に
  「10世紀半ばから後半にかけての須恵器」
  「ヒエー」
  誰からも、ため息が漏れました。平安時代のものとの報告です。
  この遺跡全体の内容は、まだ、把握されていません。周辺には、さらに遺跡が眠っている可能性が推測されます。なお、現在まで、東大和市域内では中世の住居跡遺跡は見つかっていません。
  でも、中に、美濃でつくられたと推定される土器がありました。この時代に、狭山丘陵と美濃と交流があったことが夢を膨らめます。
廻田谷ッ遺跡位置図
 (2014.11.11.記)
 

悲田処(ひでんしょ)

 古代,、府中市に武蔵国府、国分寺市に武蔵国分寺、下の図の所沢市・東の上遺跡に駅家がある他は、武蔵野の原がずーっと続いていた頃、狭山丘陵の東端に、旅の救護所(悲田処)が出来た(833)という話です。その費用を官吏が自分たちの給料の中から出したという、ホットなことも伝わります。

1 続日本後紀 天長10年(833)5月11日条

 ごく大ざっぱに現代語に置き直すと
 「武蔵国から云ってきた。武蔵野は広くて、茫々として、旅の途中、飢えや病に苦しむ者が多い。そこで、多磨郡と入間郡の境に悲田処を設かたい。五軒の家を建て、我々六人の俸給の一部をさいて、それを貸し付けた利息で、維持費としたい。これを代々の国司に受け継がせたい。」
 (原典の一部 介従五位下・当宗宿禰家主(あてむねのすくねやかぬし)以下、少目(しょうさかん)従七位上・大丘秋主己(おおおかのあきぬし)上の六箇の人、各公廨(くげ)を割き、・・・。)

 と、書かれています。旅人の休息の場所であり、一時の飢えを救い、病んだ旅人を保護する場であったと思われます。
 注 昭和46年発行・東村山市史では、悲田処を計画した介従五位下当宗宿禰家主以下の人々は渡来系の人としています。(p166)

 もう一つは、悲田処が続いていたことの記録で 

2 延喜27年(927)の延喜式主税寮式に
 「武蔵国 悲田稲4500束」
 と書かれています。

 この二つを結びつけると、悲田処は1の833年から、2の927年まで、約100年間続いていたことがわかります。その後は不明です。
 そして、2では、支出が、大蔵省主税寮に変更となって、悲田処の維持が役人のボランティアから国の管理に移っていることを示します。悲田処の役割が重かったことが推定されます。

3 悲田処はどこにつくられた

 肝心の悲田処はどこにつくられたのでしょう? はっきりしないのです。
 悲田処は古代の道路に関する施設でした。武蔵国は、最初、東山道(とうさんどう)に属していました。その道筋は、都から現在の中山道を東へ進み、群馬県で南下して「東山道武蔵路」(とうさんどうむさしみち)となり、多摩川を渡って東海道に接していました。
 これが、続日本紀によると、宝亀2年(771)年10月に、東海道へ所属替えになった事を伝えます。東山道武蔵路は官道の役割を終えました。しかし、1・2により悲田処の存在はその後も上野国と武蔵国の連絡路として機能していたことを明らかにしています。
 
悲田処位置図
(クリックで大)

 続日本後紀は「多摩・入間両郡の界」としています。東村山市か所沢市の狭山丘陵周辺になります。しかし、確たる考古学的な成果が得られていません。そのため、所在について、次の説が出されています。

