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残暑お見舞い

残暑お見舞い

 酷暑と残暑に身体が対応しないらしく、家で静かにしています。
 丁度、良い機会と、古い写真の整理を始めました。

オニユリ1
クリックで大

 2011年8月2日に、当時の都立薬用植物園で撮影したものが出てきました。

オニユリ2
クリックで大

 元気がこっちにも移るようで、嬉しくなりました。
 よろしくお願い致します。

 (2019.08.24.記)

 村山貯水池に沈んだ地域のことを書いています。
 上宅部の里

幕末、狐との共生

幕末、狐との共生

 急激に暑くなりました。加えて、加齢と共に複数の作業がサッサと出来なくなり、一方づいてしまい、こちらをすっかりご無沙汰してしまいました。

 村山貯水の湖底に沈んだ地域について調べています。明治45年(1912)5月、貯水池の建設が決まり、大正4年(1915)、湖底の集落が移転を開始、ほぼ大正年間に終了しました。その里に語られた伝承の一つです。

村山貯水池移転の状況3640
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 暑いので、冬に場面を移します。下の堰堤に近い上宅部(かみやけべ)の出来事です。

 「きつねやたぬきなど、山にはたくさんいたので、きつねとりという商売の人がいました。 山ふところにあった原さんの家に親子のきつねが遊びにくるようになりました。冬の寒い日にはいろり端にきてあたっていくほどになりました。だんだん可愛くなった家の者はきつねとりに撃たれないかと心配していました。

 ある雪の日、いつものように、いろり端に座っているきつねをみたおばあさんは、「きつねとりがくるからいいかげんで身を引いておくれ」と頼みました。きつねはわかったのか雪の中を親子で出ていきました。それきり姿は見せませんでした。

 山里の部落に大火事がありました。三光院も焼けてしまったのですが、幸にも原さんの家は焼けずに残りました。おばあさんは「これはきっときつねが守っぞれたのだ。きつねのおかげじゃ」と言って喜びました。

 貯水池から清水に移転した時、いろりのあったところにきつねの大きな穴があったそうです。今でも家の裏に稲荷様を祀っておられます。」(『東大和のよもやまばなし』p179 きつねの恩返し)

 三光院が火災にあったのは弘化3年(1846)2月2日でした。ペリー来航に先立ち、イギリス船が琉球に、アメリカやフランス艦隊が浦賀や長崎に来て、大騒ぎになる年です。

 伝承とともに年表を整理していて、動物と共生するこの山里に、農兵設置、江戸湾防備の松材伐りだしなど、いよいよ荒波が押し寄せるな、「暑がってばかり居てはしょうがないぞ」と言い聞かせています。

(2019.07.31.記 文責・安島)

石川の里を書きました。">石川の里を書きました。

学校の先生も大変

学校の先生も大変

 明治も末から大正初年の頃のことです。村は財政難で、ついに、先生の給料が払えず、やむなく、先生が家庭訪問して未納の村税を集めてまかなった、という話が伝わります。

 当時の東大和市は、芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村に分かれていて、共通事務を処理するため「高木村他五ヵ村連合村」という広域の組織を作っていました。
 学校は小学校だけで、
 ・芋窪村に第一村山尋常小学校(豊鹿島神社境内)
 ・奈良橋村に第二村山尋常小学校(雲性寺境内)
 ・狭山村に第三村山尋常小学校(円乗院所有地・現狭山公民館)
の三つの小学校を作り、子ども達が通って居ました。

明治末・大正初期小学校位置図640
(クリックで大)

 その様子を内堀小十郎氏が『ふるさとの今昔』で次のように記しています。 

「明治末期、小学校の義務教育は、六年と記憶している。ほかに高等科があり二年制になっていた。いわゆる尋常高等小学校である。高等科は義務制でなく、希望者のみ進学していた。

 小学校は三校あって、その位置を地形的に見ると、狭山丘陵をはさんで、北側に谷戸(現在の村山貯水池)を有し、南側のふもとに面して、東西に長く点在した閑静な村落にあったのである。児童の通学に便宜をはかり、村の中央に一校、東西に一校ずつあった。就学児童は行政上の区画に従って、おおむね定められた学校に通学した。私は東側にある狭山の小学校である。

