結局はバイモに

 「○○(娘)のところに葉書出すんだから、早く撮ってよ」
 「ホイホイ・・・」

 あれが良い、これが良いとせっつかれながら、玄関前だけの庭の花を撮りました。
 3枚に絞って (画像はクリックで大)
 「どれにする?」

 
DSC_4729.jpg

 「海棠ね・・・。もう少し開くとイイわね」

DSC_47091.jpg

 「ウーン、可愛いけど・・・」

DSC_46981.jpg

 「そうだ、これがいい、バイモだっけ?」
 「葉の先っぽが面白いね。花がもう少しこっち向いてくれると良いのにな」
 「充分よ、でも、どんな字書いたっけ?」
 「確か、貝母だと思うよ」
 「何かピーンとこないね。お婆ちゃんは、編笠百合って云ってたっけ」
 「そっちの方が良いか」

 久しぶりに我が家の小さな庭にも花の季節が来ているのを感じました。
           (2017.03.25.記)
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寺子屋の師匠

 蔵敷太子堂の石原伴鳳(いしはらばんぽう)

 今日は暖かく晴れました。かり出されるように、狭山丘陵の麓、蔵敷地区(東大和市)をまわりました。
 江戸時代の旧道を巡り、太子堂に出ました。

DSC_9637.jpg

 太子堂に向かって右側に碑があります。
 石原伴鳳 の碑です。江戸時代、ここで寺子屋が開かれていました。伴鳳はその教師で、教え子達が師を称えて建立したものです。

 碑文は石原伴鳳が享和2年(1802)、熊本に生まれ、天保年間(1830~1843)に蔵敷村に来た事から始まりその人徳を称えています。

石原碑

 しかし、「まてよ、あのことが書かれていないな」と気にかかりました。改めて手持ちの資料を見ます。やはり、ふれられていません。蔵敷村の名主・内野杢左衛門が『杢翁記録』に記録する次のことです。

 「石原仙左衛門(号伴鳳)、天保の初め太子堂にて近隣の子供に習字を教えた。
 村の百姓八兵衛の潰屋敷を修繕し、妻を迎えて、豆腐を造り、小児向きの玩具物を行商しながら教育に当たった。
 盛んな時は学ぶ者が百人近くになった。
 中藤村(現武蔵村山市)から清水村までにおよび、その他遠村より内弟子もあった。」

 教えた内容も盛りだくさんです。

 「習字は、いろは、仮名遣ひ、名所、村名、国尽消息往来
 素読は、唐詩選、五言絶句暗誦、三字教、孝経、論語、孟子、
  周易礼記、左氏伝、文選、白氏文集、世説、孔子家語、史記、漢書・・・」
 とします。

 「こんなこと子どもにわかったのかな」と、スゴいなと思いながらも少し距離を感じます。
 でも、気付かされます。「ここから、新しい村の指導者が現れてるじゃんか」

 伴鳳の指導を受けた内野吉次郎です。この寺子屋で学んですぐ、上京して学びを重ねます。17歳で帰村し、当時ここに開設された村の小学校「汎衆学舎」で教鞭をとります。

 そして、とても高価で、個人では購入が難しかった新聞を、数名の仲間で回覧して読み合う「新聞購読社」のメンバーとなります。
 やがて、内野杢左衛門と共に初期自由民権運動を力強くおし進め、自治改進党のメンバーともなって、地元の空気を盛り上げます。

 「ここにも、国会開設、明治憲法制定への道筋があったんだ。ウーン、寺子屋の役割は大きかったんだ」
 と思い知りました。刺激された半日でした。(2017.03.16.記)

80歳以上お手当

 「おじさん、幕末に、長生き老人を祝って、手当を配ったって本当?」
 中学校の歴史の先生になって一年目の近所のボクが押しかけてきました。
 「そういうことあったな・・・」

