お目出度う でも、これからが大変

 「○○さん、今度の市のHP、どう思われます?」
 「イヤー、まだ全部目を通したわけではありませんが、変わりましたね」
 「市の売り出しですね」
 「そういう時代ですから、どこの市のHPも変わって来ると思います」

生まれ変わったHP
 新しいHPの「イントロページ」クリックで大

 「東大和 出生率 都内NO1の秘密 これは凄いですね。人口が減ってる中ですから」
 「子育て日本一が東大和市の売りですから、ここは売りの一番でしょう」
 「でも、2番になったら困るでしょう・・・」
 「そこが、これからの市の腕の見せ所でしょうね」


 「下の方に、日本語 language ってあるじゃないですか」
 「自動翻訳でしょう。これが、もう当たり前なんですね」
 「英語、中国語、韓国語になっているけど、もっといるんじゃないですか」
 「・・・・・」

 足の具合はどうかと見舞って下さった歴史仲間が最初に切り出した話題です。
 次から次から切りがありません。

 「ともかく、お目出度うを云いましょうよ」
 「大賛成です。」

 変化の狭間、市を売り出す方法の一つ、これからが楽しみです。
 お目出度う ホームページ一新(東大和市を書きました。

   (2017.12.02.記)

驚くべきタフさと責任感

 江戸時代の地域代表

 桜の真っ盛りですが、明治2年(1869)の出来事に頭がいっぱいです。長くなり、恐縮です。
 この年は天候不順でした。1月から雨が多く、6月などは月の内24日間も雨が降る状況でした。お隣の武蔵村山市に伝わる指田日記は
 「6月6日・7日 雨。当年山繭(やままゆ)多し。天保(の頃)午・未・申の三ケ年、山繭多くして酉年に至り、不作続きける故、飢渇の者多くあり、今年又、雨降り山繭多し、夜中、夜着・蒲団を着て、蚊帳をつる者もあり、天保の凶年の時候に似たり、心得あるべし。
 当月、大小の雨、二十四日あり」(指田日記p211)。
と記します。さすがに明治政府の機関も「一宮氷川神社、府内神明宮、日枝神社に、十七日の間、風雨順時五穀成熟の祈願をする」状況でした。
 その最中の7月13日、東大和市域の村々は、近年まれな大風、大雨に見舞われました。大木、建家など多くが吹き倒され、丹精込めた作付けが荒らされました。収穫は壊滅的で、立ち直りの見込みもない状況でした。

 問題は年貢です。普段通りには納められません。減免を願い出ることに決めました。
 9月に入り、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、廻り田村の村々で行動を開始します。
 先ずは、減免の嘆願です。

嘆願に韮山県御役所へ

 9月27日朝、芋窪村と蔵敷村の名主が、韮山県御役所(港区)へと出立しました。夕刻に到着、常宿の泉屋に宿泊しました。当時の柴井町にあった宿で、単なる宿泊所と云うよりは様々な情報を提供したり、交換する場でもありました。名主二人は必死になって情報を集めて分析したはずです。

 9月28日朝、両名主は韮山県御役所に嘆願書を出しました。年貢の減免、そのための現地調査の要望です。
 応対した役人の答えは、「今朝方、担当役が県下の情勢を調査に出かけた。廻村先で渡すように」との指示でした。
 先ず、何を置いても現地の実情を調査して貰わなければ、減免はあり得ません。二人は大急ぎで帰村します。

 9月30日、雨の中を戻り、村々の名主を招集しました。
 10月1日、蔵敷村名主杢左衛門方に各村の名主が集まり、県の調査員に直接嘆願することを決めました。
 代表に蔵敷村名主・杢左衛門と廻り田村名主・太郎右衛門が選ばれました。

調査団一行を追います

 10月2日雨、早朝、二人の名主は出発しました。県の調査団一行はどこに居るのか見当を付けなければなりません。
 現在の村山貯水池に沈んだ地域を一峰越して、扇町谷村の名主に様子を聞きました。どうやら、黒須村(入間市)へ立ち寄るらしいとの情報を得ます。ともかく坂戸村までと足を速め、坂戸で宿泊します。

 10月3日曇り、早朝出立 北へ向かい上吉田村(坂戸市)の名主方へ立寄って情報を聞きます。
 調査団一行は、去る28日に中山道大宮を出て、29日比企郡の出丸本郷(川島町)、30日~10月1日野本村(東松山市)、 2日山田村(?)、3日廣野村(嵐山町)、4日中爪村(小川町)泊り
 らしいと教えて貰います。中爪村で嘆願することにして、越辺川を渡り、比企郡坂本札所岩殿山への細道を山伝いに登り、岩殿観音(東松山)へ参詣。菅谷村(嵐山町) に泊まります。

 10月4日雨、中爪村の寄場惣代名主に聞きます。一行はもう少し北の能増村(現・小川町)に泊るとの情報を得ます。雨の中、同村を訪ねます。
 ここで、ようやく担当役人に会う事が出来ました。
 役人は「願いを叶えることはなかなか難しいが、関係書類(内見帳・願書)は預る。いつ行けるかはわからないが、扇町谷村についたらしかるべく回答する」
 とのことでした。二人は小川村に泊まります。

 10月5日曇、朝出立 帰路を急ぎ、青山峠を越て日影村(ときがわ町)・五明村(ときがわ町) ・本郷川を渡り、田中村(ときがわ町)・桃之木村(ときがわまち)・下瀬戸村(ときがわ町)・成瀬村・越生・今市(越生町)・上野村・毛呂本郷(毛呂山町)・小谷村・長瀬村・葛貫村(毛呂山町)・平澤川を渡り、鹿山村(日高市)で泊まります。