 自宅は現在湖底に沈んでいる、狭山村字内堀である。学校までの距離は、途中に川あり、田んぼあり、曲りくねった坂道を越えて行くのだから、三キロは充分あったと思う。

 夏の長雨のときなどは、自宅からハダシで、下駄と弁当箱を腰に結びつけ毎日よく通ったものだ。その弁当もお正月中は、家でついた餅をもっていくから、まずまず上等の部類だが、それ以外は、さつま芋が常食だ。全体の八〇パーセントをしめている。そのために、昼食時には児童の中から、交代で毎日、芋の皮集めをしたり、あと片付けをする当番がいた。

 また、冬期になっても暖房装置は勿論なく、教室の片隅に大きな角火ばちが備付けてあり、まきを燃やして暖をとったものだ。そのまきも生徒の供出で、各クラス毎に割当が定められているから、当った者はよく枯れたまきを五、六本ぐらいずつ背負ってくる。方々からくるので相当数集まる。こうして冬の期間中は過ごしていた。

 静かな田舎のさとにも、遠慮なく不景気風は吹きまくってくる。その余波を受けてか、先生の給料が時々遅滞していた。役場から給料がもらえない時は、家庭訪問をかねて児童の家から未納の村税を先生自からもらっていくのだ、と聞かされていた。それほどまでに当時の生活状態は深刻をきわめていたのである。」(内堀小十郎『ふるさとの今昔』p11)

 この状況はさらに続き、児童増に教室が不足し、大正7年(1918)には二部授業を重ねるに至ります。ついに、村々は二重行政の解消、教育施設の対応などを目指し、大正8年(1919)11月1日、6ヵ村を合併して「大和村」となり新しい出発をしました。

 大正12年(1923)、三つの尋常小学校を一つにして、村山尋常高等小学校を発足させます。現在の第一小学校です。
 この経緯を知ると、当時の先生、児童、村人の大変さをつくづくと感じ、じっとして居られなくなります。

  (2019.07.07.記)

 小学校の制限外授業料の徴収を書きました。

羨ましい鳥とサクランボ

羨ましい鳥とサクランボ

まちなかの街路樹にサクランボ!
毎年楽しみにしています。
今年も見事に実を結びました。

DSC_6823640.jpg
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いつもの年より実付きが多く、どうしたことかと疑うくらい多めです。 

DSC_6806400.jpg

東大和市桜が丘、桜街道、ヨーカドーとヤオコーの間です。
不思議に一本だけ、実を付けています。
しかし、よく見ると、サクランボがない枝がある!

DSC_6811640.jpg
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そこだけ、綺麗につまみ取られています。
いつも道路に真っ黒くなって落ちるのに、今回は一つも落ちていない。
ナンでだろう。
DSC_6868640.jpg
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急にバサバサという羽音です。
カメラを向けられているのもそっちのけで、夢中でむさぼり始めます。

DSC_6877640.jpg
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あっという間に一枝、食べ尽くします。

DSC_6839400.jpg

見渡せば、集団です。
なかなか人間様には食べられないサクランボ、こう、自由に食べられるとは!!
思えば、自分も鳥(酉)年、どうにかならないものかと
羨ましい限りでした。
仕方がないので、帰途、780円で、ほんの一盛り、買ってきました。

(2019.06.21.記)

 大和基地跡地の部分開放・一時使用を書きました。

嬉しい贈り物

嬉しい贈り物

「息子さんからですよ」
と懇意な配達屋さんが、15日(土)、雨の中、荷物を届けて下さった。

早速、開けるとチーズの詰め合わせ。

「今年も焼酎送ったわよ。麦でいいんでしょう」
「有り難う、楽しみだ」
と数日前、娘と電話で話したので、

「これで届けば、両方揃うな」
とつぶやいていると
「○○さん、もう一回来ました」
とさっきの配達屋さん。

「父の日に開けなさいよ」
と連れ合いに釘を刺されて、一日待って、本日。
両方並べました。

DSC_6804.jpg
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やっぱり、子ども達って、いいですね。
今夜は乾杯です。

(2019.06.16. 記)

 米軍大和基地について書いています
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野火止用水

Author:野火止用水
 歴史大好き爺です。

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