①所沢市久米
②東村山市秋津
③東村山市多摩湖町
④東村山市諏訪町
⑤清瀬市野塩西原

①は、八国山の北麓、現在の松ヶ丘に、かって、埼玉県が指定していましたが、1957年に解除され ました。その後、所沢市が指定して、現在も公園として整備され、案内柱が建てられています。東山道に近く、位置的には期待され発掘もされました。現在まで、遺跡は発見されていません。
悲田処跡所沢
所沢市指定 悲田処跡
②は、東村山市の秋津で、武蔵名勝図絵が「入間・多摩の界とあれば、この辺りのことなり。武蔵国府よりこの筋へ出て往来するもの上古より上野、下野へ至るは国史などに見えて伝われど、千載に及べる旧跡なれば、しかと知るべきことにあらねど、ここに出せり」としています。周辺の発掘が行われ、集落遺跡が発見されています。
③は、瓦塔出土地に併せて、悲田処の存在が考えられてきました。東村山市の下宅部遺跡から瓦塔の一部が発掘されています。
④は、江戸時代の斉藤鶴磯によって提唱されました。その後も東村山市内では最も期待されています。位置は徳蔵寺の東側で、東山道武蔵路とも近接しています。まだ、遺跡として発見はされていません。
⑤は、清瀬市の野塩西原遺跡をあてるものです。三面庇の掘立柱建物や墨書土器などが出土し、何らかの公の施設である事が推定されています。

◎最近、東村山市史5資料編考古で、府中街道沿いの八坂神社周辺説が唱えられています。多摩・入間の郡界を狭山丘陵ではなく柳瀬川上流の空堀川に置く考えです。

 いずれにせよ、悲田処の跡は当時の狭山丘陵周辺と東山道を繋ぐもので、早く遺跡の発見があって、全容がはっきりするのが待ち遠しい限りです。(2014.09.29.記)



狭山丘陵周辺の「郷」(ごう)

 これは690年代から700年代初めの頃の話です。藤原宮跡(694~710)から発見された瓦に「□玉大里評」と書かれていることから、武蔵国でも、当時行われていた地方制度の「評」が実在した。「評」は701年の大宝律令で「郡」になった。その郡の下に「郷」が置かれた。狭山丘陵周辺では何という「郷」があったのかと云う問題です。

 一つの郷は50戸から成り立ったとされます。それも、一戸は、現在のような夫婦と子どもという単婚家族と違って、大家族でした。30人から150人の複合家族だったと解説されています。
 こうなると、狭山丘陵周辺では、当時の遺跡を探しても、このような集落の跡は見つかっていません。ただ一つ、東の上遺跡(所沢市)がありますが、ここは東山道武藏路(とうさんどうむさしみち)の「駅」とされています。

 どうも、狭山丘陵周辺には、集落の散在はあっても、一つの郷が成立するような基盤が未成熟であったことが考えられます。郷は、7~8世紀台に人口周密な地域、つまり多摩川流域や入間川流域に成り立ったのだと考えます。
多摩郡の郷位置図
(クリックで大)

 東大和市内では、せいぜい2~3戸の家の跡が発見されているにとどまります。隣接する武蔵村山市では吉祥山、屋敷山、野山第三・第五遺跡など、東村山市では有名な下宅部遺跡があり、人々の定住が進んでいたことがわかります。
 これらの散在する集落を集めて「余戸」(あまるべ)などと呼ばれる郷やどこかの郷に含まれていたのかも知れないと想像します。ただし、下宅部遺跡からは「家成」と記された墨書土器が発見され、8世紀後半とされますが、文字を使用する人が住み始めたことが知られます。

 狭山丘陵周辺には大家族が集中して住むのではなく、小家族が散在して生活を営んでいたことが推測されます。もう少し後(755)にまとめられた万葉集・東歌に

  武蔵野の小岫(おぐき)が雉(きじし)立ち別れ
   去(い)にし宵より 夫(せ)ろに 逢はなふよ(14ー3375)

 が採録されて、狭山丘陵の谷ッと村人の様子を目に浮かび上がらせます。(2014.08.28.記) 



古代、狭山丘陵周辺の人々は何という「郷」(ごう)に住んでいた?