 安政5年(1858)7月です。
 養老は風俗を厚くする第一であるので、・・・・80歳以上の者へお手当を下さる。
 こんな通知が狭山丘陵周辺の村に出されています。

 「おじさん、いくら?」
 成り立て先生は急かせます。
 別の資料から文久2年(1862)に「三貫文」とわかりました。
 「今のお金にするとどの位?」
 「自分で調べなよ」
 現在の金額に換算する能力がありません。(是非お教え頂きたくお願いします)

 「何人ぐらい居たの?」
 安政5年(1858) 資料から

 後ヶ谷村(現・東大和市狭山地域)
 92歳1名(女)、85歳1名(男)、83歳1名(女)、81歳1名(女)、80歳1名(女) 合計5名、女4、男1名です。
 同じ年の総人口は不明ですが、安政2年(1855)の資料があり
 家数48軒 人口255 女126、男129名でした。

 奈良橋村(現・東大和市奈良橋地域)
 86歳2名(女)、85歳1名(男)、84歳2名(男女各1)、83歳1名(男)、82歳2名(男女各1) 合計8名 女5、男3名です。
 家数59軒 人口311 女153、男158名(安政2年・1855) です。

 「生活が厳しかたって云われるけど、結構、長生きだったんですね。
 でも、天保の飢饉の時、天保8年(1837)では、飢人率が後ヶ谷村 79.8%、奈良橋村80.8%だったですよ。
 そんな状況でも、長生き出来たんでしょうか?」
 「そうだよな。約20年の差があるからなァ・・・」

 この問題、難しいですね。取り敢えず帰って貰いましたが、困っています。

DSC_8035.jpg

 
(2017.03.11.記)

そこまで春が!

 「きょうはセーターで大丈夫よ」
 「鴨居るかな・・・?」

 2月末日、暖かです。
 玉川上水、いつもの請願院橋から千手橋まで歩きます。

DSC_45591.jpg

 綺麗に掃除が行き届いて、流れの中の芥はすっかり取り除かれています。
 どうした訳か鴨は居ません。
 玉川上水駅前、請願院橋のたもとの自転車置き場、整理の方に聞きます。
 「今日は見ました? 鴨」
 「一羽居ましたよ。でっかいのが」
 「良かった。この頃、見かけないんですが、どうしてなんでしょうか?」
 「それはね、訳があるんですよ。この橋の下流側で、餌をやる人が居るんです」
 「ほんとですか?」
 「私らは、注意できないんで・・・」
 と淋しそう。

DSC_4561.jpg

 困ったものだ、とブツブツ云いながら梢を見上げます。
 なんとなく膨らみを感じます。

DSC_4523.jpg

 望遠で寄せると、ありました。まだ、固いですが、もうすぐのようです。

DSC_4542.jpg

 水辺に近い方では
 「鴨はそのうち戻ってくるから、あんまりしょげなさんな」
 と云ってくれているように一輪、二輪と開いていました。
     (2017.02.28.記)

あっという間に視野が狭まった八王子道

 2017年2月24日、仲間との会合に立川へと出かけました。
 多摩モノレール桜街道駅から八王子道を見てガッカリ。
 先が塞がれた感じになりました。

八王子道2
(2017年2月24日の八王子道 画像はクリックで大きくなります)

 1500年代の後北條氏の時代、拠点の八王子城へと向かったであろう道、2016年1月9日時点では微かに先が伺えました。
八王子道1
(2016年1月9日の八王子道)

 東大和市内では、斜めに走る八王子道を当時の雰囲気を素朴な形で残すのはここだけとなりました。
 無理な願いであることは十分承知ですが、何らかの形で残して欲しいと思います。

八王子道3

 この道は大山参りの道でもありました。
 旅した人々は茫々と続く武蔵野の原野の彼方に富士山を見ながら、格別な旅情に浸ったことと、当時が偲ばれます。
  (2017.02.24.記)
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野火止用水

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