 10月6日、双柳村(飯能市)へ出て、野田村・笹井村・根岸村、入間川を越へ、黒須村・扇町谷村に出て、水戸屋で昼食をとりました。そこで偶然にも、韮山県知事・江川氏付添いの役人が同村年寄・太七方に宿泊するとの情報を得ました。これ幸いと、そのまま過ごし、夜、訪ねます。
 そこで、調査団はいずれは武州多摩郡へ出て、それより入間郡へと見分することを聞き取ります。

 この間の状況を記録は「時候伺とともに何かと話し」と淡々と記しています。狭山丘陵北麓まで帰り着き、もう一歩なのにわざわざ帰村を延し、「何かと」話したことは、相当の運動をしたことが推測されます。その夜はわざわざ、扇町谷村の水戸屋へ泊まっています。

10月7日、朝出立、昼後に帰宅、早々に村々へ状況を報告しました。

成果

 長くなりました。その後の流れは次の通りです。

10月12日、扇町谷村名主から書面
10月13日、扇町谷村名主宅で検見役と面会
10月14日、検見実施
11月12日、年貢高80石が53石余となり30%減となった。

 どうにか、韮山県役人の現地調査を実現し、年貢の30%を減額する事ができました。勝ち取ったと云った方が正確でしょう。そのルートを図にしてみました。全ルート徒歩です。ケイタイ電話があれば、関係者の行動はすぐに把握できるでしょうが、訪ねた先での聞き取りが手段です。歩いた道筋を図にしながら、当時の村の責任者のタフさと責任感の強さに驚き入りました。
 内野杢左衛門が記録した里正日誌(10巻p497~530)から復元しました。

埼玉県地図完ルート1


途中、息抜きに観に行った桜が丘地域の桜は見事でした。

DSC_5040.jpg

(2017.04.10.記)

言い訳

 「どんなに忙しいのか知らないけれど
 何回訪問しても変わって無くて、いい加減にしろ」

 ついに堪忍袋の緒が切れたらしく、遠くの仲間から叱りのメール。

DSCN7314.jpg
「若者の 揃いの声に 紅葉舞う」

 「ゴメン、ゴメン 東大和南公園の紅葉だよ。勘弁しろよ。」

 別のサイトに取りかかって、WordPressでの記事の書き方に翻弄されています。(2016.12.11.記)

かたき討の話

 物騒な話ですが、東大和市に伝わります。
 江戸時代には、江戸街道(現・新青梅街道)と中藤村(武蔵村山市)方面へ連なる主要な幹線道路の傍らです。
 四街道道と呼ばれていたそうです。
 三本杉があり山王神社がまつられています。

三本杉
三本杉

 かって、この側に石塔がぽつんと立っていました。

DSC_66251.jpg
 
 注意して見ないと読み取れませんが
 正面には
 天下泰平
 奉納 大乗妙典供養塔
 日光清明

 右側面には
 天保九年戌年九月十七日 施主 肥後国丈助

 その左側面には
 助力立会 同行一統
 と彫ってあります。

大乗妙典供養塔左面

 この供養塔を巡っての話です。『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。 

 「・・・この石塔は六十年ぐらい昔は山王様に近い駐車場の附近にあって、近くの子供たちが遊ぶ時いつも見たものでした。
 石塔は天保九年(1838)九月十七日、肥後国(熊本県)の丈助という人が助太刀の人と共に、討った人の供養のために建てたということが、その銘から判ります。

 蔵敷の○○清一郎さんの話によると、安政五年(1858)生れのお祖母さんが
 「あの辺でかたき討があったと親から聞いた」
 と言っていたそうですが、どんな理由で、どんな風にかたき討をしたのか、討たれたのは誰か、はっきりした状況は全然伝わって居りません。
 ○○さんは、最近武蔵野美術大学の調査で石塔のことが判ったので、お盆や彼岸の墓参の時には必ずお線香を供えているということです。」(p209~210)

 現在、この供養塔は塚前墓地に移されています。敵討ちをした方が討たれた人を供養することに惹かれるのか、9月に入ると側を通って手を合わせます。
 野暮用と筆の遅さが重なり、すっかりご無沙汰してしまいました。
 (2016.08.31.記)

まちかど記録

 ブログで市内のまちかどを紹介することになりました。
 「この暑さがおさまったら、始めるよ」
 「うん、適当にね」

 手始めに、先ず、我が家の周辺からとルートを考えました。
 新旧比較も必要だろうと、数年前の記録のノートを繰りました。
 その時、合間から滑り落ちてきたのが、この画像です。

MVC000251のコピー

 一見、どーってことない風景ですが、愕然としました。
 手前の給水塔は撤去されてビル群となり、全く見られない景観です。
 給水塔は、この地に軍需工場(東京ガス電気工業(株)→日立航空機(株))があった時のものです。
 爆撃された痕を残し、変電所跡と対になって貴重な戦争遺産でした。
 あるときは何でもなかったのに、なくなってみると、その場所を確かめるのに苦労します。

 それに、もう2度と撮れません。
 そこで、決心しました。
 「今回の記録は、大きく変わるところを優先しよう」
 「また、始まったのね! 若くないんだから、自由に動けないんだから、くたびれちゃうんだから・・・」
 「わかった、わかった、いい加減にするよ」

 すぐ、くたびれる年齢、どっから始めようか、どうしたらバテないか、迷いの初日です。
     (2016.08.07.記)
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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