 今回は、古代、狭山丘陵周辺は、どのように地域区分(郷)がされていたのかの問題です。直接には、何という「郷」があったのか、です。
 全く困ったものです。ほとんどわからないのですから。
 続日本紀は大宝元年(701)、地方制度の樹立、いわゆる国郡制の確立を記します。武蔵国は、下図の通り、現在の東京都と埼玉県の大部分、神奈川県川崎市、横浜市の大部分をもって構成されていました。

武藏国の郡
(クリックで大)

 多摩郡には、最初は19郡が置かれました。久良・都筑(つづき)・多磨・橘樹(たちばな)・荏原・豊嶋・足立・入間・比企・横見・埼玉(さきたま)・大里・男衾(おぶすま)・播羅(はら)・榛沢(はんざわ)・那珂(なか)・兒玉(こだま)・賀美(かみ)・秩父です。
 その後、霊亀2年(716)に高麗郡(こまぐん)が、天平宝字2年(758)に新羅郡(しらぎぐん、後の新座郡)がに新しく設置されて、最終的には21の郡が置かれました。

 郡には、それぞれ行政拠点として郡の事務を取り扱う郡衙(ぐんが)が置かれました。その時期は7世紀末と推定されています。現在のところ、次の四箇所で郡衙跡が発掘されています。

・都筑郡衙 横浜市長者原(ちょうじゃばら)遺跡、川崎市千歳年伊勢山台遺跡
・豊島郡衙 東京都北区御殿前遺跡
・榛沢郡衙 埼玉県岡部町中宿(なかじゅく)遺跡
・多摩郡衙 府中市宮町を想定、一部発掘

 発掘された遺跡では、郡庁、正倉、館、厨屋などの建物が整然と並んでいる様子が残されています。
 さて、郡の下の区分です。人々が生活をする区域です。それは、最初、「里」(50戸を単位)と呼ばれ、里長がいました。
 この「里」が霊亀元年(715)に「郷」に改められました。いよいよ問題の「郷」です。多摩郡の郷は、『和名類聚抄』(承平年間931~938成立)によれば、

 小川・川口・小楊(おやぎ)・小野・新田(にうた)・小嶋・海田(あまた)・石津・狛江・勢多

 の10郷がありました。現在に伝わる地名からは、いずれも多摩川流域と想定されます。
・小川郷 あきる野市小川
・川口郷 八王子市川口
・小野郷 日野市一宮周辺
・小嶋郷 調布市小島
・狛江郷 狛江市から調布市
・勢多郷 世田谷区瀬田周辺
 それぞれの地域に古墳や集落の遺跡が発見されています。なお、
・小楊郷について国立市青柳をあげる説もあります。
 小楊・新田・海田・石津は、位置が不明です。そこに、東大和市域は入っているのでしょうか。

 隣接する入間郡については、

 麻羽(坂戸市)、大家(おおやけ 坂戸市)、郡家(狭山市)、高階(たかしな 毛呂山町)、安刀(あと 所沢市西部山口か坂戸市北部)、山田(川越市)、広瀬(笹井、野田、加治周辺)、余戸(あまるべ 越辺川右岸、山口周辺)
 の8郷が記録されています。
 いずれも北の入間川周辺に集中し、狭山丘陵周辺では安刀、余戸が僅かに候補に挙がります。

 どうにかたどれるのは、ここまでのようです。狭山丘陵周辺は丘陵のほぼ中央で入間郡と多摩郡に分かれました。肝心の人が住んでいたと思われる「郷」がどこに、何という名であったのか、明らかでありません。次に続けます。(2014.08.24.記)



狭山丘陵の式内社

 平安時代、狭山丘陵に神まつりが行われました。丘陵全体として、人々がどのように生活をしていたのか不明です。ところが、早くも、現在に継続する古社がまつられました。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう 延長5年(927)編纂終了)に登載された神社です。
 朝廷から奉幣のあった「公的」な神社で、全国で3133座、武蔵国で44座が登載されています。その内、狭山丘陵周辺では次の5座が名を載せています。
式内社位置図
(クリックで大)
①物部天神社(もののべてんじんしゃ 現北野天神社)所沢市北野

 社伝は、景行天皇40年に、櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)の二神を秦斎して創建。その後、欽明天皇12 年(551)に、神託により小手指明神を合祀、さらに長徳元年(995)、京都北野神社より菅原道真の神霊を勤請して、坂東一の天満宮と定められた。と伝えます。所沢市史は
「祭神饒速日命(にぎはやひのみこと)は、物部氏の祖神である。・・・物部広成一族が、この祖神を氏神として奉斎し、物部一族の台頭とともに、社格を上昇させて、入間郡で屈指の社に成長させたのかもしれない。」(上p277)とします。

②国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)所沢市北野北野天神社に合祀
 祭神・八千矛神(=大己貴命)
 当初、どこに祀られたのか不明です。『新編武蔵風土記稿』は「・・・恐らくは後世近郷にありし式社の廃絶せしを、神職のはからひにて合せてここに祀りしならん」と記しています。

③二つの中氷川神社(なかひかわじんじゃ)
 狭山丘陵(所沢市)には二つの中氷川神社があります。どちらを式内社とするか、論争があり決着が付いていません。

・三ヶ島中氷川神社 所沢市三ヶ島
 祭神・素盞鳴命、大己貴命、櫛稲田姫命
・山口中氷川神社 所沢市山口
 祭神・素盞鳴命

 江戸時代でも、はっきりしなかったらしく、『新編武蔵風土記稿』は、次のように記しています。

・山口の中氷川神社
 氷川社 四石の御朱印。土人の伝へに、神名帳にのせし中氷川の神社なりと云。社地のさま、いかにも年ふり、村名をも古くより氷川と唱ふるときは、古社なることは疑ふべくもあらざれば、式内の社なるもしるべからず。されど今三ケ嶋村長宮明神も中氷川の神社なるよし社伝にいひ、現に彼社に正長・天文等の棟札ありて、其文に中氷川神社と記したれば、当社を中氷川と云はいかがあらん。疑を存せり。神体は木像、古色なり。 打越村普賢院持。

・三ケ島の中氷川神社
 長宮明神社 十石の御朱印。祭神は素盞烏尊・稲田姫命・大已貴命・少彦名命の四座を祀れり。相伝ふ当社は神名帳に載たる中氷川神社なりとそ、証とする所は古き棟札ありと云。其文に武州入東郡宮寺郷、中氷川神社殿造、正長元年(一四二八)九月廿三日。また天文二十三甲寅年(一五五四)四月廿一日、社造営のときの棟札あり、ただその写のみを伝ふ。その文体当時のものなるべく覚ゆれど、ただ疑はしきは斯の如き証拠あらば、などか中氷川の神号を用ひずして長宮とは号するや。別にゆへあるか。又中宮と云ふべきを誤り伝へてかく唱ふるにや。

 また、氷川神社は出雲信仰との関わりから、奥多摩・氷川神社―中氷川神社―大宮・氷川神社のルートを辿る議論もあり、興味が尽きません。

④出雲伊波比神社(いずもいわひじんじゃ) 入間市宮寺
 祭神・素盞鳴命 天穂日命(あめのほひのみこと) 寄木明神
 出雲伊波比神社は入間市宮寺と毛呂山町にまつられています。どちらも式内社を主張し決着していません。所沢市は宮寺説(上p274)をとっているようです。
 入間郡司の絡む「正倉神火事件」の対象神社として今後も注目です。

⑤阿豆佐味天神社(あずさみてんじんしゃ) 瑞穂町
 祭神・少彦名命(すくなひこなのみこと すくなびこなのみこと)
 物部天神社と阿豆佐味天神社は、その鎮座の場所に議論がありません。しかし、創建については明らかでなく、新編武蔵風土記稿は次のように記しています。

「神主宮崎和泉と云。本社二間四方拝殿二間二五間、祭神は少彦名命にて、神体はなく画像を掛く。御朱印十二石。往古より此所に鎮座すと云。されど旧記の徴とすべきこともみえず、又正しく土人の口碑にのこりたることもあらざれば、そのたしかなことをしらず。近村奈良橋村など阿豆佐美の里と称す。当所に近き所なればかく唱ふと云。」

 これらの神社が祀られていたことは、それを支える村人がいたことを示します。丁度、武蔵武士の発生する時期と重なり、その面を含め多くの重要な鍵を握っているようです。東大和市にとっては、奈良橋村が「阿豆佐美の里」と呼ばれたなど、なかなかの問題があります。(2014.08.21.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
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